見出し画像

四十八文字の話『フ』② -1 「復刻本 ( ふっこくぼん )❗」。伝説の教師「前波仲尾」氏の名著を紹介させて頂きます。

皆さん、今回は前回に引き続き「復刻本」についての話をします。

今回紹介させて頂く「復刻本」は
🌕「復原された古事記」( 著者  前波仲尾 ) 

ですがこの書籍を紹介する前に、まずは著者である「前波仲尾」( まえば なかお ) 氏とは一体どういう人物なのか、何をした人物なのか、を述べさせて頂きます。

⚪ 伝説の「教師」「校長」「指導者」


まず皆さんに質問しますね😁

学校の授業に関してです。

○「英語」の授業において、日本で初めて「発音記号」を導入し、活用した人物を知ってますか?


次に
○「数学」の授業において、日本で初めて「グラフ」を導入し、活用した人物、知ってますか?

一次関数グラフ


二次関数グラフ


これらの質問に答えられる方、どれ程おりますでしょうか?


正解は

「前波仲尾」( まえば  なかお ) 氏です。


復刻本に出会う前まで私は大変失礼でありますが、前波氏の存在を全く存じ上げておりませんでした。

ですのでこれを契機として、その後「前波」氏に関して色々と調べてみました。そしてその結果、知れば知る程に、この方の非凡な「教育者」「指導者」としての数々の業績が解りました。

どうしてこんな方が世間には殆ど知られず無名に近い存在なのか?、
そしてもっとこの方を世の中に知らせるべきだ、と思い、このブログを書いた次第です🙇


⚪数々の業績

前波校長は慶応三年 ( 1867 ) 年、越前 ( 現在  福井県 ) 生まれ。

慶応三年と言えばまだ「江戸時代」。
前年に江戸幕府の第十五将軍に就任した徳川慶喜 ( とくがわよしのぶ ) が京都朝廷に対し、大政奉還 ( たいせいほうかん ) を布告した頃になります。

その後紆余曲折を経て、前波氏は教員となります。

そして大正二年 ( 1913 ) 、当時は旧制中学、鹿児島県立鹿児島第二中等学校 ( 現  鹿児島県立甲南高等学校 ) に校長として赴任します。


鹿児島県立  甲南高等学校


皆さんも若い頃、そして現在の学生達も同じ様に、自分の「夢」、「目標」に向かって勉学に励んでいた事だと思います。


「あの大学へ行きたい」
「あの分野の研究をしたい」等々。

ではこの当時、前波校長の時代の学生達は、具体的に何を望んでいたか?
親御さんの期待を胸に、何を目標に勉学に励んでいたか?

その第一位、当時の男子学生の目標は、「海軍士官」( かいぐんしかん )、「日本海軍」の幹部生になる事です。

こう言うと「顔をしかめる」方々がいらしますが、これは紛れもない事実なんです。


そしてその夢を叶えるために、海軍士官、幹部を養成する学校である「日本海軍兵学校」( にほんかいぐんへいがっこう ) への入学が学生達の目標でした。


広島県江田島市  「海軍兵学校」生徒館
 🌻現在の海上自衛隊 ( かいじょうじえいたい ) 幹部候補生学校 


⚪「海軍兵学校」への入学難易度は現在の「東京大学」とほぼ同様、超難関でした。


日本全国若者のあこがれの的である「日本海軍兵学校」。

皆さんの中には、この学校を単なる「軍人養成機関」にすぎない、と思っている方いませんか?
授業の内容など「戦法」「戦術」「敵を如何に破るか」などだけだと思っていませんかね?

だとするばそれは大きな間違い❗、です。

まずこの学校に入るには一説によれば、当時の「東京帝国大学」( 現在の東京大学 ) との同等レベルの学力が必要。
もし当時に「偏差値」という指標があったと仮定すると、この学校に入るには偏差値は「90」くらいは必要だったと言われています。

そして入学後の授業の内容も凄かった様です。
当時の各分野の最高クラスの教師達が、基礎的教養 ( 国語、数学、物理、英語 ) を教えていました。

ですので現在の進学校が東京大学への「合格者数」で評価されるのと同じ様に、この当時は、「海軍兵学校への合格者数」がその学校の評価判定基準の一つとなっていました。


こんな状況の中て赴任した前波校長。
生徒の実力を高めようと並々ならぬ努力をします。
そしてその成果は見事に実を結び、第二十回卒業生の海軍兵学校入学者数が全国一位となって鹿児島二中の名を全国に轟かせます。


