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「短歌について」について

先日、ひょんなことから本の整理をしていたら、うずたかく積み重なった本の山の中腹あたりから「西田幾多郎随筆集」が出てきた。この本はしばらく見ていなかったし、その存在すらちょっと忘れかけていたので、何だか申し訳なく思って、手にとって頁をひらいてみた。タイトルは随筆集であるが、実際は随筆だけでなく詩や短歌など(そのほかに日記や書簡など)も収められていたことをふと思い出して、ちらっとどんなものだったのか見返してみたくなったのである。

本を手に取って開くまでは、どんな内容のものだったのかを思い出せていないくらいだったので、当時はあまりたいして感銘を受けるような詩や短歌ではなかったのかもしれない。やはり西田といえば哲学であり、短歌でどうこうという人では決してないのである。だが、ぱらぱらっと見てみて、すぐに思い出した。それが西田の実生活の中で折々の場面で詠まれた、実に実直な哲学者西田幾多郎らしいうたであったことを。西田哲学や人間西田を研究するうえでは、何かの究明の手がかりや資料となるうたであることは間違いはなさそうだ。

しかしながら、そういうもの以上でもそれ以下でもないというのが、やはり西田のうたの実際のところであった。久々に読み返してみて、あらためてそんなことを実感した。さらに、ぱらぱらと頁をめくっていると、「書の美」という随筆のところに付箋がつけられていることに気がついた。何の目印に付箋をつけたのか、今ではさっぱり覚えていない。その付箋のついたところを、ちらちらと読み返してみれば、何かわかるのかもしれないが、それよりも気になる文字が先に視界にぽーんと飛び込んできてしまっていて、もうそちらの方にすっかり気を取られてしまっていた。

「書の美」の少し後の頁に「短歌について」と題された随筆があった。「西田幾多郎随筆集」の中の随想セクションの最後におまけのようにぽろっと入り込んでいるごく短い文章である。もしくは、そのすぐ後に控えている歌と詩セクションのイントロダクション的に配置されているものともいえるであろうか。とりあえず、そのそのものずばりなタイトルが目に飛び込んでしまったので、おもむろに「短歌について」の頁を開き、ちらっと読んでみた。つまり、どのような内容の随筆であったかは、その時点ではやはりすっかり忘れてしまっていたということである。

さっとその随筆を冒頭から読んでみて、かつて読んだことはすぐに思い出した。内容もだいたい頭の中にぐんぐんよみがえってきた。だが、それを読む自分が、それを読んだころと現在とでは幾分か違っていることに、あらためて何となく気付かされることにはなった。つまり、かつてそれを読んだときには、今現在のように毎日せっせと短歌を詠んだりはいしていなかったのである。自分でも短歌を詠むようになってから読む、西田幾多郎の「短歌について」が、まだ短歌を今のように詠んでいなかったころに読んだ感じとは、少しばかり違ってきているように感じるというのも、まあそれなりに当然といえば当然なのもしれないが、自分としては、何かそこのところが何ともおもしろく感じたのだ。

そして、やっぱりかなりぎょっとさせられるのは、西田幾多郎が随筆「短歌について」の書き出しを「ベルグソンは『創造的進化』において、」としている点である。短歌とベルクソン。短歌と「創造的進化」。当たらずとも遠からずといえるほど近くもなく、直感的にはかなり遠いような感じはするが、西田の頭の中では、ぱっと短歌の随筆の冒頭に思いつくくらいには、それとこれは近く結びついていたということなのであろう。今も昔もそれほど短歌とベルクソンの「創造的進化」がそのように結びついている人は多くはないかもしれないが、そういう頭の中身をもつ人である西田が実に西田らしくてよいのである。この書き出しに西田らしさが目一杯に詰まっており、それが随筆の冒頭から思い切り炸裂しているのである。普通のよくある「短歌について」らしい「短歌について」が読みたい人がどう思うかはわからないが、この西田幾多郎だからこそな書き出しは、わたしにとってはとてもたのしい。

余談ではあるが、今年八十歳になった作曲家の池辺晋一郎が「帰ってきたN響アワー」(Eテレ「クラシック音楽館」二〇二三年一一月五日)と題されたテレビ番組に出演していた。最新作の交響曲第11番「影を深くする忘却」のことなどについて書き出すと長くなりそうなので、ここでは番組内容の詳細は割愛をするが、その中で池辺を語るうえで決して欠かすことのできない一要素である笑いについてちらっと話をする場面があった。そこで池辺は、やはりベルクソンの「笑い」をまず引き合いに出してから笑いとうものについての話を始めていた。池辺がベルクソンの「笑い」について言及することは、取り立てて珍しいことでもないし意外でもなんでもない。だかしかし、八十歳になった池辺晋一郎がちゃんと今でも「ベルグソン」と言っていたことが、何ともよかったのである。ベルクソンではなくベルグソン。西田幾多郎の随筆の書き出しもベルグソンであった。ベルクソンではなくベルグソン。

