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年末年始 2021/2022

12月28日。「徹子の部屋」。ゲスト、タモリ。とても期待していたのだが、密室芸を披露するコーナーは今回なかった。久しぶりに見れると思ったのだが。残念。しかし、芸論的にいえば、あれは、別に年齢を重ねて円熟味を増していったからどうなるというようなものでもないような気はする。だから、わざわざ今のタモリがする必要はなかったということか。まだ頭がぎらぎらてかてかしてたころの方が、たぶん見るからにいかがわしさ満点で芸としての質はものすごく上等であったであろうから。かつて懐メロ歌謡曲や時代遅れの古臭いもの田舎臭いものを露骨に小馬鹿にしていたようなところがあったタモリであるから、自分で昔取った杵柄的なものをいつまでもぐじぐじと再演し続けるようなことに対しては、やはりおいそれと手をつけないでいるのがしかるべき態度というものであったのだろう。

12月31日。大晦日。録画してあった柳家花緑の「文七元結」を見る。12月12日に放送された「日本の話芸」であるが、視聴環境的にも気持ちの面からもどっぷりと噺の世界にひたるため、大晦日まで見ないで寝かせておいた(というと、ちょっとは聞こえがいいが、大晦日で通常のテレビ放送の編成ではなく、見るものが何にもなくてすごく暇だったので、テレビのリモコンをもってごちゃごちゃやっているうちにふと思い出して録画してあったものを見たというのが、実際のところに近い)。冒頭、人情噺の大作をコンパクトな三十分版にまとめる挑戦などと語っていたので、前半はささっと終わらせて後半の人情が怒涛のように押し寄せるクライマックスを重点的にやるのかと思いきや、最も印象に残ったのは吾妻橋の場面での「そんなに簡単に死んではいけない」というメッセージであった。年末、神田沙也加さんの事があったばかりで、花緑が熱演する左官の長兵衛の言葉や気持ちがとても強く胸に響いた。神田さん、ちょうどあの週にやっていた「日本の話芸」を見ていなかったのだろうか。見てたら、もしかすると何かが変わっていたかも知れない。左官の長兵衛みたいに身を挺して引き止めてくれる人は、きっと必ずどこかにいたはずだから。死ぬな、生きろ、って。もしかしたら、それはそんなに簡単なことではなかったのかも知れない。それでもやっぱり、生きていてもらいたい。それは、とても困難なことであることもある。だからこそ、その困難さをわかってくれる人は少なからずいて、きっと何かの力になってくれるはずだから。夜、ちらっとチャンネルを合わせたら「ももいろ歌合戦」をやっていて、ゆいかが「HAPPY WEEKEND LOVE」を歌っていた。思い切りカントリー調の緩めのポップ・ソングで、恋に仕事に目一杯がんばっちゃう若い女性の前向きな気持ちが、ほんわかと歌われていた。瞬間的に、どこか違う星にふっ飛ばされてしまったかのような気分になった。なんなのだろう、これは。今でもこういう感じがリアリティをもつ世界もあるんだなあということに、ちょっと驚くというか、少しほっとするというか。いつの時代も、若い女性はとても忙しいのだ、ということがよくわかった。お茶やお食事にお誘いしても、いつもいつも「今ちょっと忙しいんで」と体よく断られていた、若き日のことを思い出したりした。

1月1日。元旦。朝の「ワルイコあつまれ」。初割。本物の陶芸作家がもってきたどこがどう失敗作なのかよくわからないよくできた失敗作を当の陶芸作家が見ている目の前で盛大に割って壊すコント。その後、早朝にやっていた狂言「煎物」の録画を見る。通りがかりの煎物売りが祇園祭の囃子物の練習に入り込み、一緒になって物真似をして踊っているうちに、持っていた商売道具の焙烙を粉々に割ってしまう。そして、その破片をおもむろに掻き集めて「数が多なって、めでとうござあい」というオチ。ひとつの焙烙が割れて、幾つもの破片になった。一が沢山になって、縁起がいい。これは、とってもおめでたい、というわけだ。「ワルイコあつまれ」の初割も、これと同じ。割れて、数が多なって、おめでたい。立て続けにふたつも気持ちよく割れる様が見れて、とても縁起の良い元旦となった。午後、『中村勘九郎 中村七之助 中村鶴松 華の新春KABUKI 2022』。今は亡き中村勘三郎の「文七元結」の映像が流れた。こちらでも勘三郎が演じる左官の長兵衛は、「死んじゃダメ」と何度も何度も繰り返し叫んでいた。人がひとり、あっさりと死んでしまったら、もはやそこには人情もクソも入り込む余地はないのである。生きて残された人がいるだけじゃ、噺にも芝居にもならない。生きてりゃ、きっといいことあるから。花緑も勘三郎もそう言う。花緑も勘三郎もそう言うのだから、その言葉を信じたくもなる。今年こそ何かいいことあるといいなあ。今年もまたそんな風に思っている。