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自律と共存への祝福~アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』~

 アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』を去る12月末に観に行きました。
 車椅子の少女と、夢を追いかける青年の恋物語。「クリスマスに公開するとは……やりやがる!(誉め言葉)」と思いつつ、軽い気持ちで観た感想は大満足、の一言でした。

 せっかく感動した映画。ただ面白かっただけでなく、この物語に自分はどんな感銘を受けたのか。『自律と共存への祝福』、そんな観点からアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』の視聴後感想や、感じたこと・考えたことを書いていきたいと思います。

 ※本稿は、アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』のネタバレあり・なし感想になります。障害者の恋愛という難題も含まれる今作ですが、登場人物たちの道筋に想いを馳せつつ、お付き合いいただければ幸いです。視聴回数は2回なのでところどころ台詞に違いがあるかもしれませんが、ご容赦を。

1.純粋に物語に入り込めるラブロマンス(ネタバレなし)

 趣味の絵と本と想像の中で、自分の世界を生きるジョゼ。幼いころから車椅子の彼女は、ある日、危うく坂道で転げ落ちそうになったところを、大学生の恒夫に助けられる。
 海洋生物学を専攻する恒夫は、メキシコにしか生息しない幻の魚の群れをいつかその目で見るという夢を追いかけながら、バイトに明け暮れる勤労学生。
 そんな恒夫にジョゼとふたりで暮らす祖母・チヅは、あるバイトを持ち掛ける。
 それはジョゼの注文を聞いて、彼女の相手をすること。しかしひねくれていて口が悪いジョゼは恒夫に辛辣に当たり、恒夫もジョゼに我慢することなく真っすぐにぶつかっていく。そんな中で見え隠れするそれぞれの心の内と、縮まっていくふたりの心の距離。
 その触れ合いの中で、ジョゼは意を決して夢見ていた外の世界へ恒夫と共に飛び出すことを決めるが……。
(アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』公式サイトより引用)


 しまった、ネタバレなしだと公式サイト以上のことが書けません(笑)
 夢を追いかける恒夫。肢体不自由で車椅子生活のジョゼ。
 通常、男女というだけで世の中には心の隔たりがあってもおかしくない。ですがさらに二人の間を分けるのは『健常者』と『障害者』という境。夢に邁進する恒夫と、諦めなければいけない夢があるジョゼ。様々な点で相反する二人は、きっと『似たような部分に惹かれる関係』ではなく、『お互いが噛み合うパズルのピース』のような存在だったのかもしれません。
 そんな二人の関係性を物語るのに一役買うのは、魅力的な役者の方々、アニメーション制作のボンズ、透通る声で主題歌を歌うEve。クリスマスの時期に見るラブロマンスとして、これ以上ないくらいうってつけだったと思います。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより

2.原作・実写映画・アニメ映画の『生々しさ』

 映画を見た後にネットで調べて、この作品には原作があることと、すでに実写映画化されていることを知りました。
 原作は1985年頃に田辺聖子さんが書いたの短編恋愛小説、実写映画は2003年に犬童一心監督のもと作成されたPG12指定の映画。
 原作・実写映画共に知らなかったのでネットの情報網に頼りますが、どうやら『足が不自由なジョゼと大学生である恒夫の関係性を描く』ことを共通の軸としつつも、それぞれが違う様相・展開を呈しているようなのです。

 詳細は本編に譲りますが、今回のアニメ映画になく、原作・実写にあるものが『障害者の女性であるジョゼを性的に消費しようとする男』のようです。また実写映画ではベッドシーンがあったり、ラストの展開もみんな笑顔の大団円というより、やや余韻が残るようなものでもあるらしい。
 現実の時代の移ろい、手掛けたアニメ製作陣が『ジョゼ』に見出したテーマ、アニメという環境下で映える演出……描写が除かれた理由はいろいろあると思いますが、原作ジョゼを形作るものに『性的被害と葛藤を持つ障害者の女性』があるということ、そこは注目されないアニメ映画版だとしても、ジョゼがジョゼたる本質として心にとどめておいたほうがいいのかもしれません。

3.現代の障害者と健常者の心のすれ違い(以下ネタバレあり)

 ※以下はネタバレありで語っていくので、ご注意をお願いします。

 物語としての恒夫とジョゼの恋愛はとても華やかで清々しくて、楽しくてドキドキワクワクして、映画を観終わって映画館を出るとき、マスクの下で自然とにやけている自分がいました。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。海辺での恒夫とジョゼ。

