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ネコ・ナイン「イゾラ」

ネコ・ナインについて

これはネコ・ナインのアルバム「イゾラ」である。そして、ネコ・ナインにとっては約八年ぶりの新作である。アルバムとしては、11年にリリースされたファースト・アルバム「サマー・イズ・ユー」以来、約十一年ぶりのセカンド・アルバムとなる。これほどに長いブランクを挟みながらも、堂々たるニュー・アルバムのリリースをもってネコ・ナインが完全復活を遂げたことを、まずは喜びたい気分である。かくも長き不在の果てに、新天地より久々の便りが届いたという感じか。おかえり、ネコ・ナイン。
ネコ・ナインは、セヴァ・シャポシュニコフによるソロ・ユニットである。もしくは、メンバーはセヴァだけのワンマン・バンドともいう。さらに別の言い方をするとすれば、セヴァが単独で音楽活動をする際のエイリアスが、ネコ・ナインということになるか。そんなネコ・ナインは、当初はシンプルにネコというアーティスト名/グループ名を名乗っていた。09年、ロシア西部のヤロスラヴリでネコは活動を開始している。ワンマン・バンドというと聞こえはいいが、要は若きマルチ・インストゥルメンタリストによる宅録プロジェクトである。
10年の春、ネコは四曲を収録したデビューEP「マイ・スターズ」を、ロシアのネットレーベル、ミモノットよりリリースした。ひっそりとネットの世界の片隅に現れたネコであったが、その瑞々しくも鮮烈で質の高いポスト・ロック〜モダン・ロックのサウンドは、即座にごく一部で世界的な注目の的となった。かくいうこのわたしもその当時にネットの世界の片隅でひっそりとやっていた音楽ブログで、ネコのデビュー作をリヴューして紹介した一人である。
時はおりしも、00年代のネットレーベル全盛の時代は急速に終わりを迎えつつあり、その一方でソーシャル・ネットワーキング・サーヴィスが急速に台頭しつつある時期であった。わたしがネコの音源を発見したように、セヴァも「マイ・スターズ」のリヴュー記事が載っているわたしのブログを発見し、ネットの世界の片隅で個人と個人の繋がりが生じた。
そうしたわたしとセヴァの間に生じた繋がりが、当時わたしが運営していたネットレーベルのミゾウからリリースされたネコ・ナインのファースト・アルバム「サマー・イズ・ユー」へと結びついてゆくことになる。アルバムが発表されたのは、11年の秋。東日本大震災から半年とちょっと経ったぐらいだろうか。まだまだ色々と不安に満ちていた時期で、福島第一原子力発電所爆発事故の影は黒く大きく重苦しく尾を引き続けていた。現実の世界が一瞬にして崩れ去り、日常が一変してしまう脆さや儚さを目の当たりにして、強くショックを受け、そこからひと時でも目を逸らすために余計に熱心にネットレーベルの運営などを頑張っていたようなところもあっただろうか。今から思い返してみると、震災の頃のことは、なぜか色々と細かいところが空白になってしまっている。だがしかし、とにかく「サマー・イズ・ユー」は、ミゾウが自信をもって世界に向けて送り出した作品であった。
