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「死にたいと思ってはいけない」と思わないで

女性の自殺者が増えているというニュースを聞きました。今年はお客様からも身近な友人知人からも「生きるのがしんどい」という話をよく聞きます。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。  

今年は未知のウィルスの出現によって思いがけないことが次々に起こっています。生活の変化は心から望んだ幸せな変化であったとしても大なり小なりストレスを生みます。ですからこれまでの生き方では対処できないことが続けば「生きるのがつらい」「つらい人生をこれ以上続けたくない」と思うのは無理もありません。ただ気になるのはそういう方々が辛い人生そのものと同じくらい、あるいはそれ以上に、生きることを辛く思う自分を責めていることです。


私は猫科のブルーライトカットアニマルにディスプレイ&キーボードを占拠され、なかなかテキストが書けない今日この頃ですが、今日はこの世をおさらばしたいあなたに、そして身近な方や憧れの方がこの世をおさらばしてしまい、取り残された方に向けて、猫のゆるす限り個人的な拙い思いを綴ってみたいと思います。


あのね、自殺したら成仏できないとか、前向きに生きていかなきゃとかね、そういうの私は間違ってると思うのよ。自分を愛さなければいけないとかね、上を見たらきりがない、生きていることに感謝しないととかね、それも厳密にいうと違うと思う。


猫がこっち向け、遊べと圧をかけてきますが、g:\]y7;/t ※キーボードに乗ってきた


まずお伝えしたいのは、死にたいと思うこと、死ぬことは悪いことではないということです。次に実際に死を選んだとしてもそれは罪ではないし、死後にこの世と同程度、あるいはそれ以上の地獄があるという話は信頼に値しないということもお伝えしたい。


つまり「死にたいなんて思ってはいけない」とは思わないでって言いたい。
最後に縁あってこのテキストを読んでくださっているあなたに、私からの個人的なご提案をお伝えしたいと思います。


私は手相、タロット、西洋占星術の与太話に定評のある占い師ですが、今回の話は私の個人的な死生観であり、なんら占術的な裏付けや特定の宗教の教理とは関係がありません。あの世が見えるとか、死者や神仏と話ができるといった超越的な力も私にはありません。これから書くのはごく私的で個人的な思いです。


私は生きる目的とは魂を宿した肉体が五感を通じてこの世を謳歌することだと思っています。我々はこの世に遊びに来ている。修業に来たのではない。だから嫌なことがあれば元いた場所に、いわゆるあの世に帰りたくなるのは当然です。この世ランドに馴染めなくても帰りたくなる。


一緒に遊ぶ仲間がいなくても帰りたくなる。仲良しが先に帰ってしまっても帰りたくなる。アトラクションにたどり着くまでに時間がかかり過ぎても帰りたくなる。乗りたいアトラクションに乗れなさそうだと他はもういいや、帰る!と思う。


当然ですよね。遊びに来たんだから、楽しくなかったら、苦しく辛い思いをしてまで残る理由はないと私は思います。


一方「この世に生きるのは魂の修行」と言う考え方もあります。このような死生観は日本的な仏教思想にも色濃く反映されています。そして宗教の多くは為政者が臣民を治めるのに都合よくできています。「耐えれば救われる、抗えば罰を受ける」というのがその根底にある思想です。愛と信仰、救いと安寧はこの世でどれだけ為政者、権力者が望む生き方が出来たかにかかっていると多くの宗教は説きます。


こうした死生観を広める楽しさ、それを信じる人を統べる楽しさもこの世の楽しみのひとつかもしれません。またこうした価値観に基づいて多くの苦労を買って出ることの喜びもまたこの世に生きる楽しみのひとつでしょう。

この世ランドの楽しみ方は多種多様です。私は絶叫系マシンに乗りたい人の気が知れませんが、絶叫系マシンのないテーマパークに用はないという人もいます。それにお化け屋敷はテーマパークの目玉商品です。この世ランドを楽しむとは肉体という乗り物に乗った魂が感情を揺さぶられる経験をすることです。ですから大泣きする、絶望する、恐怖にすくみ上ることもある意味この世ランドの醍醐味なのだと思います。


私は運命とはテーマパークで何に乗るかを決めてくるようなものだと思います。絶叫系マシンとお化け屋敷を梯子して、長時間並んでパレードの場所取りをする計画を立てた人もいるでしょう。並ばずに乗れるアトラクションだけを選ぶ人もいます。


けれどもこの世ランドそのものはやはり生きる喜びを楽しむためにある。この世ランドでお楽しみを倹約しておけばあの世にお楽しみが待っているというのは違う。この世ランドの苦労がポイントになってあの世で還元されるというのはデマです。喜びを伴わない苦痛を味わうことはこの世界の目的を逸していると思います。いいですか、テーマパークに遊びに来ているんです。 修行しに来たんじゃありません。


ですからこの世ランドが楽しくなければあの世に帰りたいと思うのは当然です。この世ランドを満喫して、もう十分だと思う人ばかりなわけがありません。


その一方で、もっと遊びたい、まだ乗ってないアトラクションがたくさんあるのにと思っていても退園せざるをえないこともあります。乗り物である肉体は遅かれ早かれ動かなくなってしまうからです。


さて、乗り物の故障としての病気や事故、老朽化という形での老死は問題ないが、故意に事故を誘発して自死、自殺という形でこの世ランドを去るのはあかんという考え方があります。