 ただ、やはりそれだけでは終わらないのが、ジョゼを形作る『肢体不自由』の存在だと思います。

 ジョゼは左右の足が不自由な女性として描かれていました。生活像としては、『自宅内はいざりや腕の力を使って移動する』かつ『屋外は車椅子で移動する』。障害者の身体能力に関する理解や福祉制度が、少なくとも昔よりは進んだ昨今。『電動車椅子』や恒夫が工夫した『調理台の階段』などの環境調整や、祖母や恒夫のようなヘルパーの手を借りることで『身の回りのことから家事洗濯のような社会生活はある程度一人でできる』程度のポテンシャル=最大能力を持っているのではないかと思います。
 ただ、健常者だって階を移動するとき、階段を使えるのにエレベーターやエスカレーターを使うように、実際日常で常に頑張るなんてことはないと思います。ジョゼにとっては世界が猛獣だらけだったように、外の世界で動くには種々のリスクがあります。冒頭の車椅子クラッシュのような事故や転倒もそうです。彼女の祖母の性格や環境も相まって、『身の回り以外のことは誰かにまかせっぱなし』というのが実際の彼女が選択している生活手段でした。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。「今日の夕飯はあたいが作るわ」

 失礼を承知で言えば、彼女は社会的弱者です。ただ個人的に、彼女はそれ以外にも社会に対するメンタル面でのハンディキャップを背負っているように感じました。それは『社会的弱者と強者の境目に立っている』ということです。
 先の説明の通り彼女は社会的弱者で、原作などではそれを利用して性的行為に及ぼうとするような輩まで出ています。しかしアニメ映画版の彼女が暮らすのは恐らく令和時代の社会だということ。
 身体から精神までの多様な障害を理解できず、抑圧されるばかりであった昔とは違う一面があるのが現代です。車椅子は電動にもなり、『道筋に気をつけさえすれば遅いけれど』かなりの範囲を動けるようになりました。駅員に頼めば電車にも乗れます。

 作中恒夫が受けたリハビリテーション、あれは元々その人の『障害をどう治すか』という観点があり、現在は『障害を含めた一個人の生活の質をいかにして支え創造していくか』という視点に変わってきています。『障害者を排除するのではなく、障害を持っている人も健常者と均等に当たり前に生活できるような社会』を目指すというノーマライゼーションの浸透も進みつつあります。
 科学が解明されていない時代は、肢体不自由をはじめとした障害や病気は悪魔や化け物が憑いたようなものだったかもしれませんが、現代においてはそのほとんどは「○○という病気の△△という症状によって障害が生じている」と説明できる。障害者と健常者の『体の違い』が明確にされ、そして『変わらない生活』を目指すこと、その考えが浸透しつつある社会ではないか。

 現代は『良くも悪くも昔と比べ健常者と障害者の垣根がなくなりつつある社会』だと思います。ただ、ジョゼのように工夫次第で自立した生活を送れる人は、自立が困難な人とは別種の苦しみを味わうことになると筆者は考えます。
 なぜなら「頑張れば自分で動けるのだから頑張れよ」と言われるからです。「環境を調整したりすれば一人で動けるのだから一人でやれる」と言われるのです。障害者や高齢者が選択した一見不便な行為に、当人にとってどんな重みと意義が込められているかに気付かずに。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。「あいつ泣かせてやる!」

 恒夫もなまじ、ジョゼを障害者という色眼鏡で見ることをしない真っすぐな人間でした。彼の優しさはおそらく、「ジョゼだから」「障害者だから」とかじゃなくて、彼自身が優しいのだと思います。そしてお茶を頼むジョゼと受ける祖母に対して、「ペットボトルにすればいいじゃん」と言う恒夫がいました。
 障害者と言われる人の中で、(もちろん当人にとって辛く苦しいものですが)比較して軽いものを背負うようになった人たちは、健常者から「『頑張れば』自分たちと同じ状態になれる・自分たちと変わらない」という進言を受け、頑張ることを強要される人たちでもあるのではないかと思うのです。健常者は、どんなに疲れていても頑張って階段を使わなければいけないのか?