ベルクソンは、かつてベルグソンだった。長いこと日本ではベルクソンは、ずっとベルグソンであった。しかし、前世紀の最後半あたりに、グローバル化の波が世界の東の端っこにも到達したのか、もしくはベルグソンと日本語英語的な発音で呼び習わしていることを恥だと感じたのか、ベルクソンは母国での発音に近いベルクソンと呼ばれるようになり、そう表記されるようにもなった。わたしが最初にベルクソンを知ったころには、ベルクソンはまだベルグソンであったと記憶している。だが、しばらくするとベルグソンはベルクソンになっていた。わたしも、いつの間にかベルクソンと呼び、ベルクソンと書くようになった。たぶん、わたしの中でもベルクソンがベルグソンだったころよりも、ベルクソンになってからの方がもはや断然長い。今では、ベルクソンがベルグソンであった時代を知らない人の方が多いのかもしれない。だが、池辺晋一郎にとっては、ベルクソンはベルグソンなのである。何がどうなろうがベルグソンはベルグソンなのである。ずっとずっとベルクソンはベルグソンであったのだから、それは変わらないのである。周囲がいくらベルクソンと言ったり書いたりしていても、そう簡単に変えたりしないところに池辺晋一郎のよさがある。周囲に合わせて何でもほいほい変えてしまうようでは、やはり交響曲を第11番まで書くような偉業を成し遂げることはできないであろう。ベルグソンはベルグソン。そういうちょっとしたことにおいてすらも少しも信念を曲げようとしないようなところこそが、創造をする人間にとって、実は必要不可欠な資質であるといえなくもない、のかもしれない。

西田幾多郎は「短歌について」という随筆において、短歌の何についてを書いておきたかったのかというと、それはその冒頭部分において概ね語り尽くされている。つまり、その「ベルグソンは『創造的進化』において、」という書き出しに続くセンテンスにそのすべてはあるということである。西田は、ベルクソンが『創造的進化』において論じたエラン・ヴィタール(生の飛躍または生の躍動)を引き合いに出して、そうした躍動する生命(西田は「生命の大なる息吹」と書いている)が「深い噴火口の底から吹き出される大なる生命の焔」となっているさまや「かかる焔の光」というものを表現するものが「詩とか歌とかいうもの」であるといっている、のである。詩やうたというものが何であるかということは、なかなか言葉では言い表しづらいものであるし、そういうなかなか言葉では言い表しづらいものがそこにあるからこそ、詩やうたというものでしか表現のできないそういうものが(深い噴火口の底から吹き出されるが如く)「詩とか歌とかいうもの」の形を借りて出てきてしまっているのだともいえる。『創造的進化』を読んだ西田は、ベルクソンの論ずるエラン・ヴィタールという概念に触れて、もしやこれは短歌を詠むということと相通ずるものがあるのではないかと直感したのであろう。そうした西田の中に生じた短歌についての実にフレッシュでダイレクトな感覚が、この「短歌について」という随筆には込められている。

短歌について語ることは、とてもむずかしい。わたしのようなものには、短歌について何かを語れるような資格はまだこれっぽっちもない。だが、西田幾多郎が「短歌について」で書いていることは、まあまあすごくよくわかるものがある。だからこそ、短歌について語ることは、そう簡単に言葉では言い表すことにできぬことのように思えてもくるのである。

しかし、そんなわたしにも、何か短歌について思うところはある。何もないわけではない。まがりなりにもわたしも短歌を詠むものであるわけであり、そういう思うところがあるのであれば三十一字(時には三十二字のこともある)で言い尽くせばいいのだけれど、いまだ歌人としてはきわめて稚拙であり、それだけではなかなかどうして言い尽くせない思いというのもあるにはあるというのが本当のところだ。実に気恥ずかしいことではあるが、短歌について少し思うところがあり、今こうしたものをつらつらとたどたどしく書いている。というわけである。

過日、グーグルにおすすめされて、何とはなしに短歌にまつわるひとつのインターネット上の記事を読んでみたことから、それははじまった。いや、少し思うところがある状態がはじまったのは、もう少し前のことで、何となくもやもやしていたものが、そのある記事を読んだことで、少しずつ形を成して動き出したということだろうか。とにかく、それがひとつの何らかのはじまりになったのである。そのときにわたしが読んだのは、東郷雄二のウェブサイト「橄欖追放」に掲載されていた「2023年度角川短歌賞雑感」という記事であった。天下御免のグーグルにおすすめをされて、このとき初めて「橄欖追放」にお邪魔させていただいた。これはカンランがどうかしたとかいうようなことなのだと思うが、恥ずかしながらよく意味はわからない。わかったところで、わたしなどはまったくの門外漢であり、たぶん真っ先に追放されるものなのではなかろうかという思いもあって、あまりわかりたくないような気もしていたりする。もしかして、これは短歌の上級者が使うスラング的なものか何かなのだろうか。そう考えると、さらにこわくてたまらない。

「2023年度角川短歌賞雑感」は、そのタイトル通りに角川短歌賞(第69回)についての記事であり、その受賞者(大賞の方と次点の方と佳作の四名、あわせて六名の方々)の紹介を兼ねて今回の短歌賞全体から感じられた諸々の雑感というか、コメントというか、それらに対して思うところのものの諸々が書き記されている。これはこれで非常に興味深い記事であった。こういう短歌賞の世界というものがあるのだと、初めて教えていただいたというような感じがして、いやあすごいなあとただただ感心するばかりであった。よって、その受賞者や受賞作品について、わたしなんぞが何か思うところがあるわけでは決してない。そして、それに対する東郷雄二の諸々の雑感について、何か思うところがあったというわけでもない。わたしの思うところは、それらとはまた少し別のあさっての方角のところにあるような気もするのである。それゆえに、何かより全般的な短歌について思うところがあったということであったわけである、というしかないようなわけであるのである。