いまだにこれといって何も成し遂げていない人生で、もうこのまま尻すぼみになっていって、とても情けない感じで終わってしまうのではないかなと思ったりする昨今。生きてりゃ何かいいことあるのかしら。ちょっと首を捻りながらも、とぼとぼと生き続けている日々。わたしのところにも左官の長兵衛みたいな人が五十両ぐらい持ってきてくれるといいな。そのためだったら、身投げするふりをするのだって厭わない。ほれよ、取っときな。そんな情けねぇ顔すんなって、礼なんて聞きたかねぇやい。こちとら職人だぜ、懐ぉにそんな重てえもん入れてちゃぁ商売になんねえんだょ。ちょいと、溝川に捨てたつもりでぇ、ここに置いとくぜ、じゃあな、あばよ、ちったぁ元気だしねぃ、なんていって気持ちよく走り去っていってしまう、どこの誰かもわからぬ左官の長兵衛が。きっと何かいいことあるだろうと思って生きていても、なかなかそういうことには巡り合わない。あと、どれくらい生きればいいのだろう。ずっとずっと、いいことを待ち続けている。でも、もうそろそろいい頃合いではなかろうか。今年こそ何かいいことがありますように。

1月3日。「東西笑いの殿堂2022」。番組冒頭、中継先の新宿末広亭前に誰も人がいない。本来はそこにいるはずの柳亭小痴楽がカメラ前に現れず、ただ正月三箇日でほとんど人通りのない寂しい新宿の裏通りが映し出されているだけだった。と思いきや、渋谷のNHKの生放送のスタジオに勢いよく小痴楽が飛び込んでくる。これには笑った。新春早々、小痴楽師匠やらかしてくれるなあと大いに感心した。あれにはスタジオの誰もが驚いていたので、全く台本通りではない展開だったのだろう。何らかの予期せぬ理由で師匠が時間までに末広亭に入れそうにないので急遽渋谷のスタジオ出演に切り替わったのではないか。周囲の誰もが少し呆気に取られている中を、けろっとした表情でマイクを手に、本来は自分がそこにいるはずだった中継先の末広亭の外観の映像を見て、矢も盾もたまらず古いだの汚いだのと率直に口悪く痛罵していたのも斬新だった。まさに柳亭小痴楽の破天荒さがよく垣間見れた一場であった。しかし、小痴楽師匠のキャラクターをよく知らない人が見たら、行儀も悪く礼儀も知らないどこかの兄ちゃんが急に飛び出てきて好き放題に喋っているだけであって、印象はとてもよくなかったのかもしれない。でも、あれはきっと計算ずくで狙ってやっているわけでは決してなくて、素の柳亭小痴楽そのものでああなのだというところが、いわゆる愛すべきところなのである。身近なところにああいう人がひとりでもいるだけで、それはそれは大変だろうけど。噺家としては非常に愛すべき噺家ではある。いつまでも世間の常識が通用しない柳亭小痴楽のままでいてもらいたい気持ちははあるけれど、それでも最近はめっきり大人の噺家っぽくなりつつはある。あれでも。その後、出番に合わせて本来の予定通りに新宿末広亭へと移動した小痴楽師匠、途中で何とも投げやりに大喜利をこなし、高座では「一目上がり」をトントントントンと華麗にさくっときめてみせてくれていた。

1月8日。「ナイツのチャキチャキ大放送」。ゲスト、三遊亭円楽。若干、声の出が悪いような気もする。ナイツの二人もこれはちょっと尋常ではないと思ったのだろう、暮れからずっと忙しいので大変じゃないかと体調面を気遣う言葉をかけている。これに対し、円楽はプロだから大丈夫というようなことを語っていたが‥‥。この日は、コーナーの頭から終わりまでほぼ全編に渡って、公共の場を公共の場とも思わぬ口ぶりで叱言をぐちぐちとこぼしまくっていた。ああいうことを思いつくままに喋っている方が、気楽で負担にもならないということだったのかもしれないが。それに今やあれぐらいの立場の人で色々うるさく言う人というのも、ほかにはあまりいないのだろう。だから、仕方がないといえば仕方がないのか。上の世代の、すごい人たちがどんどんいなくなって、全般的に風通しは良くなってきているようにも思える。それにともない、あえて憎まれ口を叩く人もいなくなってしまったのか。弟子や一門の若手連中に優しい師匠も今は多い。だからこそ、このところずっと若手がのびのびやれてきていて、良い感じに活性化してきているという面もある。新しい時代の落語というものが、段々と見え始めてきているのではないか。それに、今の若者は、そういう緩くて温かくてゆとりのある環境ではないと、見習いや前座の修行ひとつとっても続かないところがあるのだろう。それゆえに、かつての古い伝統や習慣がそのまんま生きていた時代を知る人が、そういう今の風潮に叱言を言いたくなる気分もよくわかる。古きよき伝統として守り通してゆきたい作法やしきたりも多々あるのだろう。だが、今の若い世代とて全く頭の中身がないわけではない。