 まだ『健常者と障害者が均等に暮らせる社会』は遠い。見せかけだけ同じように移動し、ものを見て、お風呂に入ってもそこに苦しみがあっては楽しくない。その一つ一つの営みに対する『心の充足』が均等であること……おおよそ不可能に近いようなその理想が、科学によって知識的には健常者と障害者の差異と共通点を理解できるようになった現代の私たちの、次なる課題でもある気がします。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。海に行くことは、彼女にとって「海の味」を問う亡き父との繋がり。

 だから『性的消費』の描写をなくしたアニメ映画版『ジョゼと虎と魚たち』は、令和になって障害者の『体』を理解しても、『心』が理解できない者の恋物語でもある。そんな風に感じたのです(男女の心なんていつの時代もわからないけどね)。

4.物語の始まり:彩あふれる世界に飛び込むジョゼ

 性別が違えば、学生と社会人の差もあり、立場も違う、体も違う、そして種々の事象に対する心の反応も違う恒夫とジョゼ。
 最初、険悪な仲だった二人はバイトという切れない関係を介して距離を深めていきました。
 他人に優しく、ジョゼの才能である『絵』をきっかけに彼女へと踏み込んだ恒夫。社会との関わりが薄くて辛い反応をするばかりだったけど、恒夫との関係を築けたジョゼ。
 『父親からの問題』のために海に行きたい。祖母の縛りもあって閉鎖的だった彼女の生活は、ここから好転していきました。映画を観たり、美味しいものを食べたり、真昼間の公園を散歩したり……健常者からみた当たり前をしたことがなかった彼女なら、アニメーションに映えるくらい、本当に心が弾む楽しい出来事。恒夫という『足』を経て彼女は、平坦だった半生を彩り始めました。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。もはやデート。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。もはやデートその2。

 個人的には二人のお出掛けを見ていて、『彼女をずっと内へ押し込めていた祖母は怒らないだろうか』と思っていたのですが、その心配は杞憂でした。相談員に対し「今にも走り出しそうや」と言った祖母チヅは、猛獣の群れに飛び込むジョゼを喜んだ。是非はともかくあくまでジョゼを想ってのことだったことに胸を撫で下ろしました。
 男女・年齢・社会的立場もろもろに関係なく、人間、自分を作り上げてきた価値観を破壊することは難しい。ジョゼの祖母であり親代わりであり話し相手であり、自身も『高齢者』という社会的弱者。そんな複数の役割を演じなければならないチヅは尚更、現在の家族の在り方を(それがどんな在り方であれ維持できている以上は)破壊することにためらいがあったでしょう。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。「外の世界は恐ろしい猛獣だらけ」

 そして確証なんてありませんが、その役割を恒夫に譲渡する宿命を果たせたからこそ……チヅはあんなにも急に、ポックリと旅立っていったのではないかと思うのです。
 ジョゼは家族の庇護のもと、恒夫と出会って、介助を受けて人生の彩りを増やす……自分の選択に満足できる生活を送れるようになりました。ここからは祖母の守りもなく、家族の枠組みとしては独りぼっち。自立でなく介助を受けても、自由にしたいことができなくても、確かに自分が選んだ道と責任を、自分の良い悪いもひっくるめた全身で抱えて歩いていく……『自律』へと向かっていく必要に迫られたのです。

5.夢を諦めるという選択肢の是非

 親類が逝ってしまった衝撃と悲しみ。それは文章で書くことすらおこがましいものかもしれません。
 例えば、不幸にも片足を切断するのであれば、その事実を受け止め、医療を受け、足のない生活に慣れて、義足に慣れるていく……途方もない時間がかかります。自分を形成する一部がなくなったのですから。
 家族という枠組みにおいても、人が亡くなった事実を受け止めること、各種の手続き、その人の分まで負担して家族という社会を成り立たせること。そこに慣れるには途方もない時間がかかると思います。

 ただ、ここでもジョゼの半身は彼女に牙を向いてきます。彼女が健常者と同じ生活を営むには、頑張り続ける必要がある。他者と違うことを受け止めること、猛獣だらけの世界で助けを乞うこと。
 彼女の物理的な生活を成り立たせるうえで、早急に相談員と面会し、生活のためのサービスを取り入れること。それは文句なしで必要なことです。その生活の中では、彼女の夢と原動力でもあった『絵を描くこと』など、ちっぽけな趣味にすぎない。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。現実と夢を繋ぐ絵の力。

 けれど彼女にとって『絵を描くこと』がそんなちっぽけな趣味でないことは、映画を観た多くの方が意を同じにしてくれるのではないかと思います。
 生活範囲の狭い彼女にとって、海や他の社会は想像や記憶の中のものでしかなく、その社会と辛うじて繋がることのできる絵の存在は、彼女の精神的な支柱であったはず。社会的弱者な自分でも、その能力を友達に評価してもらえるなら、良くも悪くも皮肉にも、自分と他者が同列である証明にもなる。
 そんな夢を一度諦めることになったジョゼ。そりゃ、自暴自棄にもなりますよね。