まず、何かちょっと興味深いなと思わされたのが、佳作に選ばれた永井駿「水際に立つ」に対する選考委員の評価について書かれた部分である。作品中で作者はどこだか(どうやらそれは広島の大久野島であるらしいと東郷雄二は指摘している)に旅行だかで出かけており、そのときのことを詠んだうたの連作を作品にまとめている、らしい。しかし、短歌賞の選考委員は全員が作品中で作者がどこに行ってどういう場面をうたに詠んだのかさっぱりわかっていなかったという。どこなのかもどんな場面なのかもわからずに(純粋に短歌そのものを評価して)点を入れた評者もいれば、最後まで迷ったものの点を入れなかった評者もいたようだ。東郷雄二は、佳作の永井駿の作品について触れた雑感のセクションの最後を「場面がわかっていたら選考委員の評価も少し変わったかもしれないので残念だ」と締めくくっている。確かにそうだろう。もしそうであったなら評価は今とは少し違ったものになっていた可能性は高い。もしそうならば、ああ、あれね、うん知ってる、うん知ってるよ、あそこのあれのことだよね、うんうん、これね、そうそう、わかるわかるよ。などということになるということも、それならば十二分に考えられるからである。

だがしかし、もっと大きく短歌というものについて考えてみるとき、うたの作者が、どこかに行って、どこかのどの場面を見て、そのうたを詠んだのかがわかること、もしくはそれがわかるようにすることは、どれほど意味があり、どれほど重要なことなのだろうか。それは、そのうたを何らかの形で評価するときの、うんわかるへとつながったりはするのであろうが、それはそのうたから作者が伝えようとしていた何かが伝わっているということと同じことなのであろうか。わかるは、それでそのまま伝わるなのか。どんなにわかっていたとしてもちっとも伝わっていないということもあるのではなかろうか。

うたを通じて詠む人と読む人がまったく同じ感情をともにもつというようなことは、はたしてあるのだろうか。どこかに行って、そこで詠む人と、そこに行かないで、別の場所でそれを読む人が、同じ場所の同じ場面を(共時的な経験のように)見るようなことは可能なのだろうか。うたから何かが伝わっていれば、それらしきこともあるのかもしれない。しかし、そのほとんどは、実はただ単に錯覚なのではないだろうか。うたの背景にあるその場所が、実際にどこなのかがわからなくても、伝わるものは伝わるのだろうし、背景がわかっていたとしても、伝わらないときは伝わらないのだろう。

「万葉集」のうたを詠んだ万葉びとは、どこにいてどんな風景や景色を見ながらうたを詠んだのだろう。現代を生きる人間には、もはやそれを明確にわかることはできないだろう。何となくそれらしい場所や場面を想像することは可能かもしれない。すでに膨大な量の万葉集研究の文献もある。そうしたものを通じて、わかるに近づくことも可能だろう。しかし、いくら想像してわかったつもりになれたとしても、現代の読む人の頭の中に描かれているイメージは、もしかするとほとんどの部分が錯覚でしかないのかもしれない。それでも、万葉のうたを読み、何か伝わってくるものを感じ取ることはできる。明確にわからなくても、明確に知ることができていなくても、何か伝わるものがあれば、それはそれでいいのではないか。万葉びとも洋服を着てスマートフォンをもっている現代人に自分たちが生きた場所や見ていた風景や景色を明確にわかったり知ることができるとは(きっとたぶん)思わないだろう。それでも、自分たちの生きた場所や見た風景や景色がすっかり失われてしまったとしても、一二〇〇年以上も残りつづけたうたから何かが現代の人間にも伝わるものがあるのであれば、それはそれで嬉しく感じるのではなかろうか。

もしかすると、うたを読む人が、うたの背景やうたを詠む人のことを明確にわかること、明確にわかろうとすること、明確にわかったつもりになるようなことは、それを読んで(読み尽くして)、読み解こうとする(読み解いてしまおうとする)側の、ちょっとした思い上がりめいたものでしかないのかも知れない。読む側で一方的にそれがわかったといっていても、実際のところそれでどうなるということもなかったりするかも知れぬから。そういう次元のことであるならば、わかることは逆に恥ずかしいことでもあるのかも知れない。ことによると、わかるだけで満足してしまったり、わかろうとすることの方に大きく比重がかかってしまい、(ストレートに)伝わる(べき)ものが(うまく)伝わらなくなってしまうことだってあるのかも知れない。

うたの作者が、その作品がどこの場所でどういう風景や場面のもとで詠まれたのかを、明確にわかったうえで作品を読んでもらいたいと思うのならば、それを作品の中に直接に(もしくはあまり婉曲になりすぎない程度に間接的に)詠み込むというのが筋というものだろう。松尾芭蕉が「松島やああ松島や松島や」と詠んだように。わかってもらいたいことをわかるようにしるしておくのは、まあやはり当然のことといえるのではなかろうか。ここで、わたしがこうしてしるしていることは、かなりわかりづらくて、読む人によってはまったくわかるようにしるしてはいないと感じたりするものであるのかも知れない。だが、それは、もしかするとわたしがはなっからわかってもらいたいと思っていないということのあらわれであるのかも知れないのである。よって、もしもうたの作者が、直接的にも間接的にも何か特定の場所や場面について(匂わせもせず)うたに詠み込んでいないのであれば、それを読むということにおいてうたの背景にある特定の場所や場面をわかっていたり知っている必要は特にないということなのだと考えてもあながち間違いではなかろう。

