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8月がくるたびに(きょうの本)

 8月がくるたびにみんな戦争と平和の話をするけれど、ほんとうは夏のイベントめいたことではなくして、毎日噛み締めて考えてゆかなければならないことなんだろうなとおもってもいる、それでもやっぱり8月がくるたびに戦争と平和のことをおもう機会が多くなる、そんな感じのきょうこのごろです。

 夏のイベントめいた、それは75年以上まえに平和というものを持たなかったと噛み締めたひとたちから、75年まえより先の未来に生きてきたわたしたちへの習慣づけという名のおくりもの、と呼ぶには切実で凄惨なものかもしれないけれど、かもしれないなとおもったりもしています。
 習慣にでもしなければすぐに忘れてしまう。むかしあったことに対しておもいを寄せることもなくなる。それを未来に結びつけることもできなくなる、すくなくともわたしはそういう人間で、忘れっぽいぼんくらです。

 そんなぼんくらは、小学2年生のときに母の本棚にあった松谷みよ子『ふたりのイーダ』を読み、それからいまにいたるまで毎年8月になると読み返すという習慣をもっています。

 今年はふたりのイーダからはじまる直樹とゆう子のシリーズを読み返そうかなと本棚から出してきました。

 1978年に生きるこどもたちも、戦争のことを忘れたり、その話を疎んだり、でも完全にはなくしてしまえずにもがいたりしていた。

『屋根裏部屋の秘密』には、祖父が戦争中に現代の人権意識からすれば非人道的な実験をしていたことを知り、苦しむ少女が出てきます。

 以前にこのnoteに書いたこともありますが、この数年、わたし自身にもそのようなことがあり、これまで戦後50年平和教育を受けぼんやりととらえていた戦争というものに対する意識がかなり変わってきています。
 いいとしをしていまだにそれをどう考えていいものか、どうまわりに伝えていけばいいものか、わからないままこの物語を読みました。
 こどものときから数えて何度めかの読み返しです。
 とはいうものの、はじめて自分の身の上に結びつけて読んだこの物語はまたべつの様相を見せてくれました。
 登場人物たちのふるまいひとつについてもこんなに深く考えられていたのかと、我が身に置き換えてやっとわかりました。
 この物語を読んできたこどもたちのなかには、父の、祖父の、戦時の振る舞いをこの物語を読むことで自分のなかに消化できた子もいたかもしれないなとおもいました。

 続けて読んだ井上光晴『明日』は1945年8月8日の長崎に生きるひとたちの、それぞれの暮らしを描いたものでした。

 広島にも長崎にもゆかりのないわたしは、この75年にわたって広島や長崎に暮らすひとたちとはこの8月のできごとに対してもとらえ方がちがっているのだろうなとおもいます。
 この日のあたりに祖母が小倉にいたらしいともどこかで聞いたことがあるような、そして数年まえにネットニュースで見た、八幡のひとたちがこの日にしたという行いのことも、ぼんやりと頭の隅にはずっと残るのだろうとおもいながらも。

 たぶんだれにも正解がわからないだろうものごとに対して、すくなくとも考えるのはやめないでいよう、そうおもう8月17日のわたしでありました。






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