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お茶に関するあれこれ-2

「美しさ」というものは、伝統芸能一般、あるいは、和洋問わず、共通のものがあると感じますし、それに近づきたいと思いながら稽古をしています。お茶のお稽古で柄杓の取り扱いについてご注意を聞いていたときに、ふと、狂言の師匠の「型だけやってればいいわけじゃないんですよ!」という叱咤が聞こえてきた日でした。

お点前するというのは、お点前を見せるということであると思いますし、「見せている」という意識は、芝居では重要視されますが、お茶のお点前では、どうなんでしょうか?

見せるというよりは、おもてなしの心を意識するものなのか?

点前が美しくても心がないよりか、点前の細かいことを失敗しても心を込めておもてなしするほうが茶道は重要なのだと思います(確か、そんな利休の逸話もあったはずです)。

そこは、芝居とは違うところですね。
狂言ならば、その場を演じることができていればいいので、心に思っていることと、表に出ていることが違っていても、それはOKなんですよね。
プロの方でも、意味は分からないだけどね、、、という部分があったりして、
このように師匠がやっているから、やっているという場合もあります。
そんなんでいいの?と思われるかもしれませんが、声ができていればいいんです。

キャラクターと一体化した演技は、それは素晴らしいことですが、狂言は600年前の芝居ですから、どうしたって現代の私たちとは相入れないところが出てくる。
調べても訳せない言葉なんかも出てくる。
そういうところは、師匠の声を真似して、まずは、声から成立させる、型から真似る。そして、心もついてくるというところがあります。
分からなくても、真似ると、分かってくる。伝統芸能ならではではないかと思います。まず、説明や理由を求める現代とは大違い。

少し、脱線しましたが、「型だけやっていればいいわけじゃないんですよ!」というのは、型をやるのは基本でやるべきことだけれど、型を型としてやるのではなくて、型をどうやって見せるか、生き生きとするか考えろということなんですね。

「どうやったら美しく見えるか、成立するか、考えて、何回も試すんですよ!!」と言われて、素直に、足の掛け方や、扇の下ろし方だけを練習していた若いとき。

一つのことをやり続けるのが楽しかった。
それがスムーズにできて、さらに筋が通っていくような感覚。
頭が空っぽになって、洗練されていくような気がしました。愚直だったな。愚直は、良いことだと思いますが、歳もとったし、頭の使える愚直になりたいものです。若い時に比べて、圧倒的に自分に使える時間が減ってますからね。

お茶のお点前も手順ばかりになりがちですが、ひとつひとつの型の精度をあげて、心のこもった、美しいお点前でおもてなしできるようになりたいです。


お稽古場にて。

茶道や狂言のお稽古で必要なものに使わせていただきます。ぜひ、サポートいただければ幸いです。