どこのことを詠んだのか、何についてのうたなのか、具体的にそれがわからなくても、何かがうたから伝わればそれでもう全然よくて、それが伝わるということが一番重要なことだと、うたの作者は考えている。よって、芭蕉の「松島や」のように明確にわかる伝わるような形ではうたを詠んではいないということなのである。しかし、直接的にも間接的にもはっきりと明確にわかるようにしていないうたを詠んで、それによって作者がそれを読む人の知識や経験の度合いを試すような作品もあるにはある。わかる人にはわかるとかわかる人だけにわかればいいというような、それを読むもののわかるや知ってるにおもねるうたを詠むことは、それはまさに作者の側の思い上がりであるというほかはない。人を試すような行為は、うたであれなんであれ人として言語道断のきわめて次元の低い行いである。そのようなわからない人や知らない人には、わかる必要も知る必要も読む必要もないというようなうたを詠む人のうたに触れたところで、それは平気で人を試すような唾棄すべき人間性に触れるというのと同じことであり、まさしくただの時間の無駄であって、そこには何のメリットも存在しない。仲間うちだけでわかるような非常にみみっちい詩に接するよりも、それならばむしろ誰ひとりわかることのできない常人の理解を敢然と拒むような孤高の詩に触れていたほうが断然よい。詩とは、短詩とは、そういうものである、と思う。西田幾多郎もその主著「善の研究」において、イマヌエル・カントの教えとして「汝および他人の人格を敬し、目的其者として取扱えよ、決して手段として用いる勿れ」と書いている。

そして、もうひとつ思うところのものを思うようにさせられるような部分があった。それが、文末にアドヴァイス的に添えられていた、角川短歌賞で受賞を狙うための「傾向と対策」について書かれたところである。非常に乱暴にであるが大まかにいってしまうと、それぞれの選考委員の好みそうなうたを満遍なく作品中に散りばめてポイントを稼ぎ総合的な評価を押し上げれば賞をゲットすることができるかも、といったようなところを角川短歌賞の「傾向と対策」としてふまえて応募するとよい、ということ。これには、はあ、なるほど、と唸らされた。そして、短歌賞というのは、こういうものなのかと、目から鱗が落ちるような思いも抱かされた。しっかりみっちり短歌のことを幅広く勉強して、あらゆるタイプのうたをそれぞれに技巧を凝らして詠むテクニックを身につけている猛者であるならば、このような「傾向と対策」をふまえて、なんだちょろいねと応募して、さくっと受賞してしまうものなのであろうか。角川短歌賞なんて朝飯前でしたなんていったりなんかしながら。

つまるところ、賞を獲ろうとするならば、評者である選考委員の趣向嗜好をピンポイントで最初からしっかり意識しながら意識的な作品作りをしろということらしいのだ。どうやら、実際にそれをやって見事に受賞した人が、現在は選考委員しているようなので、これはかなり本当らしい話である。いや、本当に本当の話らしい。本当なだけに、実に説得力のある御説ではある。うたの内容をわかりやすくして、それを読む人の好みに合わせて、作者の性別もわかるようにする(性別で分かれるものがあるなんて、短歌って、どこかスポーツの世界っぽい)。そうすることで、この世界でプラスになることは、実は相当にあるということなのだろう。だがしかし、素人同然のわたしなどは、別に性別などの背景的情報なんて誰にでもわかるようにしなくても全然いいと思うし、内容を誰かの好みに合わせたり、意図的にわかりやすくする必要もちっともないと思っている。何も考えずに、ただ詠みたいように詠めばいいのではないか。何とか賞をとるための短歌の世界というのは、わたしの考えている短歌の世界とは、またちょっとというか、かなり違うものなのかもしれない。たぶん、おそらくは、きっとそうなのだろう。

結局は、何のために短歌を詠んでいるのか、という問題ということになるのであろうか。ただ賞をとるため。それだけを目的に、短歌を詠むということなのだろうか。近ごろの世の中は、なんとかパを重視する傾向が非常につよいときく。手っ取り早く短歌を詠むことに対する達成感が得られて、ついでに富や名声も手にして、ついでにソーシャル・ネットワーキング・サーヴィスで多くのフォロワーを獲得したり、たくさんのいいねをもらったりしたいのならば、なんとかパ重視でさくっと賞を獲ってしまうのが一番のショートカットなのであろう。それとも、何となくいい短歌を詠みたいと思っていると、前もってちらっと頭に入れておいた「傾向と対策」にそった、いい短歌がぽろっとできてしまって、あれよあれよという間に受賞しちゃうということが、ごく自然にあったりするのだろうか。今の時代の若い人々の間では。とても頭の中身が、全面的にしっかりとした建て付けでできていて、きっと短歌以外のことなどについてもきっちりと色々と世界や世間が求めるものを難なくこなせてゆける人であれば、そういう(こちらの側から見ると、ちょっと)離れ技めいたことも可能なのかもしれないけれど。

残念ながら、わたしはちっともそういった利口な頭の中身をもつ人間ではないのである。だから、そういったなんとかパのよい合理的に計算し尽くされた短歌作りにはこれっぽっちも向いていなさそうなのである。そのような、あきらかに何とか賞をとる短歌を詠むことには向いていないということは、短歌以外のことにおいても、あんまり誰かの好みに合わせてサーヴィス精神をほいほい好き好んで発揮したりすることのできるようなタイプではないことからもはっきりしている。なので、そういったもの以外の野良の短歌の世界でならば、もしかしたら何とかなるのではないだろうか、とは思うのだけれど。あまり短歌の世界にあかるくはないので、そういった世界があるのかないのかはまったく存じておらぬのだが。

賞をとるために、受賞者を決める権限をもつ人に高く評価されるために、それ用にあえてあえてのうたを詠む。自分の詠みたいものを、自分の詠みたいように詠むのでは、まったくなく。何の制限もなく自分の一〇〇パーセントを表現するうたを詠むということよりも、(特定の誰かが)読んでわかる、その内容が伝わる、(狙った通りに)共感を得て、評価されるためのうたを、あえてなのか、なんとかパのよさを追求するためになのか、詠む。まあ、なんとかパがすごくいいわけなのだから、そういったことにまったく価値がないとは決していわない。効率よく勉強して蓄積した歌の技術や知識を駆使して、それ(短歌賞)を攻略してゆくという過程には、どこかゲーム的な楽しさみたいなものもあるのだろう。そういったところが、実に二一世紀の今っぽくもあり、データ分析的な側面も強くもっている現代的な短歌の在り方のひとつの大きな流れをつくりだしてもいるようだ。