 そうした心の果てに恒夫と喧嘩をして、その後恒夫はジョゼを助けようとして交通事故にあう。
 この時のジョゼの心情ほど筆舌にし難いものはないと思います。好きな人が目の前で事切れそうになっている、なのに救急車すら呼べない。たまたま通った車の運転手が来なければどうなっていた? 自分のせい? 自分が代わっていれば? でもそうなったとき自分は? 彼の夢は? どうしてこうなったのか? 自分の足が動かないから?
 この多くは筆者の想像ではありますが……。

 幸いにも、恒夫は一命を取り戻しました。しかし彼に告げられたのは明確な事故の後遺症の可能性。
 脛骨だか腓骨だかの解放骨折、そして変形性関節症。恒夫は自分の夢を断たなければならないかもしれない……そんな状況にまで至りました。
 『メキシコにしか棲息しない魚を自分の目で見る』。恒夫がその夢を抱いたのは幼少の頃。語学勉強、生活費の工面、大学留学と、趣味では終われず文字通り人生をかけた夢。バイト仲間に「働きすぎだ」と言われるまで動き続けるその原動力は、夢ができた頃からの強いエネルギーに支えられている。それがなくなれば、先に述べたジョゼのように自暴自棄になるのもおかしくはない。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。学業に打ち込む恒夫。

 筆者個人としてもこの言い方で良いのかと悩みますが、この瞬間恒夫とジョゼは同じ障害者になった。もちろんジョゼのそれは一生かけて付き合っていくもので、恒夫のそれは治る可能性のあるもの、という違いはあります。ただ『求めて手を伸ばすものに触れられない悔しさ』という点においては同じだと思います。そして『頑張ればできるかもしれないから、他者が頑張れと言う』のも一緒です。

 ショックのままの恒夫。この状況を引き起こした者として、無力さを噛み締めるジョゼ。その二人を焚き付けたのは、恒夫の後輩である舞でした。
 描写から判ってましたけど、舞は恒夫のことが好きで、同時に夢を追いかける彼が振り向いてくれないことも理解していた。
 同時に、恒夫を縛りつけるジョゼにもある種のコンプレックスを抱えていて、彼女に対してもどかしさを感じている。

 自分が恒夫のそばにいたいのに、自分では恒夫の心までを励ますことはできない。だから自分の大切な人をかっさらっていくいけ好かない女を暴言と共に焚きつける。ジョゼは恒夫を馬鹿にされたように感じたのか、「恒夫は夢を諦めへん!」と舞に言い返す。
 恒夫とジョゼの存在の裏で、彼女もまた諦めなければならない理想を手放して、それでもその理想の近くに居続ける、という苦しみを乗り越えています。彼女もまた一人の成長した女の子として、祝福したいと思うのです。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。「私はいい女なの!」とか言ってたけど本当にいい女だな!

6.夢という苦痛を追う原動力、混沌を受け入れること

 そしてジョゼは恒夫を励ますために行動に出ました。それはかつて失敗に終わった絵本の読み聞かせ、これを自分の作品で行うこと。
 この絵本の物語は、『魔法の貝殻によって足を得た人魚が危険にさらされ、翼を持った青年と出逢う』話し。人魚がジョゼ、青年が恒夫で、ついでに言えば魔法の貝殻は恒夫の夢へ向かっていく心でしょうか。
 展開の対比は省略するとして青年は翼を失うところが、現実世界の交通事故までリンクしている。そしてそこから先は、読み聞かせをした時点では誰の物語でもありませんでした。
 翼を失った青年は光の海を見に行けないと嘆いても、人魚の励ましがあって、光の海へ船で向かうことになる。

 これはジョゼが、そうあってほしいという二人の未来を描いたものだと思います。物語は、ただ楽しいだけではない。子供から大人まで、多くの人がドキドキワクワクする話しに魅せられるのは、そこに込められた強い想いが受け取った人の現実に何らかの意義を付与しているから。だから時として社会現象になるほどに、創作物は私たちを魅了するのではないでしょうか。
 このジョゼのお話も、彼女の障害者としての半生や、恒夫との触れ合いで生じた喜怒哀楽が込められている。ジョゼが緊張しっぱなしで身も入らなかった『人魚姫』より、子供たちも神がかったジョゼの『何か』に夢中になれたのでしょう。
 そして恒夫もまた、この読み聞かせをきっかけに奮起して、『希望の翼をもらったから』とリハビリに熱を入れていく。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより。光の海を目指す。