このアルバムのリリースの際に、ただのネコでは溢れかえる情報の海に埋もれてしまってネットでは即座に検索されにくいのではないかという懸念から、わたしが改名の提案をし、セヴァがいくつかの具体案を考えて、アーティスト名(ユニット名)をネコからネコ・ナインへと変更した。とても懐かしい思い出である。そして、今もまだネコ・ナインがネコ・ナインの名で活動を続けてくれていることを、とても喜ばしく感じ、それとともに少し誇らしい気分を抱いていたりもしている。
あれから、瞬く間に十一年が過ぎた。もうネットレーベルのミゾウからのリリースもほとんどない。元々、ネットレーベルの全盛期であった00年代にはわずかに間に合わずにスタートした、かなり遅れてきたネットレーベルであった。そんなミゾウも、今はもうその役割をほぼ終えてしまっているといってよい。SNSの時代においては、世界中の誰もが世界に向けて自分の作品をもしくは自分自身を発信してゆくことが可能となった。もはやネットレーベルという中間的なプラットフォームに、アーティストがディストリビューションやプロモーションを委ねる必要はほとんどなくなってきてしまったのである。その時代の境目が、00年代から10年代へと移行してゆく時期に、かなりはっきりとあったことを今でも記憶している。
そんな、ネットレーベルのミゾウが、ゆっくりと活動のペースを落としていった10年代、ネコ・ナインもまた様々な変化の時を迎えていた。ただ、その変化の片鱗は、もうすでにアルバム「サマー・イズ・ユー」の時点においても少なからず窺い知ることができていた。初期の宅録スタイルのポスト・ロックやモダン・ロックやプログレッシヴ・メタル的なサウンドのアプローチは、このアルバムのリリースの頃には、もう一段も二段もグレード・アップしていて、明らかにネコ・ナインはフィジカルなバンド・サウンド化へと向かう過渡期にあった。そんな風にも感じられていた。平たくいえば、その音楽性に極めてロック的なダイナミズムが備わってきていたのである。デビューEPの「マイ・スターズ」は全曲インストゥルメンタルであったが、アルバムにはセヴァのヴォーカルをフィーチュアした楽曲が一曲だけ含まれていた。また、アルバムには、デビューEP収録曲のセルフ・リメイク・ヴァージョンが、ボーナス・トラックとして収録されている。そして、そこには外部からゲスト・ヴォーカリストが迎えられていて、インストゥルメンタル曲だった原曲がヴォーカル曲へと生まれ変わっている楽曲がある。当時は、それが静のサウンドから動きのあるヴォーカル曲に新たなチャレンジをしているように思えて、ネコ・ナインの音楽性の向上という進化の一部としての変質と見ていたのである。
そして、その後のネコ・ナインは、実際にワンマン・バンドから一般的な合奏を行うロック・バンドへと、その形態を変化させてゆくのである。セヴァを中心に五人組となったネコ・ナインが、精力的にライヴ活動を行なっていることは、時折ユーチューブにアップされている映像を通じて知ってはいた。しかし、新しいアルバムの制作の情報などは、さっぱり聞こえてこなかった。そして、そのうちにバンドがライヴを行なっているという情報も届かなくなってきた。それもそのはずで、15年にはバンドは解散してしまっていたのである。これを境に、様々な理由からセヴァはネコ・ナインとして表立った活動を行わなくなってしまう。バンドのネオ・ナインは解散し、ソロ・プロジェクトのネコ・ナインも完全に活動を停止してしまったのだ。