先日、賞というものを獲るための「傾向と対策」ということについてしばし考えさせられる、もうひとつの興味深い事例にでくわした。それが、一一月一一日に開催された令和五年度のNHK新人落語大賞である。毎年その年の一番の若手(新人と銘打ってはいるが、これはまだ真打にはなっていない若手の落語家を対象にした大会である。よって、それぞれの新人たちはもうすでに前座修行時代から数えて十年程度の芸歴がある。出場資格は、入門一五年未満のものにだけに与えられる)落語家を決定する大会であり、本年度は週末の土曜日の夕方に総合テレビで生中継(例年は録画放送)された。この日の決勝に進出した若手落語家は五名。東京の落語家が三名、上方の落語家が二名という構成。公開放送の会場は観客を入れたNHK大阪ホール。このあたり、やはり地の利を活かすことができる分だけ、少し上方落語の若手落語家の方が有利かなという印象。

ここでの落語は、全国津々浦々で放映される公共放送の番組において(まさにありのままに)披露される、若手落語家のその後の落語家人生を大きく変えるかもしれない一発勝負の一席なのである。であるからして、毎年のように新人落語大賞にはなんともいえない緊張感がみなぎっている(特に、近年の新人落語大賞の緊迫の度合いの高さは桁違いである)。それが今年はそれがそっくりそのまま生中継・生放送されるのだから、いつも以上に緊張感や緊迫感が漂うなかでの落語となるのは、うすうす目に見えていた。トップバッターとしてホールの広いステージ上にある高座に上がった春風亭一花のまるで地に足のついていないようなふわふわと上ずりまくっている声を聞いて、あらためて生放送はこわいなあと思わされた。普段通りの実力を発揮できれば、優勝候補の筆頭とまではいかなくとも結構ダークホースとなるような存在なのではないかと思っていたのだけれど、いきなりその線は途絶えてしまったように見えた。生放送はこわい。

結局、会場に集まった聴衆に一番うけていた印象を受けたのは、一番最後の五番手として登場し、五名のなかでは唯一の新作落語での決勝進出となった、上方勢の茶髪で両目が隠れそうなほどの前髪という髪型の桂三実だった。電車に乗っているごく普通の人々を扱ったネタで、ああわかる、そういうのあるあるという風に、とてもわかりやすく場所や場面や状況が伝わりやすいこともあり、聞く方も変に構えずに聞けて、とっつきやすかったためでもあるだろう。また、トリとなる一番最後の出番であったこともあり、演者も非常にのびのびと落語が演れていた。もうこれで最後という解放感や、新人落語大賞の緊張感からもうすぐ解放されるという感覚が、演る方にも聞く方にもあり、そこにすっぽりとはまる身近な電車ネタの新作落語という強みも加算され、なんともいえぬ清々しい笑いが巻き起こっていた。とてもおもしろい新作落語だった。

大賞を獲得したのは、ラストの桂三実のひとつ前の順番で登場した、こちらも上方勢の桂慶治朗であった。謂わば、最も一般受けしそうな、最もテレビ向きといえそうな、見たまま聞いたままそのままのストレートなおもしろ落語であった。演目は「反対俥」、上方落語では「いらち俥」という。威勢のよさと俥の勢いで山場と見せ場をいくらでも盛り込める、去年は林家つる子が熱演していた記憶がある、まさに新人落語大賞のような一発どかんとかまさなくてはならない場にはもってこいの噺である。ただし、桂慶治朗の「いらち俥」は、古典落語の噺をベースに敷きつつ自分用のネタとして改変したものであり、そこに自分なりの工夫が施してある。全編に渡り緩急をつけ威勢よく演ってもいた。テンポもよく噺の展開もスピーディであった。しかし、そこらへんの古典的な噺のアレンジメントに対する考え方の違いで、もしや評価が分かれるのではないかとも思ったのだが、桂慶治朗の「いらち俥」は審査員にも会場の聴衆にも概ね好意的に受け取られたようである。

古典落語でありながら独創性があり、もはや新作落語のようですらある。古典と新作の中間のような噺に仕上げられていたところが、桂慶治朗という落語家のらしさの追求と掘り下げとして、非常に前向きな要素として評価されることになったのであろう。しかしながら、この「いらち俥」はなにもかも大袈裟に表現されていて、若いお笑いのグループがライヴハウスで人力車のコントをやっているのを聞いているようでもあった。若手落語家がひとり座布団の上で複数名の出演者によって演じられるグループ・コントを喋っているような印象を受けたのだ。こういうタイプの落語は、それこそ程度の差こそあるものの、ここ最近とても多いのである。そういう意味では、かなり今っぽい「いらち俥」だったといえる。ツッコミやリアクションが常にどこかコント的で、おかしなことになっている状況や状態を漫画・アニメ的に殊更におもしろおかしく描写する傾向も強い。おそらく大阪の派手さのある笑いに日々親しんでいるであろう会場に集っていた人々には、そういう意味では、大変にウケやすい落語だったのかもしれない。

