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広すぎず、尖らせすぎない科学コミュニケーションとは?

科学教育や啓発に何らか関与するイベントや広報誌に関する仕事をする際、私が注意することがあります。それは、参加する/読む対象を、広すぎず、しかし尖らせすぎないということです。

マーケティング的に言えば、ペルソナ(対象)はより具体的で明確な方が良いのでしょうが、こと教育や啓発に関しては「普及」も大きな目標の1つ。そうなると、ターゲットとなる対象はある程度絞りつつも、その周辺に当たる浅く広い裾野の人ともほんの少しでも良いから関連性が見えるようにすることが大事だと感じます。

尖らせすぎている科学コミュニケーションとは?

では、範囲を狭めすぎて尖らせすぎている科学コミュニケーションとはどのようなあるのか。

読み手が限られている刊行物

例えば、諸官庁や研究所の刊行物があります。

これらはいかにも世の中のために活動していますという程はあるものの、実際のところ一体どのくらいの人が読むのかという課題がいつも横たわっています。実際の評価は難しいでしょうから、指標は発行部数くらいしかありません。これも予算によって決まるわけですから、諸官庁や予算に余裕のある名の知れた大学が頑張ってようやく届くといったところでしょう。

無論、その存在も否定するつもりは毛頭ありません。ただ現実的な課題として、そのことは常に認識しておくべきだと感じます。

刊行物に限って言えば、紙媒体またはPDFの配信ではなく、記事ごとに公開するWEBメディアとして発信した方が、何らかの形で共感・拡散される可能性を残すことができるでしょう。

子供向けの実験教室

これもよくあるパターンで、私自身も時々やっているのが子供向けの実験教室。日本独特の事情を言えば、地方の科学館は科学教育センターとしての色が強く、また歴史的に学校の先生によって科学教育が推進された経緯もあって、観察や体験をとても重視します。その延長戦に子供向けの実験教室なども行われています。

無論、こちらも否定しません。けれど、なぜ子供向けなのか、どうして実験という方法を用いるのかはよくよく考える必要があります。科学実験というとでんじろう先生が有名ですが、有名になった結果、「実験は子供がやるもの」「実験や体験が科学コミュニケーションだ」という印象を強くしたとも捉えられます。それ以外のことをすれば、相手は裏切られた・おもしろくないと感じるかもしれません。さまざまなアプローチがある中で、対象や方法を狭めているという点では、やはりこれも尖りすぎていると見ることができます。

広すぎると、何もできなくなる

では逆に、広すぎる場合はどんなことが考えられるかというと、実はこれも気づいたら何もできない、もしくは気づいたら尖る方向に進んでいたなんてことがあります。

典型例は、ごく一般的な「教育啓発」と呼ばれるものです。

教育啓発したい人には2つの目的があります。1つは大事な知識やスキルを伝えたい。2つはそれをより多くの人に伝えたい。

結論から言うと、1つ目の目的その知識を知りたいと言う人は既に関心があるため、2つ目の目的は行動内容の良し悪しに関わらず既に実現しているかもしれないという可能性があります。広くやるつもりが、実は始める前から尖ってしまっているのです。

ここまで気づくと、ではどうしたら関心の浅い人に伝えるかという課題に直面するわけですが、残念ながらインフルエンサーのようなよほど影響力のあるメディアをもっていない限り、実現することは非常に難しいでしょう。

最近はオンラインイベントも盛んに行われています。しかしリアルタイムのイベントは基本的に「相手の時間を奪う」という側面を持ち合わせています。その対価に見合うかどうかは誰しも考えるはずで、関心がなければ参加しないし、もっと面白そうなコンテンツがあればそちらを選ぶはず。その中で、面白くも奥深い科学コミュニケーションを行おうとしたら、コンテンツだけでなくメディアとしての実力が試されることになるでしょう。