そういう伝統を伝えてゆこうとする人は、しっかりそれを継承してゆくだろうし、古きよきものを学ぼうとする人は放っておいてもそれを少しずつでも学ぶだろう(ああ、あのときもっと円楽師匠の話を聞いとけばよかったと、後々になって悔やむ噺家もいるだろう‥‥)。だから、最近の若いものはほにゃららという観念に凝り固まってしまっている老人が、いちいち危惧するほどのことではないのかもしれない。芸協が人材難で先細りするという話や若手の着物の裾が皺になっている話など、あれこれ細々と叱言を言っていたけれど、その後(1月25日)脳梗塞で倒れてしまったので、それに対していちいち文句や反論を述べることはやめた。ただし、圓生襲名のことについてだけは、少しだけ触れておく。今回のラジオでも、圓生を襲名したい気持ちがあるようなことを、愚痴っぽくぽろっと語っていた。昨年、三遊亭圓丈師匠も亡くなり、長きに渡りゴタゴタとしていた襲名問題そのものも、だんだんと遠い過去のものとなりつつあるようにも思える。だから、もうそろそろいいだろうというのでは、これまでのあれやこれやを考えると、そんなに短絡的な考えからきている踏み切り方でよいのかという気にもなる。しかしながら、名人圓生の孫弟子である楽太郎(円楽)が七代目の圓生を襲名することで、圓生一門の協会脱退(落語協会分裂騒動)から今の円楽一門会へと至るひとつのいわゆる極端な派閥的な流れのその全てが、この上なく最良な形で完結するという図式が描けるようになるというのもよくわかる。亡くなった師匠の五代目円楽ためにも、ずっと後をついてきた弟子としてこの襲名披露だけは何としてでもやり遂げたいのであろう。弟子のうちから圓生の名跡を継ぐような人材を輩出したとなれば、何百年後かの人が振り返っても、五代目円楽の頑なに師匠圓生の意志を継いで貫き通した半ば独善的ですらあったあの落語家人生は、決して間違いではなかったという正の評価に転じてゆくであろうから。だがしかし、当代の円楽には円楽としてもうちょっと頑張ってもらいたいのである。今もまだ、先代の円楽の方が多くの人にとっては最も馴染みがあり親しみのある円楽であろうから。師匠の円楽が円楽の名を立派な名跡とした功績に類するような、六代目としての仕事をもうちょっとやり切ってから圓生襲名のことは口にしてもらいたい。いや、ことさらに自分から言うのではなく、周囲から喜んで推挙されるような形になってから初めて襲名に前のめりになってもらいたいのである。円楽が自分で圓生の大看板を欲しがっているようなことを言えば言うほどに、まるでもう先は長くなさそうだから早く早くと自分から周りを急かしているように思えて、聞いている方もちょっと辛いものがあるのである。

1月9日。「安住紳一郎の日曜天国」。ゲスト、岩下尚史。もはやハコちゃんと局長待遇のおしゃべりを聞かないことには年が開けた気にならない。あけましておめでとうございます。暮れの吉野ママと併せて、これが年末年始の風物詩となりつつある。かつての「徹子の部屋」のタモリと加山雄三のようなものである。日天に始まり、日天に終わる。本年も年の初めから公共の場でハコちゃんがあれこれ思いの丈をぶちまけてくれていた。折口信夫の教えを受けたくて大学受験して肥後から上京したが、いざ國學院大学に入学してみるともうすでに三十年も前に折口は他界していたという笑い話などなど。ばきばきに喋りまくっても、まだまだ喋り足りないような様子。最後に、かつて赤坂TBS会館の地下にあったフランス料理店「シド」について少し喋りかけていたが、残念ながら時間切れで来年の正月まで持ち越しとなった。今でも覚えているが、大昔に「シド」に連れて行ってもらったことがある。まだ小学校の高学年か中学生ぐらいの頃に。埼玉の田舎育ちの子供であったわたしを、たぶん祖母が連れて行ってくれたのだと思う。食べ盛りで特に肉料理が好きだったので、本物のちゃんとした肉料理を一度食べさせたいということだったのではないだろうか。祖母は銀座生まれの銀座育ちであったと話に聞いたことがある。当時は横浜に住んでいたが、週末の休みや夏休みなどには、よく横浜や東京のさまざまな場所に連れていってくれた。東京タワーやサンシャイン60にのぼったり浜離宮などの庭園をみたり八重洲ブックセンターをうろうろしたり銀座の歩行者天国を歩いたり。おそらく、そうした東京を見物するシリーズのひとつとしての「シド」でもあったのだろう。大正期に銀座で生まれた祖母は、ハコちゃんが研究した新橋あたりの花柳界の文化や風俗とも(おそらく)そう遠くはない(いや、結構近い)ところで育ったものと思われる。だから、自分がかつてそこに見ていた東京が、どんどん失われていってしまう様子もつぶさに見てきたのであろう。街は、いつまでも変わらずに、そこにあるようでいて、すぐにうつろっていってしまう。祖母はわたしに、古いものをとどめる東京と時代と共に移り変わってゆく東京を、手遅れになってしまわないうちにあれこれ見せておこうとしていたのではなかろうか。