 目の前にあった夢を一度断たれても、別の方法でたどり着くために歩いていく。一見して困難な道に奮起したわけですけど、それだけではないものも感じています。

 夢というのは、得てして長く苦しいもの。挫折することもあるし、心を壊すこともある。困難な道なら尚更、ただがむしゃらにやればいいわけではない。綿密な努力と工夫と忍耐が必要です。『夢を叶える人は必ず努力をしている』とは言え、『努力でも叶わない夢』は確かにある。
 そうであるとき、そもそもその夢を追いかけ続けるのか、という選択も考える必要はあります。『自分の殻を破る』とはよく言いますが、殻を破るのが許されるのは雛鳥が生まれるときだけ。実際に破るのは器なのです。身の丈に合わないだけの水をいれるために器を壊しても、新しい器を見つけなければ、その人に待っているのは破滅だけ。

 祖母が亡くなった時、そして事故にあった時のジョゼと恒夫は、そういった分岐点にいました。絵本作家と魚を見る、現在の自分たちの器には到底入りきらない夢という名の水。それを諦めて穏やかな生活に合う精神に迎合していくのか、破滅のリスクを負ってでも新しい器を探すのか。

 周知の通り、互いの絆や多くの人の助けによって新しい器を見つける道を選んだ二人。エンディングを見る限り、二人は破滅に陥らずに自分の器を見つけることができたように思えます。
 例えば祖母が存命の環境で、ジョゼは今のようにエンディングのように独り立ちして(もしかしたら)恒夫にしてあげたように影響を広められる絵本作家になりたいと思っていたのでしょうか。例えば恒夫は何事もなく夢を叶えられたとして、それ以降の人生に大学時代のような熱意を生み出せるのでしょうか。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』ロングPVより。夢を諦める選択肢。

 一度断たれた夢、それを改めてより充実した形で追い求めていくには、そこに至るまでの痛みを知らなければならなかった。それがあって初めて、ジョゼは独り立ちしていく強さを、恒夫は夢以外の大切な存在を見つけることができた。
 そんなエンディングの時の二人こそ、自律して自分の夢を追いかけるに相応しい存在になっているのだと思うのです。

7.自立から自律へ、依存から共存へ、二人の未来へ

 最後、再び車椅子クラッシュからの衝突を経て出逢い、お互いの気持ちを告げた二人。追う夢も、ジョゼの障害も、(快方に向かっているとすれば)恒夫の健康体も、眼で見て考えることのできる表面の状況は何一つ変わっていない。けれどお互いのこと、お互いの心のことは、少なくとも以前よりは知るようになった。
 ジョゼの創作した絵本で、人魚と青年は最終的に道を別つことになりました。それは最終的に二人が別々の道を歩いて行くことの示唆かと思いましたが、それは心の成長を遂げた二人が、幸せも苦しみもひっくるめて受け止めたことで、二人は依存ではなく共存できる関係性になったこと、『そのうえで一緒に歩いていきたい』というジョゼの願いのようにも思えました。

 依存ではなく共存できる。自立だけでなく自律している。物語として二人が結ばれたことはこれ以上ないグッドエンドです。ですがそれ以上に、ジョゼが『人魚と青年が別離する結末』を描けたことが、心の在り様として何よりのベストエンドだったのではないかと思うのです。

 恒夫は再び、メキシコへ行く切符を手にしました。ジョゼは自分を理解して事務仕事をこなし、その中で夢を追いかけます。健常者と障害者の違い、夢を追うことの快楽と苦しみ、数多くの矛盾を許容できた二人は、夢を叶えられるか以前に、人としての豊かな人生を送る第一歩を踏み出した。長い人生ではまた同じような苦しみが起こるかもしれないけれど、二人の物語を糧にしてこれからも自分の遺志で選択していけると思います。
 何よりもそのことを心から祝福したい。そんなことを思った、クリスマスから年末の1週間でした。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』公式Twitterより


お付き合いいただきありがとうございました。

記事を最後までお読みいただきありがとうございます。 創作分析や経験談を問わず、何か誰かの糧とできるような「生きた物語」を話せればと思います。これからも、読んでいただけると嬉しいです。