最後とその前の順番は上方落語の若手落語家がつづいた。というわけで、逆にの最初から三番手までは東京の若手落語家が三名つづいて登場した。こうした並び順になったせいか、前半の関東と後半の関西では、同じ落語というジャンルの芸であるはずなのに、がらりと会場の空気感が変わったようにすら思えたのだ。つまり、前半のうちは東京の若手落語家の優等生たちによる、古典落語の発表会のような雰囲気が色濃く漂っていたのである。どちらかというと、笑わせたり笑ったりというよりも、どうぞ見てくださいはい見ますという感じで、落語なのになかなか笑うに笑えなかった。そうしたところに、笑いというものに対して非常に柔軟な考え方をもつ上方の若手落語家との違いや差が、はっきりと出てしまっていたように思う。かなりくっきりと前半と後半では異なる新人落語大賞となっていたのである。

結果として、ここ数年の大賞受賞者と同様に、今年もかなり個性の強い落語を口演する若手落語家が大賞をさらってゆく形となった。ごくらくらくごの指摘(「やっぱり強かった上方勢」)にもあるように、やっぱり今年も上方勢または関西出身の若手落語家が、新人落語大賞においては圧倒的に強いという図式は変わることがなかったのである。「ぺらぺら王国」の笑福亭羽光、「天狗刺し」の桂二葉、「ぷるぷる」の立川吉笑といった近年のあまりにも濃い顔ぶれの大賞受賞者と比べると、今年の桂慶治朗は、かなり正統派の上方落語の落語家の系譜に近いタイプのようにも感じられる(老けきってから、かなりいい味を出してきそうな予感がすごくする)。それでも、今年もやはりど真ん中の正統派でもなく折り目正しく古典落語を演るのでもない、古典に独自のアレンジを加え個性を前面に打ち出したものが大賞を受賞しているのだ。これはもう若手落語家が古典落語の演目をどんなにしっかりと仕上げて大会に臨んだところで、それで大賞を獲るのは難しいということなのではないだろうか。古典落語を上手く・巧くみっちりと演ったところで、審査員席に並ぶ師匠連中からは「若いうちからこういうネタをあまり演らないほうがいいよ」なんていう忠告だか叱言だかよくわからない講評をもらったりするようなことになる。まだ真打になっていない若手落語家が本来は真打が演るような古典落語の演目を、あまりに上手く・巧く演りすぎると、どこかちょっと鼻持ちならない感じになってしまったりして、審査員の点に結びつきづらくなったりすることもあるのはなかろうか。ほな、どないせえいうね。新人落語大賞という普段の寄席や演芸ホールとは明らかに規模も空気も違う華やかで広く大きなステージでは、より柔軟なやわらかい笑いの方が、大賞に、いや会場のホットな反応や審査員の得点に、どちらかというと結びつきやすいということなのではなかろうか。

ここでもやはり受賞のためには「傾向と対策」を踏まえることが必要となってきているようなのである。その新人落語大賞に向けての「傾向と対策」を講じるうえでのひとつのヒントとなりそうな落語が、実は新人落語大賞が開催された週の直前の日曜日、一一月五日に放送された「演芸図鑑」にあったような気がする。この日、演芸のゲストで出演していたのは柳家花緑。新人落語大賞の決勝大会に進出した柳家吉緑の師匠である。披露した演目は、口を開けば法螺ばかり吹いている男が登場する非常にばかばかしいお噺の「弥次郎」でありまして、その別名を「嘘つき弥次郎」。師匠花緑は、古典落語をほぼ古典落語の形のまま、重く堅苦しくなりすぎず、かといって軽すぎもせず、絶妙なバランスで、もはやくすぐりというようなものでもないような、小さな他愛もないギャグをあまりコント的だったり漫画・アニメ的にならない程度にさらりと入れて、型通りのサゲまでをきれいに小粋にぴしっとまとめて、ちょうどよい湯加減の新人落語大賞の高座とほぼ同じ一〇分程度のサイズの噺にして演っていた。

今や推しも押されぬ東京の落語界の大看板である柳家花緑の芸を、まだ二ツ目(もしくは二ツ目相当の)若手落語家に求めるというのは酷なことであるかもしれない。だがしかし、現在の新人落語大賞で古典落語を演って、それでさくっと賞を獲ろうとするならば、ああいう形態こそがその最適解となるような落語であったようにも思うのである。とにかく「演芸図鑑」という三十分の番組の中で、非常に短い尺の持ち時間に真打クラスの落語家たちが、まだ二ツ目の落語家であっても口演のできそうな軽い噺をどのように演っているのかというところは、きっと大きなヒントになるものなのではなかろうか。東京の若手落語家が、関西風のお笑いそのもののこってりとしたギャグをやろうとしたところで、あまり様にはならないのである。それに、普段から真打が演るようなみっちりと聞かせる大きな演目は演りつけていないのだから、新人落語大賞の決勝だからといってあまり普段から演りつけていないことをして変に背伸びをしたところで、まんまとよろけて怪我をしてしまうのがおちだ。それならば、どこまでも小粋にさっぱりと江戸っ子っぽい意気のいい落語を演るのが一番だろう。身の丈にあった演目をこざっぱりと。まだまだ若手落語家なのだから、そのいつまでもいつまでも若手扱いされていることを逆手にとって、あまり凝った技巧に走ろうとしなくてもまだよいのである。若手落語家らしい、気持ちのよい落語を心がければ、それでよいのではなかろうか。