バブル期前夜の赤坂は、まだどこか古い東京の街の姿をとどめていた場所であったように思われる。夜の街の通りはちょっとぼんやりと靄がかかったかのように薄暗くて、行き交う人でごみごみとごった返している喧騒もない。格式高い重厚感が壁や柱や天井や調度品のひとつひとつからにじみ出してきているかのような独特なゆったりとした空気が漂っていた店内。子供にはよくわからなかったが、何ともいえない特別な雰囲気は確かにあった。ちっとも嫌味はなく、子供でも入り込めるくらいに閾は低く間口は広かったように見えたが、あれは間違いなく何か特別な空間であった。きっとその奥は、もっとものすごく深かったのだろう。だが、田舎育ちの子供が垣間見れたのは、その表層のそのまた端っこをチラッと掠めたぐらいだったに違いない。しかし、今から四十年も前に行ったレストランのことを、まだちゃんと覚えているのだから、それだけ印象深い経験であったということなのだろう。料理が美味しくて、どうか口の中からこの肉の味がいつまでも消えてなくならないようにと願った。あれは、紛れもなく今ではもうなくなってしまった昭和の東京であった。バブル期前夜の「シド」を体験させてくれた祖母にはとても感謝している。祖母には生みの親と育ての親がいるという。母親は出産後すぐに亡くなってしまった(もしやスペイン風邪であろうか)ので、別の女性を母親代わりにして育ったという。しかし、生みの親と育ての親は実は同一人物だったのではないかという説もある(子供の頃、その人物と思われる女性に会ったことがある。祖母に連れられて、母と妹と一緒に東急東横線の祐天寺駅近くの小さな長屋のような家の小さな部屋を訪ねた。とても小柄で真っ白な白髪を綺麗に結った品の良い着物姿のおばあさんが、そこでひっそりと静かに暮らしていた。祖母が、その人のことを何と説明してくれたのかは、よく覚えていない。初めてゆく場所で、初めて行く家で、初めて会う人だったので、ちょっと緊張していた。部屋の中をずっと見回して眺めてばかりいた。ただ五人で小さな部屋の小さな炬燵にぎゅうぎゅうになって入って、お茶を飲んだりお菓子を食べたりおしゃべりをしたりして和やかなひと時を過ごした。ただそれだけだった。覚えている限り、そのおばあさんに会ったのは、その一回きりだ。今から思うと、あれは祖母の母親、わたしにとっては曽祖母にあたる人だったように思えてならない。しかし、本当のところはよくわからない。わたしの母も自分が生まれる前のことはちゃんと聞かされていないらしく、後にあの日に会ったおばあさんのことを聞いてみたが、母にもよくわからないようだった。仮に、あの女性が、祖母の生みの母ではなく育ての母だったのだとしても、あの日わたしの母と何ら顔見知りである感じでもなかったのは、やや不可解だ。母もあの女性とはほとんど会ったことがなかったのだろうか。なぜに、そんなにも秘しておく必要があったのか。解せない。とにかく、いろいろと本当に謎だらけなのだが、あのように日陰の場所でひっそりと暮らし、ひとり娘の母親もしくは育ての母であることも表立って名乗り出せずにいるというのは、やはりそれなりに大きな理由があってのことだったのではなかろうか。そして、そこは銀座や新橋界隈という土地柄もあり、そこらへんの経緯に花街や芸妓もしくは芸能の世界というものが絡んでいるように思えてならない部分はある。そういう世界に生きる女性であったから、銀座などに居を構える家には嫁入りすることが許されず、生んだ子供もすぐに手放して自らは身をひかねばならないということももしやあったのではなかろうか。あの祐天寺の小さな部屋に住んでいた、ぴしっと瀟洒な着物を着こなした小柄なおばあさんに感じられた、そこはかとなく気品が漂う雰囲気。やはりどことなく普通のおばあさんではなかったような記憶がある。あのとき、あの女性の目に子供だったわたしはどのように映っただろうか。実の母親に代わって祖母を育てた赤の他人のおばあさんだったら、ああそうこれがあんたのお孫さんなんだねぐらいの感慨しかなかったかもしれないが。もし、あのおばあさんがわたしの曽祖母であったのなら、すくすく育っている曾孫の姿を見て、嬉しく思ってくれただろうか。わたしがいることを嬉しく思ってくれる人がいることは、わたしにとってもとても嬉しいことではあるのだけれど)。祖母は、ずっとひとり娘だったので千住の床屋の息子が婿養子に入った(江戸四宿のひとつで岡場所があった千住の髪結職の家系からというのが、また何とも因縁めいてはいる。つまり、明らかに髪結いの亭主の御血脈なのである、あたしは)。母方の祖母の家の家系は、いろいろと入り組んでいて謎も多い。大正から昭和初期にかけての銀座・新橋界隈で何があったのか、いつかちゃんと調べてみたいと思うのだが‥‥。震災があり、スペイン風邪があり、戦争があり、空襲があり。とても大変な時代だったと思うが、祖母が見た銀座や新橋、二十世紀初頭の東京はどんな景色だったのだろう。