空白の時間

それから四年の月日が瞬く間に過ぎた。セヴァは、それまでのような音楽制作や音楽活動を中心とする生活からは少し距離を置いていたようである。だが、しばらく休眠中であったネコ・ナインを目覚めさせるきっかけは、思いがけぬところから思いもかけぬ形でやってきた。19年、五人組時代のネコ・ナインのキーボード奏者であったニキータ・コジェミアキンが、ネコ・ナインの未発表曲のリハーサル音源をセヴァに送ってきてくれたのだという。それは、もはや完全に記憶の外側に長い間追いやられていた楽曲であった。しかし、それをあらためて少し時間を置いた状態で聴き返してみると、その場で音楽制作に対するアイディアやイメージがたちまち蘇って、さらに半ば忘れかけていた音楽に対する情熱も湧き上がってきたようなのである。その瞬間から、その未発表曲を独力で完成させ仕上げてゆく作業が始まった。
ひとつ小さな思い出の箱の蓋を開けると、それに触発されるのであろう、忘れかけていたいくつもの箱が次々と開き始めることがある。古い未発表曲に手を加えている間に、ずっと手付かずのまま放置されているネコ・ナインの未発表曲のデモ音源が、まだ手許にかなりあることをセヴァは思い出した。それらの古いデモ音源を聴き返し、今の自分の感覚であらためて捉え直し、リプロディースして仕上げてゆく作業が始まった。こうしてネコ・ナインは、長い休眠から復活したのである。その原点に立ち戻り、セヴァの宅録ソロ・ユニット、いわゆるワンマン・バンドとして。
いくつかの古い未発表曲のデモ音源を仕上げてゆく作業を進めてゆくうちに、復活したネコ・ナインの新曲のアイディアも湧き出してきていた。その当時、セヴァは20年にネコ・ナインの新しいアルバムをリリースする計画を立てていたという。しかし、今度は別の思いもよらぬ事態が復活したネコ・ナインの前に立ちはだかった。新型コロナウイルス感染症、いわゆるCOVID-19の世界的な大流行、つまりパンデミックが起きたのである。この時期、セヴァは、とても多忙な身となり、再び音楽を中心とする生活からは少し距離を置かざるを得なくなってしまったという。ロシアは、ヨーロッパにおいてもコロナの感染者数における死者の数の割合が飛び抜けて高い国である。おそらく感染症流行初期の段階から中央も地方も医療が逼迫し、ロックダウン政策がとられる中ぎりぎりのところで医療崩壊を免れていたという感じではなかったのではないか。それでも、コロナ感染者の死者数は、一日に五百人、千人、千五百人ととどまることを知らずに増え続けた。
21年に英国で制作されたドキュメンタリー番組「プーチン政権と戦う女たち」においても伝えられていたが、ロシア国内の政治状況・社会状況は驚くほどに悪化の一途を辿っているようである。今回のパンデミックとロックダウン政策が起こるよりも遥か以前からプーチン政権による政治活動や表現や言論の活動、LGBTQに関する人権運動などに対する社会統制は相当に厳しく、そのあからさまな弾圧や迫害から逃れるために海外に移住や亡命をするものも少なくなかったという。そうした傾向に今回のパンデミックがさらに拍車をかけたのであろう、紛れもなくプーチンの独裁体制国家となりつつあるロシアを見限り見捨てる人々は、ますます増えていった。
「プーチン政権と戦う女たち」は、反体制的政治活動を行い当局に拘束されると重い刑事罰や禁固刑が待ち構えているため、男性の活動家はすでに国外に拠点を移したり亡命してしまっている状況で、後に残された女性の野党議員候補たちが既に八方塞がりになっている中でも政権に戦いを挑み続けている姿を追っている。現在のロシアでは、野党の候補が選挙に立候補するだけでも多くの障碍や妨害にさらされる事態となっている。民主主義的な選挙システムが上から下まで機能不全に陥り崩壊している中で、大統領の座に再選され続けているウラジミール・プーチンは、やはりもはや独裁者と呼ぶしかない存在なのである。
14年のクリミア併合以来、燻り続けていたウクライナとの関係もかなりきな臭いものになりつつあった。そんなパンデミック期の最中にセヴァは、ロックダウンが緩和される時期を見計らってか、故郷のロシアを離れ、オランダのアムステルダムへと移住をしている。そして、その新天地において、当初の予定からは二年ほど遅れて、ようやく復活したネコ・ナインの新しいアルバム「イゾラ」が完成した。

