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許される「変わってる」と、許されない「変わってる」

「変わってるね」と言われ続けてウン十年。

どうも小さい頃の記憶があやふやなので、いつ頃から言われ始めたのかは定かではないけれど、とりあえず「どうせ私は変だから」という言葉が何をおいても一番に頭に浮かぶようになるくらいには、言われ続けていた。
幸い、就職してからは「変わってるね」と言われ続けてきた人が大量に働いている業界に身を置いたこと、「多様性」を認める社会へと進みつつあること、都会(と言っても札幌だけれど)に住んでいることが相まって、そんなに辛い思いはしていない。
辛くなることもあるけれど、それは周囲の言葉にやられるのではなく、自家中毒だ。

この「変わってるね」という言葉。
小学生〜中学生くらいまでの私の認識では、言われた人はもれなくハブられるという、かなり殺傷能力の高い言葉だった。
学生にとっての社会は学校しかなくて、人生も学校にしかない(と思っている場合が多い)から、そこでハブられるということは死を意味する。
実際、「え〜へんなの〜」と言われた日を境に、いじめられるようになった子を見てきた(私は何もできなかった)。

高校生の時、クラスメイトの中に我が道(かなり独創的)を行く人がいた。
「あぁ…この人、いじめられちゃいそう…」と思ったのをよく覚えている。
最初の数週間、その我が道を行っている人(我が道さん)は、存在を認識してもらえないグループの人だった(私もそこだった)。
ある時、何かのタイミングで我が道さんがおかしなことを言った。
クラス中が「え…?」という、しらけたような、空気読めよ…みたいな、なんともいえないおかしな空気になった。
だけど、その事件後の我が道さんは「なんかすげー変な人だけど面白い」みたいなポジションを獲得していた。
我が道さんは、私が見た「変わってるって言われても人生終わらなかった人」の最初の例だ。

高校生という、大人に差し掛かる年齢だったから、受け入れられたのかもしれない。
「変わっている」というのは、自分の中の「普通(マジョリティ)」と違うということ。
それを受け入れるには、「自分の中の『普通』と違っても怖くない」ということを経験していなくてはいけない。
けれど、やっぱり、大人になっても「変わっている」を理由に受け入れてもらえない人もいる。
要は、その人の持っている「変わっている」部分が相手にどれだけ恐怖や嫌悪感を与えるか、ということなんだと思う。

20代の頃、私はツンツンした印象を与える人だったらしい。
その頃、私をよく知っている人は、私がオタク故に無駄知識の幅(だけ)が広いことを知っているので、わからないことがあると私に聞きに来た。
しかしそれを側から見ていたら、「ツンツンした人が珍しい知識をしゃべっている」ように見えて、「こわそう」「プライド高そう」「性格悪そう」だと思われていたらしい。
知らない人と会った際、相手の感想を人づてに聞くと「なんかちょっと変わった子なんだねー…」だった。
もちろん、その人とはそれっきり。
30代になって、私は自分が莫迦であること、残念なオタクであることを隠さなくなった。
人前に出る時にはファッションに興味があるふり(ゴスロリだけど)をして「どうもーオタクでーす」と言う。
そうすると、「なんか変な人だけど、面白い人だよ」と言ってもらえるようになった。

思うに、「変わってる」が許されるか許されないかは、「変わっている」が乗っかっている土台がプラスかマイナスか、によるのだ。

例えば、全然知らない人がお向かいに引っ越してきて、庭で謎の踊りを踊っていたら、怖い。
全然知らない人には、土台がないから。
じゃぁ、十数年間お隣に住んでいる人だったら?
その人が、ゴミの日を守ってくれなくて、毎日テレビのワイドショーの音が外に漏れてて、話したこともないのに道ですれ違うと睨みつけてくる人だったら?
そんな人(土台が思いっきりマイナス)が庭で謎の踊りを踊っていたら。
怖いわ。
じゃぁじゃぁ、逆隣に住んでる人で、毎日笑顔で挨拶を交わしてくれて、ごみ捨て場で会えば世間話もしちゃうような、「感じの良い人だなー」なんて思ってる十数年来のおつきあいがある人だったら?
「最近はやってる健康法なのかな」って思う気がする。
その人の土台はプラスだから。

こんなに長々書いてきてアレなんだけれど、本当はもっと違うことが書きたかったんだ。
この話は「変わってる」が受容される条件であって、どれが許されてどれが許されないのかって話ではない。
まぁ、こんな日もあるさ(もう書くの疲れたよパトラッシュ…)。

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