通り過ぎてしまった、もう戻ってはこない、たくさんの江戸と東京の風に思いを馳せる。その後、1月8日に放送された「ラーメン大好き小泉さん 二代目!2022年新春SP」を録画で見た。本川越のつけ麺の名店、頑者が登場し、ちょっとだけ一番街近辺の小江戸の街並みが映し出された。時を知らせる鐘つき堂が蔵造りの街並みの中にそびえていて、パッと見た感じはほぼ江戸であった。東京ではもうすっかり見られなくなってしまった江戸の街の残照が、まだここには姿形をとどめて(かろうじて)残り続けている。戦前の銀座・新橋や千住の街に育った祖父母をもつわたしが、こんな小江戸と呼ばれるような街で生まれ育ったということには、やはり何かしらの意味があるのだろうか。これもまた何かの因縁なのであろうか。今にも消えゆこうとしているこの灯火をわたしにどうしろというのであろうか。嗟。

1月16日。「浅草お茶の間寄席」。柳亭小痴楽の「明烏」。芸協の落語についてあれこれいう人もあるが、その芸協の落語の真っ只中にあって、着実に成長し続ける姿を見せてくれているのが小痴楽である。芸協の落語が気に食わない人には、いつまで経っても小痴楽は話にならない駄目な落語家という扱いなのかもしれない。まあ、はっきり言って、これは早い話が、見る目がない。聞く耳がない。総じて、話にならない。そんな人たちに違いない。ちゃんとしている人たちは、ちゃんと見ているはずですよ、ここ最近の小痴楽師匠の目を見張るような変わりようを。そりゃあ、前が前だったから、ちょっとでもよくなってくれば、おうっとなるわけなんだけれども。若い頃は、高座にあがっても、どうにも落ち着かない感じで、落語を喋っているというよりもとにかく噺を端からやっつけていっているような雰囲気であった。あれでは、誰が見てもまだまだだといったはずである。とりあえず噺を覚えて稽古して喋ってはいるけれど、まだ自信をもって演れるレヴェルにまでは辿り着けていなかったのだろう。だから、思ったようにできない自らの技量の足りなさ加減に、自分でも居ても立っても居られなかったのではないか。そんな内面の焦燥や狼狽が、表情や仕草や態度にはっきり出てしまっていた。それが、段々と正面切って噺を喋れるようになってきているのである。真打昇進から今年で早三年。いよいよ噺家としての自覚も高まり、落語を演ることにも自信がついてきたのではなかろうか。その自覚と自信が、確かな手応えとなって、さらに自覚と自信を高める。気持ちの落ち着きが、表情や仕草の落ち着き、ひいては噺の据わりのよさにつながる。全般的に芸の質が底上げされてくる。このところの小痴楽は、相当に上り調子であるように感じる。急に化けたとかではない。少しずつ地道に前進している。たぶん見ればわかる、以前との違いが。ちゃんと噺家らしくなっているから。早々に見限って見るのをやめてしまった人は、いつまでもまだまだだと言うのだろう。そういう人は、とても不幸だ。プレシーズン小痴楽しか知らないことは、とても人を不幸にするだろうと言い換えてもいい。大方のイメージ的には、小痴楽といえば生粋の江戸弁もしくは江戸言葉であろう。威勢よくまくし立てる喋りこそが、小痴楽の落語の魅力のひとつともなっている。しかし、それは先天的に骨身に沁み込んでいる生粋の江戸言葉ではないと本人はいっている。噺家として勉強した言語だということか。古今亭文菊師匠も世田谷区自由が丘の生まれで山の手育ちだから、「あたしぁ東京生まれだけど、江戸っ子じゃあないのよね」なんてことをいっていた。それと同じようなものだろう。生まれも育ちも渋谷という小痴楽は、生粋の山手っ子なのである。そちらの側から見れば、たとえば墨田区向島出身のTBSの外山惠理アナウンサーが話す、どきつい江戸弁などは、やはり全く違う人種の言語と受け取れるものであるのかもしれない。ハコちゃんは、正調の江戸言葉というのは口の中でもごもごもごもご喋っているものだから、耳をそばだてて聞いていないとちっとも聞き取れないと語っていた。なので、現在一般的に(落語の世界で)江戸言葉や江戸弁などと言われているものは、少し江戸の中心部からは外れた謂わば江戸の片田舎で発生した口調だったのではないだろうか。そういう意味では、渋谷も自由が丘もかつては江戸や東京の中心からは大きく外れた片田舎であったはずだが。おそらく、江戸の中心から離れれば離れるほどに、武蔵国に古くからあった武州弁や多摩弁との境界線は曖昧なものであったのだろう。江戸の片田舎の職人や商売人たちは、交通や交易の行き来がある武蔵国の武州弁や多摩弁からの影響も大きく受けている、独特のべらんめえ口調の江戸弁を江戸の中心の外側で発展させてゆくことになる。もごもごの江戸言葉とは正反対のちゃきちゃきな江戸の方言が、いつしか江戸言葉の本流の座を占めるまでになり、現在に至る、というわけだ。