などといっても、新人落語大賞の決勝に進出した花緑の弟子の柳家吉緑は、二番手で登場して「置泥」を披露したものの、だんだん落語が尻すぼみして小さくなっていってしまうという、ちょっと安定感にはかける出来ではあったのだが。それに、審査員の十一代目金原亭馬生には、噺家は髪を上げて額を出した方がいいだの刃物を持つ仕草をする際の扇子の持ち方が真逆だのとちょっと厳しめの指摘を含む講評をもらっていた。これはどうも大御所の馬生から若手の吉緑への叱言めいた愛の鞭のようにも聞こえたし、かつての落語協会会長五代目柳家小さんの孫である花緑に対する、近ごろの柳派じゃあ弟子に落語の基礎や基本すら教えていないのかいという現在の落語協会理事からのきついなじりの言葉のようにも聞こえた。つまり、あれほどの芸をもつ柳家花緑の弟子であってさえも気持ちのよい落語を演るのは難しいということなのだ、ということなのである。安藤鶴夫は五代目柳家小さんの師匠である四代目小さんの言葉として「落語家がおかしい顔をしたり、手振り、身振りで笑わせたって、それだけじゃあ落語の芸にゃあならねえ」と書いている。だからこそ、そのために落語の基礎や基本をみっちりと勉強することは最も肝要なところなのであろう。だがしかし、そういったことをみっちりと身につけただけでは、新人落語大賞の決勝大会はもっともっと若手落語家の優等生たちによる古典落語の発表会のような雰囲気になっていってしまうだろう。ほな、どないせえいうね。

だがしかし、幸運にもというか、不幸にもというか、最早わたしにはそういう「傾向と対策」のようなことをあれこれ考えたり行ったりして、何かを狙って何かをするゲームめいたことを楽しむ暇など、もうこれっぽっちもないようにも思えるのである。実際、あとどれくらい生きられるかわからないから。ならば自分のうたを自分の好きなように詠むしかないのである。現実は、あまり人々にわかられてはいないようだし、伝わっているのかもわからないし、たぶん共感なんてほとんど得られていないようだし、ちっとも評価されてもいない。それもそのはずである。だって、そこにはちっとも「傾向や対策」なんていうことを考えて何かしているというようなところが、ちっともないのだから。ただまあ、「傾向と対策」のうえに本物の詩は生まれうるのだろうか。本物の詩というものがどういうものなのかは、あまりよくわからないけれど、本物の詩じゃないようなものじゃない詩はたぶんおそらくほとんどが本物の本物の詩なのであろう。それは西田幾多郎がベルクソンを引用して語ったところによれば、吹き出される大なる生命の焔の光の表現ということができるのではなかろうか。つまり、本物の詩とは、生の飛躍であり生の躍動であり、要するにエラン・ヴィタールな何かそれそものものの表現のことをいうのではなかろうか。はたして、「傾向と対策」を講じたうえに、そういう本物の生の躍動や生命の飛躍はありうるであろうか。

では、自分の好きなように詠んだ自分のうたというときの自分のうた、もしくは自分らしいうたというのは、何のことだろうか。久保田万太郎は、「おのれに甘えた句」など言語道断だといっている。さらには、「俳句は、甘ったれたらもうそれっきり」とすっぱり切り捨て、「どんな場合でも、俳句の場合、感情を露出することは罪悪なのである」とまでいう。うたにおいて自分らしさを表現することとは、それすなわち「おのれに甘え」て「甘ったれ」ていることと同じことなのだろうか。西田幾多郎は、「短歌について」において「俳句には俳句の領域があり、短歌には短歌の領域がある。私は短歌によっては極めて内面的なるものが言い表されると思う。短歌は情緒の律動を現すものとして、勝義において抒情的というべきであろう」と書いている。俳句は俳句で短歌は短歌だと述べてはいるが、だがともに短詩であるという部分においては共通しているものもそこには多くある。一七文字の俳句よりも一四文字分だけ長い短歌には、俳句ではすっぱりと削ぎ落とされてしまった部分が、もしかすると、その増えた文字数の分だけちょっぴり盛り込めるのかもしれない。自分の気持ちとか自分らしさとかいうものを、あまりおのれに甘えたものならない程度に、ほんの少し一四文字分だけ。

俳句であっても短歌であっても、やはりそれは何よりもまずは本物の詩というものであらねばならない。西田幾多郎のいう短歌において言い表されるべき「極めて内面的なるもの」とは、おのれの感情というもののことだろうか。それは、短歌に表出された(ささやかなる)感情のことだろうか、そういう感情を歌い込むうたが短歌というものなのか。その感情とは、久保田万太郎のいう「感情の露出」の感情と同じものなのか。それとも違うのか。「情緒の律動を現す」こととは、それはある意味では自分の中にある心の動きを出すということなのかもしれない。より詳しくいうと、自分の情緒的で感情的な内面的部分を(伏蔵せるままにせず)うたの表面に言い表すということなのであろう。ならば、そこにおける自分というものは、どういう自分なのだろうか。それは、自分の中のもっともっと深いところにある自分ということか。それは、自分ではもはや自分ではないと思うような自分なのかもしれないし、これまでに自分が出会ったことのない自分であるのかもしれない。表面的な感情の中に、本当の自分がどれほどいるだろう。それが、そのまま百パーセント本当の自分であるということは、おそらくあまりないかもしれない。それに、自分で何となく把握できている限りの自分を歌ってみたところで、それが何になるというのだろう。自分の孤独さを剥き出しにした、元々あまり誰からも見向きもされることのない孤独な自分を歌った自分のうたは、よりその孤独な孤独を自分の中で鮮明化させるだけのものにしかならないのではないか。