「イゾラ」について

アルバム「イゾラ」には、全十曲が収録されている。アルバムのリリースは約十一年ぶりであることもあり、各楽曲の書かれた時期、または制作された時期は、かなりまちまちである。ネコ・ナインそのものも、この間に活動の形態が変化したり、活発に活動していた時期もあれば、完全に活動を休止していた時期もあった。そのため、「イゾラ」の収録曲を、ざっとり大別すると、三つのタイプに分けることができる。まず、A類は、ファースト・アルバム「サマー・イズ・ユー」以降にセヴァが宅録して録り溜めていた古いデモ音源をもとにしている楽曲である。次に、B類は、主にネコ・ナインが五人組バンドであった時期にスタジオでのジャム・セッションから生み出されていった楽曲。そして、C類は、再びネコ・ナインがセヴァのワンマン・バンドとして復活を遂げてから書き下ろされた純然たる新曲と呼べる楽曲である。
最も古い楽曲から最新の楽曲まで曲が書かれた時期には、ほぼ十年近い時間的な開きがある。その上、初期のネコ・ナインと中期のネコ・ナイン、そして活動休止期を挟んで復活した新生ネコ・ナインでは、それぞれに制作された環境も創作のスタイルも異なり、楽曲の成り立ちそのものにも違いがある。だが、そうした楽曲ごとにばらばらな違いがあることは、復活したネコ・ナインのこれまでの多難であった道のりや、過去三年間の大きな山や谷を経験し、国外への移住という人生における最大の変化の時を迎えた自分の内面の在り方・有り様に、実はよくマッチしているのではないかとセヴァは語る。アルバムとしての統一的なコンセプトはないけれど、そうであるがゆえに「イゾラ」というタイトルの下に、これらのばらばらの十曲は集められているのだと。
アルバム・リリースに合わせて公表された文書によれば、アルバムの楽曲は、激しい嵐や人がいなくなった海岸、深い森などの古い(ヨーロッパの)伝説譚の風景・情景をイメージしているとセヴァは語っている。「イゾラ」とは、つまり島的な存在とは、手付かずの自然や神話的世界、太古のそして原初の世界の記憶に結びついている、と考えられる。また、セヴァは「これは、一人のちっぽけな人間存在が、巨大な未知なる世界の中でサヴァイヴし、幸福と平穏を手に入れようと奮闘する(アドヴェンチャラスな)様を描いた作品」だとも言う。これは、明らかにパンデミック期の見えないウィルスに対する不安や見知らぬ土地での新しい生活への不安といったものに立ち向かい何としても道を切り開いてゆこうとする、セヴァ本人の過去三年間の波乱に満ちた変転していった人生と、ヨーロッパの大地と海と深い森が太古の時代から記憶している伝説の冒険譚といったものとを重ね合わせているようにも見える。つまり、この「イゾラ」という作品は、ワンマン・バンドであるネコ・ナインらしい、非常にパーソナルで、かつまた文学的・文芸的な味わいをもつ、現代の社会と神話の世界のイメージを細かく撚り合わせていったような作品と言えるのかもしれない。

イゾラの十曲

一曲目は、「ゼイアー・ウィングス・オブ・ゴールデン・ライト」。A類。今まさに大きく翼を広げて飛び立ってゆく瞬間を克明に描き出してゆくような、ネコ・ナインらしいドラマティックで叙情的なポストロック・サウンド。終盤は、金色の光を思わせるコーラスに包まれる。

二曲目は、アルバム・タイトル曲の「イゾラ」。C類。終始、平板で淡々としていて、無理にドラマを盛り込まない、ゆったりとした曲想。どんなに波風が激しくなろうとも、決して動じることのない、島というものの泰然自若ぶりが浮かび上がってくる。

三曲目は、「スパークス・イン・ザ・ウィンド」。C類。小さく身を縮め静かにじっと堪えていたものが、ゆっくりと立ち上がり、強い向かい風に挑み立ち向かうように歩き出す。その一歩への強い意志の動きの過程を捉えたような一曲。

四曲目は、「ジ・オンリー・ホープ・ウィーヴ・エヴァー・ノウン」。A類。絶望の深い淵から抜け出そうと、ひとり当て所ない葛藤を繰り返す。その絶望的な努力をしている姿を、自らが客観視しているような。生きることへの情熱と冷淡の両面が入り混じるような一曲。

五曲目は、「ナンバーズ・アンド・ボーンズ」。A類。静謐に包まれている世界。夜明け前の、うっすらと光が流れ込んできている情景が目に浮かぶ。少しずつ世界が明るくなってきて、そこに今までには見えなかったものが見えてくる。