なぜ、べらんめえ口調の江戸弁が広く拡散し定着し生き残ったのか。それが、最も江戸庶民の生活の香りの染み込んだ言葉となっていっていたからだろう。大河ドラマ「青天を衝け」では、武蔵国のど田舎である血洗島出身の渋沢栄一が、ほとんど武州弁のだんべえ口調のままでべらんめえ口調の江戸弁の会話に自然に溶け込めていたのが印象的だった。落語でよく聞くような街の庶民が使う江戸言葉も、元々は江戸の周縁に発生した(武蔵訛りを色濃く残した)方言からきたものであったことがよくわかる。もごもご喋る江戸言葉の話者から見れば、職人や商人たちの使う言葉なんていうのは、江戸の片田舎の方言や訛りのような(どさ臭い)ものでしかなかったのかもしれないが(初期の江戸の落語は、まだ寄席というものが定着していなかったため、ほとんどが座敷噺で、それほど大きな声でぱあぱあと捲し立てる必要はなかったであろうから、まあ口の中でもごもごとまではいかずとも、ぽそりぽそりと小咄や落とし噺を語る程度のものでしかなかったのではないか)。いつからか、その訛りや方言が地域的な江戸の方言となり、江戸言葉や江戸弁の大勢をなすようになっていってしまった。その後、また立場は逆転する。江戸の片田舎の方言として定着していた山の手の言葉が標準語のベースになると、べらんめえ口調の江戸弁の勢いも次第に衰えてゆく。調子の良い庶民の言葉よりも品位のある武家の言葉が公式に時の政府によって標準だと定められたのだから、再び江戸言葉や江戸弁は中央から外れた周縁部の方言や訛りのようなものに回帰してゆくしかなかった。ただし、落語の噺の舞台というのは、まだまだ庶民の言葉の江戸言葉や江戸弁が活き活きと飛び交っていた時代や場所であることが多い。よって、噺の世界の中だけは、職人のぱきぱきのべらんめえ口調が標準語のままなのである。そのため、あまりそういった髷物の落語を聞き慣れていない人には、登場人物がみんなずっと喧嘩腰で喋っていて、がさつでいい加減でぞんざいな話しぶりに、ちょっと気後れしてしまうようなところもあるという。また、あまりにもべらんめえで早口すぎると何を言っているのか全く聞き取れないということもあるようだ。ハコちゃんも「都内で言葉が通じない」と言っていた。ちょっと前までは、そこら中で話されていて、自然と耳に聞こえてきていた言葉が、今ではちっとも通じない言葉になってしまっている。ハコちゃんが研究している銀座や新橋の花柳界の言葉や芝居などの芸能の世界の言葉は、誰かが記録して残しておかないといつか本当に消えてなくなってしまうものである。生きた言葉は、使われなくなると死んでしまって廃れる。そうなるともう、それは通じない言葉である。通じない言葉は、もはや言葉ではない。だが、べらんめえ口調の江戸言葉や江戸弁は、まだ生きている。もはや、それはそこら中で話されていて、自然と耳に聞こえてくる言葉ではなくなっているけれど、通じない言葉にはなっていない。その証拠に、今もまだわれわれは古典落語を聞いて、あの頃の江戸や東京の庶民や市民と同じように笑えているではないか。伝統芸能である落語の噺の中に、生きた江戸言葉や江戸弁が真空パックされているのだ。噺家が高座に上がり真空パックをとけば、八っつあんや熊さん、ご隠居たちがぽんぽんぽんぽんと喋り出す。山手っ子の小痴楽が、噺家として古典落語を通じて江戸言葉や江戸弁を今に伝える伝道師という役割を担っている。伝承され継承される古典落語が生き残り続ける限りは、江戸の言葉もそれに付随して口伝されて生きながらえてゆくことだろう。小痴楽がぱきぱきのべらんめえ口調で噺を演れば演るほどに江戸の言葉は活き活きと躍動を始める。話者がいて聴者がいる。その間を言葉が伝わる。それだけで、そこに江戸の街の風が吹く。だから、どんなに早口で聞き取れないといわれても、これは歴とした文化遺産保護保全事業でもあるわけだから力の入れ具合を緩めるわけにもいかない。現代人にもわかりやすい言葉で演るのでは、あまり意味がない。あたぼうよ。それでは熊や八が熊や八じゃあなくなっちまわあ。まずは、やはり古典落語に親しみ江戸言葉や江戸弁に慣れることである。ある程度慣れてくれば、小痴楽の落語を耳にしたとたん、そこに江戸に生きる人々の息吹きが感じられるようになってくるだろう。ちなみに、四代目柳家小さんは、高座にあがってごくごく小さい声でむにゃむにゃ喋り出したというが、それはぼそぼそもごもご喋る江戸言葉というよりも聴衆に聞き耳を立てさせ全神経を高座の噺家に集中させるための高等テクニックだったと考えてよいだろう。幼き頃にそれを目撃した川田順造は、最前列に座っていたのにほとんど聞き取れないぐらいの声だったと述懐している(おそらく、その技術は、まだ落語が座敷噺であったころからすでに存在したものではないかと思われるので、もしかするとそれは本当の古流の江戸言葉や江戸弁からきている正調もごもごであったのかもしれないが)。