🌕先程の質問させて頂いた「発音記号」や「グラフ」などを前波校長が授業に導入したのはこの時代です。この当時は校長先生が自ら授業をも受け持っていたそうです。
ですがこの「日本初の導入」と「合格率トップ」とに何らかの「因果関係」があったかどうかは、はっきりとは分かりませんがね。


ですがこの時に前波校長が行った教育は当時としてはあまりにも革新的であったそうです。
ですからそのためか、地元鹿児島での風当たりが次第に強くになった様で、二年八カ月の短い期間で鹿児島二中を去りました。

前波校長がこの時、どんな教育をしたのか?、などの具体的記録は余り残っていませんが、卒業生のお一人である本田氏は下記の様に述べています。


○元毎日新聞社長、同最高顧問、毎日放送会長の本田親男氏は日本教育新聞の「わが師わが母校」に次のように書いています。

「前波校長は他の県から二中に赴任して来たためか、それまでの伝統的な鹿児島風の教育ぶりとは違い、校長がご自身で集めた数多くの若い先生たちも元気溌剌 ( はつらつ ) として、いかにも新風あふれているように思われました。
英語の副読本には英国からたくさんの小冊子を取り寄せて、例えばオランダの堤防の水漏れを防いだ少年の物語などを読ませてくれた。

毎週、「毎日新聞」や「朝日新聞」などの社説をプリントし、生徒は勿論、先生方にも読ませ、その感想、意見を提出させたりもした。

また鹿児島の英雄である「西郷隆盛」( さいごうたかもり ) への批判は、地元鹿児島ではまったくのタブーであったのに、前波校長は教室で遠慮なく西郷さんの不徳の点を指摘してはばからなかった。

校長の教育は万事奔放であったので、中学校を上級学校の予備校のように考えていた秀才の生徒たちはずいぶん困っていたようだが、私は前波校長の影響を受けたせいか、ひたすら一路、新聞記者になろうとそのところから決めていた」

⚪当時の世相、「日本海軍兵学校」どうして当時の学生達の憧れ、なのか?

「日本海軍兵学校」についてですが、当然、その時代の世相がありますので一概には言えません。

ですが皆さん冷静に考えてみて下さい。
「軍人」って一体何者か、法律上どんな立場の人達か?

答えは「国家公務員」なんですよ。

その「国家公務員」の幹部を養成するのですから、現在で言えば「財務省」や「文部科学省」の高級官僚の養成学校に当たります。

だとすれば、後々には日本の外交団の一員して、諸外国の外交官や閣僚などと交渉し、条約を結ぶ重要な役割を担う立場に立つ❗人達ですから、生半可な知識、教養では勤まりません。

先程も言った様にこの学校は超難関、授業の内容も当時の「最高クラスの教師達」が担当してました。
ですからこの「海軍兵学校」の卒業生達からは、日本の数々の指導者が名を連れています。


第三十代内閣総理大臣  斎藤実 ( さいとう まこと )  

昭和七年 ( 1932 ) に起きた海軍士官を中心としたクーデター、「五  一五事件」の後、内閣総理大臣に就任。

当時は「満州国」の承認について、日本と諸外国との対立があった時代。この難しい難局に対処します。

この方の英語力は歴代総理の中でも相当のもの❗だったそうです。外国要人との会話でも公式会談を除いては、ほとんどを通訳なしでこなし、日記まで英文で書き綴るほど。

この難しい難局において、日本のリーダーとなり、政局を取り仕切った斎藤総理大臣。
その手腕は勿論ですが、その英語力は一体いつ修得したのか、解ります?
おそらく、海軍兵学校時代からなのではないでしょうか?


○第四十二内閣総理大臣  鈴木貫太郎 ( すずき かんたろう )


正に有史以来の日本の最大の危機であった昭和二十年 (1945 ) 。この四月に内閣総理大臣を拝命します。


鈴木内閣の閣僚達



各方面からの反対、場合によっては軍部によるクーデターが予想されていた中、『昭和天皇』御臨席の「御前会議」( ごぜんかいぎ ) を開きます。
『昭和天皇』のご意志を拝命し、それを『玉音放送』( ぎょくおんほうそう ) で日本国民に伝える事により、「ポツダム宣言」反対派を黙らせ、受諾を正式に決定。
これにより終戦への、戦争を終らわせる道筋が出来、日本、日本国民を滅亡から救った人物です。


『昭和天皇』御臨席  「御前会議 」


さて話を戻します。

前波校長は鹿児島をあとにし次の赴任先へと向かいます。そこでも氏の画期的な授業が行なわれた様です。
それについては次回のブログで述べさせて頂きます。


( 続く )


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?