六曲目は、「ファイアワークス・アップ・ゼア」。B類。真っ暗な夜空に、ぱちぱちと火花が飛び散る。ゆっくりと繊細な色で様々な形状が広い空に描き出される。しかし、どんなに眩く美しい光でも、それは人工物であり、とても儚い。

七曲目は、「スノウフレイクス・ゴーン・グレイ」。B類。スノーフレイク(スズランスイセン)は、中央ヨーロッパが原産の春先に咲く白い小さな釣鐘状の可憐な花。その無垢な白い花の色が、灰色に変わってしまう。長閑だった大地に不穏な空気が忍び寄る。やはりどうしてもロシア軍のウクライナ侵攻が頭に浮かぶ。

八曲目は、「キャス・パリーグ」。B類。未知なる大自然を相手にした、ちっぽけな人間の勝ち目のない戦い。重苦しく湿り気のある野戦のようなサウンド。キャス・パリーグは、アーサー王の伝説に登場する猫の怪物。人間に災いをもたらす猫というと、日本でも明治期に大流行した伝染病(コレラ)の姿を顔は虎で体は狼そして狸の睾丸をもつ大きな猫の怪物として描いた錦絵があった。

九曲目は、「フロスト・ジャイアンツ」。B類。霜の巨人は、ユミルから生まれた巨人族。静かにゆったりと激烈なエモーションが迸りゆくような曲調。太古の大自然の記憶そのものでもある巨人族と科学という文明が生み出した神的な力を手にした人類との最後の戦い。終末の日が訪れ、世界は炎に包まれ、焼け落ちて海中に没する。しかし、世界樹は生き残る。

ラストの十曲目は、「ウルヴス」。A類。科学と文明に対する永遠に未知なる大自然からの反撃。牙を剥き襲い掛かる野生の狼のようなサウンド。迸る激情を押しとどめるものは、もはや何もない。いずれかが滅びることは、すなわち世界の終末を意味する。もはや、そこに希望すらない。

変化と不変

アルバム「イゾラ」は、非常にダークで陰鬱な部分もあるが、全体的にはとても美しく壮大で非常にディープな作品となっている。十一年ぶりのアルバムということを考えれば、その間のセヴァの人間的な成長が作品の音楽的な成長にも反映されていると見るのが適当であろう。まさにその通りになっているアルバムである。
ファースト・アルバム「サマー・イズ・ユー」の頃は、まだ全体的にプロデューサーとしてもミュージシャンとしても荒削りであり、技術的にも能力的にも稚拙で未熟なところがあった。セヴァは、そう当時のことを振り返る。だが、そうしたまだ若く向こう見ずなところがあったからこそ(無意識的にナチュラルに)引き出されていた多くの良い部分も確かにあった。セヴァもそれを認めていて、そこにこそネコ・ナインのネコ・ナインらしい情感豊かで硬軟併せ持つサウンドの原石の輝きがあったのだといえるだろう。
復活した現在のネコ・ナインは、技術面でも能力面でも格段に向上をしていて、音楽的にも成熟しているとセヴァは太鼓判をおす。かつてのネコ・ナインにあった良い部分を継承し、それをより引き伸ばし、あらゆる面で成長したネコ・ナインになっている。実際、セヴァが手許で十年もの間あたため続けていたデモ音源が本作において遂に完成形に仕上げられ作品化されている。これまでのさまざまな経験、特にここ数年の激動の時期が、セヴァの極めてパーソナルな表現活動の一環であるネコナインの音楽性に、まざまざと反映されている。
ヤロスラヴリの若者であったセヴァが成長し、より広い世界へと踏み出し、人間的にも大きく成長していった。その足跡が、そのままネコ・ナインの新しい作品となっている。おそらく、これからも絶えず成長を遂げてゆくネコ・ナインの作品を期待できるはずである。