で、本題の「明烏」である。浅草演芸ホール夜席トリの責任感からだろうか、膝前の三遊亭笑遊師匠の暴走老人落語に対抗してか、大張り切りの大熱演。しかし、やはり緊張感が高めなのか、ちょっとぎこちない。どっしりと構える落ち着きに欠け、探り探りの上擦り気味なのも、見ている方がドキドキしてしまう。そこを、ぐいぐいと手繰り寄せながら進んでゆくのだが、ちょっと粗っぽいというか、あまりびしっとはまりきっていない。まあ悪くはないが、少し肩に力が入っていることからくる硬さがあだになってしまったようにも感じられる。それにしても、噺の奥行きをぐうんと広げてゆく技術には光るものがある。聞いているだけで、人物の描写やその背景にあるものが、とても鮮明にくっきりと浮き出てくる。実にヴィヴィッドな表現で、それでいてあんまり嫌味がない。「明烏」は、廓噺である。しかし、吉原などの遊郭を舞台とする廓噺らしい噺というよりは、女郎買のエピソードを主題とする噺である。庶民の生活の場からは隔絶された廓は、階級や身分の上下もあまり意味をなさない別世界である。噺の舞台は、日常から非日常へと、大門という象徴的な区切りをくぐって移り変わってゆく。「明烏」という噺は、そのような二つの地点のこちらからあちらへの移動や象徴的な境界によて区切られた対照的な二つのものの対比によって構成されている。真面目で堅物な若旦那(時次郎)と町内の札付きのチンピラで遊び人(源兵衛と多助)という極端な登場人物の二つの類型。烏がカアで夜が明けて、前日と次の日の朝では別人のようになっている変化。嘘と本当、虚と実の対比。場所・場面・時間が変化してゆくとともに、いろいろなものが移り変わる、動きのある噺である。移動し、変化する。それだけに、さまざまな演出をそこに盛り込むことも可能だ。どんどんどんどん噺自体が転がってゆくので、簡単に勢いはつく。逆にいうと、抑制を効かせてメリハリをつけて演るほうが難しいのかもしれない。興津要は、嘘からでた真のような形で吉原デビューを果たした時次郎の青春が、固い蕾から一気に花ひらく一夜を描いた清々しい青春譚という面こそが「明烏」という噺において強調すべきポイントであるというようなことを書いていた。だから、あんまりこってりと吉原を強調する演出をやりすぎると、主人公が若く初心であることからくる青春の詩情や甘酸っぱい味わいが、かき消されてしまう。つまり、時次郎が大人の階段をひとつ登る一夜のビルドゥングスロマン噺という側面を大筋とするほうが、どこかほっこりとした印象になって後味もよい、のである。小痴楽の場合は、若さからくる過剰なサーヴィス精神のあらわれなのか、ややもするとマンガ的な表現に傾いてしまうことが、まだ多い。これは「明烏」のような両極を描く噺だからこそできる演り方なのだともといえるのかもしれないが。マンガ的表現とは、とても今風のものである。寄席で噺家がやったとしても、日常的にそういうものを見慣れている客層には、そこそこウケるのであろう。テレビのドラマはいわずもがな、漫画が原作の映画やアニメの実写化映画などに、そういうマンガ的な表現そのままの芝居を盛り込む演出というのは、いやというほど氾濫している。もはや、大仰で大袈裟なマンガ的な表現であることの方が、今の受け手側にはリアリティを感じられるようにさえなってきているのではなかろうか。そういう時代の只中において、そういう時代の精神とともにある世代に属している、小痴楽の「明烏」は、ある意味においては、古典の古典らしさの斜め上をいくぐらいに超越した現代性と現代的なリアリティを獲得している、のだともいえるだろうか。そこを、ただのがちゃがちゃしてるだけのうるさい芸だと決めつけて失点とする向きも、きっとあるのだろう。三遊亭円楽は「ナイツのチャキチャキ大放送」の出演時に「ノイジーな芸って嫌じゃん」と放言していた。これは「笑点」の大喜利でうるさく動き回っていた林家たい平の芸風について語った言葉だが、おそらくは「笑点」の新メンバーになる桂宮治や芸協の若手噺家(小痴楽も含む)のことなども念頭においていったものはなかったか。ただ、ノイジーであるかないかの境界は、聞き手の主観の問題でしかないだろうし、ノイジーな芸が全部ダメで水を打ったように静まり返る静寂の芸が至高であるということもない。円楽の場合は、芸の感覚が老枯してきていることや体調面で不調なこともあり許容できる範囲が狭まっているということもあるのだろう。昨今のマンガ的な表現には、意図してノイジーさが盛り込まれているという部分もある。たい平だって、小痴楽だって、宮治だって、そういうノイジーさが求められる場面で、その要請に適時応対しているだけでしかないのかもしれない。それに、いつまでもあれをするわけではなかろうに。マンガ的な表現は、それにちっともリアリティの欠片も感じられなくなれば、抛棄され自然に衰退してゆうだろうし、たい平だって、小痴楽だって、宮治だって、刻一刻と年をとっていて否応なしに老成してゆかざるをえないのだ。