近ごろ、もう短歌をやめようかなと思うことが時々ある。毎日くる日もくる日もあほみたいに短歌を詠んでいて、もうすでに一年半以上、六〇〇日くらいそれをつづけていて、それはそれでそれなりに愉しいのだが、ただただ本当にただそれだけなのである。ゼロから始めて短歌を一〇〇〇〇首つくるころには大歌人になっているという予定でやり始めたものの、どれだけやっても無理なものは無理なんじゃないかと、ようやく気づき始めたというか、そんな風に思うようになってきた、のである。ひとりでひっそりこつこつと短歌をつくっていて、それが愉しいというだけであるならば、別にそれを毎日くる日もくる日もあほみたいに公表しておのれのあほさ加減を衆目にさらすようなことをする必要はないのではないかと思えたりもする。何だかこれはとても難しいことなのだ。毎日いくつも短歌をつくるのは、かなり地味に難しいことだし、それをひとりでばかみたいにくる日もくる日もつづけつづけるというのも難しい。毎日あほみたいにあほみたいな短歌をつくって公表していることが、すごくばかみたいなことをしているように見えているであろうことが、自分でもすごくもうほとんどまざまざと目に見えるように手に取るようにわかるから。こんなこと、いつまでやっても、どんなにやっても意味がないように思えてくる。

でも、もしかしたら明日にはもう少し何かがまだもう少しだけ向上するかもしれない。もっともっとちょっとずつ色んなことが良くなってゆくかもしれない。そのうちに、まだ誰も読んだことのないようなものが、何かのはずみか生のはずみで詠めてしまったりするかもしれない。そう思うと、そう簡単にはやめられない。でも、もうやめたいと思うこともやっぱりある。ほとんど何の動きもない静かな場所で、ただひとりでただただ振り絞るようにして詠んで、それを毎日の糞尿のようにソーシャル・ネットワーキング・サーヴィスの底なしの宇宙に向けて放り出してしているだけ。その繰り返しなのである。それでも、かなり数は少ないながらも、わたしのむちゃくちゃな作品に対して何らかの(おそらく好意的な)反応を示してくれる人はいたりはして、それはそれでとてもありがたいことだとはすごく思う。けれども、わたしの中は、どこまでいってもむちゃくちゃなままなのである。何か短歌を詠むということを通じて、今までに見えていなかったものが見えてくるのではないかと、とても期待していたのだが、そういったものはなかなか見えてこない。創作する作品がまだ未熟だからなのか。そもそも短歌というものに過度に期待をしすぎていたのだろうか。

そういえば、前述の「2023年度角川短歌賞雑感」の記事の中に、現代の短歌における二つの潮流について書かれていた部分があった。それは「人生派」と「コトバ派」だという。日常の生活の中から人生のうたを詠むか、言葉を駆使してコトバのうたを詠むかの、かなり遠く隔たっている潮流である。これがかなり遠く隔たっているからこそ、短歌賞を狙って獲るには「傾向と対策」を念頭において詠むことが必要にもなってくるのだ。選考委員にも「人生派」と「コトバ派」とがいるから。しかし、今回の短歌賞を受賞した渡邊新月が、実際にそういった「傾向と対策」を念頭においていたかというと、それはちっともさだかではない。たぶん、そんなことはつゆほども考えていなかったのではなかろうか。わかっているのは、賞を獲った渡邊新月が、ごりごりにハードコアな「コトバ派」だということだけである。ではさて、それでは、このわたしは何派になるのだろう。何となく、そのどちらでもでもあるような気がするし、そのどちらでもないような気もする。そもそもの話が、わたしの詠んだものを見ても、多くの人はこんなのは短歌ですらないといったり、いわずとも心の中で思ったりしているであろうから、決して何らかの派に嵌入せらるるものとは微塵も思うことがないのかもしれない。おそらくは、すごく真面目に短歌に取り組んでいる人たちなどは、特にそうなのではなかろうか。結構、わたしもすごく大真面目にやっているつもりではあるのだが、いつだって何かがどうも違ってしまっているような気がするのである。かつてニューヨークのエイトボール・レコードが、ずばり「ジャズ・ノット・ジャズ」というスローガンを掲げて活動をしていたことが思い出される。曰く「ジャズじゃないジャズ」もしくは「ジャズならぬジャズ」といったところか。それに倣っていえば、「短歌ノット短歌」であり、「短歌ならぬ短歌」などといえるだろうか。そうなってくると、もはや「人生派」でも「コトバ派」でもなくて、どちらかというとポスト・ポスト・ニューウェイヴとしての「ハウス派」の短歌ならぬ短歌なのではないか、というような気もしてくる、のだけれど。よくわからん。

もう一度、西田幾多郎の随筆「短歌について」を読み返してみて、あらためてまたわたしはわたしのうたをうたおうと思うようになる。ひとつのわたしの詩の形としてのわたしのうたを詠む。そういうことぐらいしか、わたしにはできなさそうだから。それに、そういうことぐらいとか簡単にいってはいるが、それがわたしにちゃんとできるのかということだって、まだわたしにはちゃんとわかってはいないのだ。きっと、相当に多くの人からはちょっとおかしく見えるようなエラン・ヴィタールの表現であったとしても、それをわたしがわたしのうたにして詠んでいるということには、おそらく(わたしにとってだけかもしれないが)何かしらの意味はあるのであろうから。短歌というものは、どんな場合でもエラン・ヴィタールの表現であり、それそのものがひたすらに呪われた部分(「すなわちそれは生命の沸騰として表出された、過剰エネルギーの運動である」)でしかないからこそ、わたしはそれを詠むのである。もしも、そのうたが、どこまでいってもこの世界の中で、ただの何の意味ももたない無為で無駄なものでしかないならば、ただそのようにあればいいだけの話なのである。どんなに詠んでもどんなに詠んでも何も伝わらなかったうたを河原の石ころのようにごろごろごろごろと転がしておいたら、いつかそれをおもしろがって拾う人もひっこり現れたりするかもしれない。そのころには当のわたしはどこかですでに野垂れ死んでいて野ざらしの髑髏になっているかもしれないけれど。野をこやす骨にかたみのすすきかな回向はいらぬ拾わば拾え。

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