島と狼

アルバムのタイトルとなっているイゾラとは、イタリア語で島を意味する。英語でアイソレーションというと、孤立や隔離という意味になる。島は、絶海の孤島などというように、あらゆる岸から遠く切り離されて、大海原の真ん中にぽつんと孤立してある、というイメージがある。イゾラとは、孤立している、孤高のもののことである。
現代はソーシャル・ネットワーキング・サーヴィスの時代であり、地球上のどこにいる人とでも簡単に繋がれてしまう。人と人とがSNSのネットワークを通じて繋がっていることが当たり前の社会は、現実と仮想が入り組んだ多層的な生活世界というものを前提としているといってもよい。そのような社会や世界の中でイゾラたろうとすることは、ネットワークや繋がりから切り離され、孤立する孤高のものとなろうとする意志の表明となる。
アルバムのラストを飾るウルヴスとは、狼のこと。学名はカニスルプス。狼は、自然界では主に家族単位の群れで生活する。群れの中で育った子供が成熟すると、家族のもとを離れて単独で行動することになる。そして、その後に自分の家族を作り、そこで新たな群れを形成してゆく。この群れを離れて単独行動している時期の狼を、一匹狼といったりする。英語では、ローン・ウルフという。時に異端や反体制的という意味のマーヴェリックとも同意とされる。概して、集団と意図して距離をとる人間や集団の内部でも周りに誰も寄せつけず孤立を選択する人間のことをいう。
このように狼には群棲と孤高・孤立の二面性がある。イゾラ的でもあり非イゾラ的でもある。だが、このアルバムでは狼は複数形のウルヴスとなっているので、群棲する血によって結びつき繋がっている狼のことをいっているのだろう。しかし、この群棲する狼の繋がりは、現代的なデジタル・ネットワークによる繋がりとは似て非なるものである。自然界の野生の狼たちが有する結びつきや繋がりは、人間世界から遠く切り離された隔絶したイゾラ的な繋がりでもある。
欧州に生まれ育ったセヴァの見解によると、狼とはやはり人間世界からは明確に隔たった自然界を表徴するものであり、人間にとっては永遠に触れることのできぬ理解不能なものの象徴でもある。イメージとしては、神話的な巨大狼フェンリルや森に棲む人狼などに近いだろうか。人知を越えている、人間が戦いを挑んでも決して敵わないもの。そして、永遠に人間にとっての暗い運命や宿命であり、避けることのできない悲劇をもたらすものでもある。
島は孤立する孤高なものであるが、それだけでもう世界を確立していて、もはや人間がおいそれと手出しのできる存在ではない。それは、もうすでに自然そのものであり理解不能なものでもある。その一方で、狼は未知なる巨大な自然界として、常に人間世界の傍らに寄りそっている。もしも、人間がイゾラ的であろうと意志するのであれば、非イゾラ的イゾラ性をもつ狼=カニスルプスへと近づくことが最も近道となるであろう。
人間は、狼の部分をもちながら、島のようにもなれる(だろう)。神話的な部分を継承しながらも現代的な部分を併せ持つ人狼が、そのイメージとなるか。そういった方向性をもつ生き方というものが、これからの時代には必要になってくるようにも思える。構造的に矛盾を増大させてゆくだけの近代世界は、もうすぐ立ち行かなくなる。すでに限界が見え始めている。
新たな未来を切り開いてゆくには、そもそも人間世界の対極に位置する自然界ともっと真摯に(非ロゴス的なロゴスによって)対話をし、人間が根源的にもつ暗い運命や宿命を、もっと謙虚によく知ってゆくことが必要になるだろう(自然に還る)。これまでと同じように無闇矢鱈に自然に近づき、それを人間の意のままにしようとすると、これまで以上の思わぬしっぺ返しを喰らうことになる。新型コロナウイルス感染症のパンデミックをはるかに凌ぐ、大きな悲劇が人類の未来に待ち構えているのかもしれない。