そして、今の円楽のように叱言をいうのである(きっと)。マンガ的な表現を盛り込んだ(古典)落語の、あのケイオティックな表現の中から、残るべき部分はしかるべくしてそこに残ってゆくだろう。古典落語とは、常に移り変わる現代という時代において生き生きと生き続ける所謂不朽の古典のことであるということを、忘れてはいけない。今このときにも日本橋田所町三丁目日向屋半兵衛の倅時次郎が瑞々しいまでの青春の一夜を生きていなければ、古典落語はただの干からびた化石に耳を傾けるだけの芸能となってしまう。いつかは、あんなに大汗をかくほどに熱演をしなくても、伝わるものは目に見えるように伝わるようになってゆくのだろう。いつかは、ちょっとした動きひとつで、見えてるものも見えないものもまるでそこに見えるかのように語れるようになってゆくはずである。そんな、完成された柳亭小痴楽の落語を早く見てみたい(そのころには、もうすでに六代目柳亭痴楽であろうか)と思わせるものが、今ももうすでに小痴楽の落語にはたっぷりとある。だから、そうしたイマジナティヴな味わい方をこそ落語を見て聞く楽しみだと思えない人というのは、とても不幸だとも思うのである。うるさい芸というのは、それがノイジーであればあるほどに、その先の洗練によって大きく花ひらく可能性をもつものでもあるのではなかろうか。別の言い方をすれば、古典落語は今とても大きな岐路にさしかかっている。昭和にも平成にも名人芸というものはあった。令和の名人は、それらに並び立つことのできるいずれおとらぬものとなりえるのかどうか。もうすでに笑点だの芸協だのと言っている場合ではない勝負どころにさしかかっている。さらに次に控える時代の落語にこの話芸の文化を繋いでゆくためにも、令和の落語を赫々たるものとしてゆかねばならない。その急先鋒が三代目柳亭小痴楽であることは間違いない、ところであろう。

(2022年、春)


〈付録〉

BS朝日「おなじはなし寄席!」で、柳亭左龍の「そば清」を聞く。柳亭左龍は、大河ドラマ「青天を衝け」で江戸ことば指導を行なっていることで少し話題になっている。丁寧な語り口で滑舌もしっかりしていて、なかなかによい感じのきれいめな江戸ことばを話す師匠である。出身は千葉県。川を隔ててすぐそこってなところなんで、江戸といっても、まあ当たらずも遠からずといったところか。また、「青天を衝け」には、ばっちりと武州ことば指導の先生方もついておられる。おかげでチャーライジマの人々は「だで」だの「だんべえ」だのといった田舎臭い言葉ばかりでドサドサした会話を繰り広げている。栄一も藍を売り買いしていきいきと成長しているが、話す言葉はまるっきり武州のイモ青年そのものだ。こっぱずかしい。ですが、江戸ことばの源流には、どうやら武州の川越のことばがあるらしいのです。太田道灌が江戸築城の際に川越の職人たちをわんさと引き連れてゆき投入したというのだが、このときにただの長閑な漁村であった江戸の人々が武州の奥地からきた職人たちの話す「べらんめえ」口調をおもしろがり、真似して話すようになったのが江戸ことばの始まりであるという(諸説あらあな)。この川越ことばといわれる「べらんめえ」口調もいわゆる川越の城下のみで発達したものであるらしく、入間川をいっぽん越えるともう「だで」だの「だんべえ」だのといった武州ことばが断然優勢であったようだ。その城下町の一番外れのあたりの入間川の内側で生まれ育ったものとしては、江戸ことば/川越ことばにもイモ臭い武州ことばにも強く親近感をおぼえる部分はある。どちらのことばもやはり自分のなかにあるものなのである。川越の旧市街界隈の出身である灰野敬二はちょっぴり口を尖らせてもごもご話すような印象があり、どこか江戸ことば/川越ことばというものの源流のスタイルを思わせる口調であるようにも思える。ばりばりの「べらんめえ」口調では決してないが、かつては鍛冶町や大工町があった城下の職人町のあたりで生まれ育っているので、そうした土地の気風のようなものを強く今に受け継いでいるのではないだろうか。やっぱり「だで」だの「だんべえ」だのといっている灰野さんは、あんまりさまにはなんねえな。「おい、てめえ。おっぺすなって、ほら、おっぺすなっていってんだろ、ひっくりけえっちまうだろう。どこにめのたまつけていやがる」なんていっていてほしいよね。向島出身の外山惠理アナウンサーは、かなりきつい江戸弁を話すことで知られているが、あのエクストリームな江戸ことばのルーツもまた灰野敬二を育んだ川越城下下五カ町の職人町であると思うと、それもまたなかなかに感慨深い。

(2021年4月4日、フェイスブックに投稿。2022年3月、加筆)

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