広げすぎず尖らせすぎない科学コミュニケーションの試行

では、広すぎず尖らせすぎないような科学コミュニケーションを実現するためにはどうしたらよいか。

これについては明確な答えを見つけているわけではありませんが、私なりに考えているのは以下の通りです。

  • さまざまな形態・多くの回数・多くの種類を早い期間でトライアンドエラーで実施し続ける

  • 実施した内容をWEBコンテンツにして発信する

  • 時間・空間・人・お金のリソースを増やすために、参加者と共に創るコミュニティーを形成する

質より量。まずは実行できるアイデア数の最大化を目指す

科学啓発ないし科学コミュニケーションが尖りすぎてしまう最大の原因は、手数の少なさにあります。リソースが少ない上に、実際に試されているアイデアの絶対数が根本的に少ない。そうなってくると、既存のアイデアに縛られて、気づくと「既に誰かがやっている」ようなものしかできなくなってしまいます。

つまり、科学啓発や科学コミュニケーションが一般化されていない時点では、質より量で勝負していく必要があります。さらに、さまざまな形態でチャレンジし、とにかく多くの数を回し、種類を増やしていく、これを短期間で行っていくバイタリティが必要です。トライアンドエラーで最初は小さくどんどん行う方が現実的な課題には対処しやすいと考えます。

多様なメディアで発信する

次に、実施したことは可能な限りWEBコンテンツにもすること。これはネット記事でも良いし動画でも構いません。科学啓発や科学コミュニケーションは何もしなければ無形物です。発信することを前提に企画できるならその方が良いし、そうではなくても何か記録に残していくことが必要です。せめて「こんなことを実施しました」という報告だけでもあった方が良いと思います。ちなみに私はそのような考えでオウンドメディアでポートフォリオを作成して公開しています。

コンテンツは参加者と共に創るという姿勢

最後にリソースの課題を解決する方法です。これが1番大事だと思っています。それは、参加者と共にコンテンツを創るという発想です。

共創を考えるとき、多くはイベントに協力的な仲間や理解を得られた研究者との共創はイメージしやすいでしょうが、それはあくまで主催者側の共創です。私が考えているのはそうではなくて、参加者との共創です。これが意外とうまくいっていないと感じています。原因は最初に述べた、限られたアイデアしか実施されていないことにつながります。

ある一部の最初から科学に興味のある人は、全体人口の何%でしょうか。これは実際に測るのは困難だと思いますが、私の中では0.1%を一つの区切りに考えています。1000人に1人。日本の人口1億2000万人中10万人。小中学校や高校、大学、科学館に来る人など対象を限れば割合が高くなるし、学習環境の影響もあるので講座やイベントを行えばそれなりに良い反応が返ってきます。しかし社会全体を見れば、何も学んでいない人も、科学に興味のない人、科学を信用していない人が相当数いるという現実から目を背けてはいけないと思います。

私が言いたいのは、そういうマジョリティな方にどうやって科学啓発ないし科学コミュニケーションを届けるか、ではなく、そのような人たちとどうやってコンテンツを一緒になって創っていくか、そこに活路があるのではないかということです。そのためには、企画者が普段からマジョリティの方が見ている情報に注目したり、実際に自分から科学と関係のないイベントに参加してみたりして、その人の目線に立つことから始めなければいけません。

これって、簡単にはいうけれど、専門を突き進みたい(つまり尖っていきたい)人から見れば、すごく面倒なことでもあると思うのです。そこで必要になってくるのが科学コミュニケーターのような、仲介者ではないでしょうか?

おわりに:一緒にできる仲間を見つけたい

最後に言い訳をしておくと、今回書いた内容は私自身も今模索を続けている状態で、実現しているわけではありません。実際にやってみて、後で誤っていたという可能性もあると思います。しかし、そうして初めて真の目標が見つかるのであれば、遠回りしても継続することに意味がある、といっても良いのではないかと思います。

私自身はさまざまな場所で活動している人とまずはつながっていきたいなと思います。あまりに尖った方向でやりたいことが明確な人とは、考え方を共有するのはちょっと難しいかもしれません。でも今回の記事で共感していただけたところが少しでもあるのであればチャンスがある、と思い、この記事を書きました。

もし興味が湧きましたら、ぜひ気軽にご連絡いただけたら幸いです。

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漆畑文哉
最後まで読んでくださってありがとうございます!

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