悲観と楽観

現在、セヴァはロック・バンド、バード・ボーンのヴォーカリストとしても音楽活動を行なっている。基本的に、こちらのバンドでは純粋にヴォーカリストとして歌うことと歌詞を書くことに徹しており、曲作りに関してはほぼバンド任せでセヴァが曲を提供することはないらしい。そういう意味では、ソロ・ユニットであるネコ・ナインでの活動とは明確に線引きがされている。
一時期、五人組バンドとして活動していたネコ・ナインのDNAの一部を、バード・ボーンが継承しているとも言えるだろうか。そうした十二分にロック・バンド的な活動を行える場が外部にあるからこそ、現在の再びワンマン・バンド形態に戻ったネコ・ナインでは、思う存分にディープでドラマティックで極めてパーソナルな音楽性を追求できているのかもしれない。ロック・バンド的なロック・バンドらしい活動からは隔絶された場所で、ネコ・ナインはカニスルプスの境地へと接近し独自のイゾラ化への道を進んでいるのである。
日本でもパンデミックは、これまでに当たり前のものとして存在していたライヴ・ミュージック・シーンが、決して当たり前のものではなかったことを初めて明るみにした。ロックダウンや行動制限によりロック・バンド的なロック・バンドらしい活動というものを維持してゆくことは極めて困難な状況となった。演る側も会場を提供する側も見えない危険なウィルスを前にしては、これまで通りのことを続けてゆくことは出来なくなってしまったのである。音楽文化は、このまま死んでしまうのではないかとさえ一時期は思われていた。
その一方で、ネコ・ナインのようなワンマン・バンド的なアーティストたちは、パンデミック期にもあまり大きな影響を受けずに活動を続けていた。いや、この時期に、これまでよりもさらに勢いを増してきていたようにも思える。誰もが簡単に手軽にフリーウェアや安価なソフトやツールを使って音楽制作ができるようになり、質の高い宅録作品をバンドキャンプやスポティファイ、サウンドクラウド、ユーチューブなどを通じて、すぐさま配給したり配信したりすることが出来てしまう。いにしえのネットレーベル期から音楽活動を続けているセヴァは、これはもう十年以上も前から存在している音楽をめぐる状況の変化の一環であって、その成長がここにきてさらに勢いを増しているだけなのだと語る。そして、様々な経済面や環境面での制約が取り払われてゆくことで、これまで以上にクリエイティヴな才能が単独で素晴らしい音楽を作り出してゆくようになる。そうなってゆく動きをセヴァも歓迎したいという。
音楽が非接触型のアートとなることもあるということを、われわれはパンデミックの時代に学んだ。そして、テクノロジーの発達や発展が、もはや地球上のどの島も絶海の孤島にはしないということをウクライナ戦争のスターリンクによって目の当たりにした。そして、これはそれぞれに孤立していた島がそれぞれに良質なソフトやツールを用いて独自の進化を遂げることもある時代でもあることを教えてくれる。それぞれの島は思い思いに繋がることもできてしまう。パンデミックの時代、島が狼となることも可能となる。孤高の島は、世界と繋がりながら、その状態で島の内部に狼的なマーヴェリックを有することができる。
狼に近づきイゾラ化を進めるネコ・ナインは、今のこの時代に対して(大方の予想に反して)非常に楽観的である。これからの世界は、もっともっと良くなってゆく、とセヴァはいう。これまでの人類の歴史が示しているように、多くの惨事や災禍は繰り返し起こる。しかし、その度に人間は成長してゆく。近所に住む隣人とは極めて希薄な繋がりしかなかったとしても、遠くに離れて住む一度も実際には会ったことのない人々がソーシャル・ネットワークを通じて繋がっている。つまりセヴァとわたしとの間にあるような繋がりである。そうした繋がりが、密に張り巡らされている世界であれば、きっと大丈夫だ。そのために島や狼についてじっくり考えてみようとネコ・ナインはこのアルバムを通じて暗に訴えかけているようにわたしには感じられるのである。

(2022.12)


以下に、「マイ・スターズ」(10年)と「サマー・イズ・ユー」(11年)を紹介した当時のブログの記事をそのまま再掲する。ネコ・ナインの作品に関して書いたものの記録として。

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