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19世紀ロシア文学「余計者」の系譜①~ミハイル・レールモントフ


レールモントフが生きた19世紀前半のロシアは、圧倒的な専制政治に支配された時代でした。

それを打破すべく西欧の自由主義思想が広まり、農奴制などの改革を求める風潮が若者を中心に強まっていきました。

しかし、1825年に政府打倒を目指した「デカブリストの乱」が失敗に終わると、国内ではニコライ1世による専制がさらに強化され、苛酷さを増した弾圧が始まりました。

その結果、青年たちは活動の場を奪われ、高い理想を持ちながら能力をもてあまし、鬱屈した日々を送らざるを得なくなりました。

こうした背景により、19世紀ロシアとその文学の最も典型的なキャラクター像「余計者」が生み出されたのでした。

名作「現代の英雄」で知られるレールモントフもその一人でした。

早くから芸術の才に恵まれたレールモントフは、大学中退後に将校として軍務をこなすかたわら、詩作を行っていました。

そして、プーシキンの死に際して書いた詩編「詩人の死」(1837)で一躍名を上げましたが、その体制批判的な内容が皇帝の逆鱗にふれ、投獄されたのちにカフカース地方の連隊へ追放されてしまいました。

以後も宮廷社会との対立が絶えませんでしたが、彼は帝政ロシアから脱却した「自由なロシア」を称える深い祖国愛を歌い続けました。

しかし、旧友とのいざこざからプーシキン同様、銃による決闘で命を落としました。27才という若さでした。

自伝色が濃い長編小説「現代の英雄」(1840)の主人公ペチョーリンは、デカブリストの乱が鎮圧された直後、カフカースへ左遷された貴族青年将校です。

ペチョーリンは並はずれた知力と行動力と美貌にさえ恵まれながら、その資質を社会のために生かすことができません。決闘や淫蕩、放蕩に時間と精力を浪費し、破滅へと向かって行きます。

ペチョーリンの他にも、19世紀中頃のロシア文学には、このようなはぐれ者たちが多く登場します。

誇り高く冷徹な孤立者を主人公とした、国民的詩人プーシキンの「オネーギン」(1833)。
高い理想と教養をもちながら居場所を見出せぬベトリフ(ゲルツェン作「誰の罪か?」1846)。
弁舌の才に長けるも、活動の場を得られないルージン(ツルゲーネフ作「ルージン」1856)。
知力と行動力を兼備し、革命志向を抱きながらも不慮の死を遂げるバザーロフ(同ツルゲーネフ作「父と子」1862)。
ひたすら寝そべり、ぐうたらな日々を送る「ダメ人間」オブローモフ(ゴンチャーロフ作「オブローモフ」1859)。

このように社会からはみだし、人生の意義をどこにも見いだせなくなった虚無的な人物たちが、ロシア文学特有の「余計者」という人間像として系譜を成しています。

それは、後のドストエフスキー「地下室の手記」(1864)の語り手にも受け継がれていきます。

さらに延長解釈をすれば、同著者による「罪と罰」(1866)のラスコーリニコフ、「悪霊」(1873)のスタヴローギンらへと継承されていきます。

しかしこの頃には、ロシアのベクトルは20世紀初頭の社会主義革命に向けて大きく加速していたのでした。

ミハイル・レールモントフ(1814-1841~ロシア・詩人、小説家)
プーシキンと並ぶ近代ロシア文学の創始者。軍務につきながら詩作を始め、プーシキンの決闘による死に際して書いた「詩人の死」で一躍名を高め、小説「現代の英雄」で世界に名を残した。同書の英訳はナボコフによってなされている。プーシキン同様に、決闘に敗れ27才で世を去った。



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