そうした考え方を持つ人は「この世ランド運営者たる神仏やこの世の理は自死をゆるさず、乗り物を失った魂はあの世にも帰れず、筆舌につくし難い苦しみを抱いてさまようのだ」と言います。


これは二つの点からナンセンスです。

まず「魂が実際に存在し、故意の自殺がゆるされない」と考えた場合、何を故意の自殺とするのかという問題があります。

自殺とは毒物を飲むなど故意に健康に害のあることをする、あるいは長期に渡って絶食するなど害が及ぶ危険のある行為をすることです。では何を毒物としてどこまでカウントするべきでしょうか。また身体のケアとしてどの程度のことをすれば妥当な線といえるでしょうか。


武器を手にした兵士に追われ崖から身を投げることと、通勤途中に電車の前に踊りだすこととの違いを、いったい誰が区別するのでしょう。軟禁、幽閉状態で強制労働や性的搾取を受ける人が飲食を拒否した場合、それは自殺行為としてこの世ランド管理者から裁かれるべきでしょうか。


寝なければと思いながら眠らず、食事を摂らなければと思いながらとらない。結果的に身体を壊して病気になる。これも自殺行為としてカウントされるべきでしょうか。

だとすればこのルールは肉体ガチャで当たりを引いた丈夫な身体を持つ人に有利で、繊細で手のかかる身体に当たった人には不利です。とても公平とはいえません。


またこのようなルールは人を追い詰める人間狩りアトラクションを選んだ人にとって有利で、追われる恐怖を味わう側にとっては圧倒的に不利です。たとえ自分で追跡型お化け屋敷系アトラクションを選んで生まれてきたのだとしても、当然の帰結として判断能力が狂い、乗り物が故障したことを根拠に減点されるのは不当です。 


つまり「自殺したら浮かばれない」は身体的、社会的強者にとって有利で弱者には一方的に不利な、とてもアンフェアなルールと言わざるを得ません。


次に「魂など存在せず、人の命は肉体とともに滅ぶが、宗教的な教えは心の支え、救いになる」と考えた場合、自殺を忌避することは心の支えになり、人を救うでしょうか。


自死されて困るのは死んだ人ではなく残された人です。


特に為政者にとって臣民は貴重な労働力ですから、支配者の許可なく自死を選ぶのは反逆といっていい事態です。「自殺したら浮かばれない」「前向きに強く生きていかねばならない」という言葉は為政者にとって、その人の労働力を当てにする人が声を大にして言いたいことでしょう。


しかし自死を切望する人は心に沸き上がる「死にたい、もう生きていたくない」という当然で自然な気持ちを絶対者である神の名のもとに否定され、いったい何の慰めがあるでしょうか。目の前の辛さの解消には力を貸そうともせず、そこから逃れることはゆるさない、逃れたら追い打ちで罰を与えるような教えにどんな救いがあるでしょうか。


「いかなる事情があろうとも『仕事がつらいから家に帰りたい』と思うことは勤務先への反逆である、実際に帰ってしまった場合は賠償金を請求する」と力説する経営者は労働者を対等な人間だと思ってません。狂ってる。すぐに辞めた方がいい。


私たちはこの世に苦しむために生まれて来たのではない。


苦しいときにもうやだ帰りたいと思うのは当然だし、帰ってしまったとしても誰に責められるいわれはない。帰る許可を誰かに求める必要はないし、帰り方をジャッジされるいわれもない。そりゃ帰りたくない人を無理やり連れて帰ったり、どうせもう帰るからと他の来場者に嫌がらせをするのはダメですよ。しかしそこまで自暴自棄になる前に帰るわ、と帰る人を責める権利を持つ人がいるでしょうか。


「仕事を終えずに帰ったらと家に入れてもらえない」。そんなことを信じさせて得があるのは労働力としての命を管理したい権力者だけです。


労働力なんて当てにしていない。生きているだけでいい。自分を置いて帰らないでほしい。もっと長く一緒にいてほしい。死なないでほしい。もしそう思うなら借り物の思想から引用した「死んでも浮かばれない」なんて言葉より「あなたに生きていて欲しい」と自分の言葉で伝えた方がずっといい。


あの手この手でなだめてすかして懇願したのに、あるいは何の相談もなく、すでにこの世ランドが嫌になったり、乗り物にケチがついたりして、「いったんあの世に帰らせてもらいます」と去っていった方をご存知の方もおられるでしょう。

この世ランド置いてきぼりは確かにつらく衝撃的なことです。関係性によってはあなたの生活環境、人生そのものが一変することもあります。でも少なくとも、その方々がこの世ランドで味わったのと同等の、あるいはそれ以上の苦しみを味わっていまもさまよっていると信じるに足る根拠はありません。

私たちはこの肉体という乗り物を完璧に乗り物を乗りこなすことも、万全のケアをしてやることもできません。

”自死”と”自然死”の境界線は曖昧です。”自死”が故意に乗り物のケアを怠ることだとして、私たちはどこまで自分の意思でこの精巧で複雑な肉体という乗り物を操作できているのかわかったものではありません。

愛する大切な人が乗れなくなった乗り物を残していってしまったことの衝撃は計り知れない。けれども、そこにそれ以上の重荷を、権力を持つ強者にばかり有利な呪い「自死を選んだものは死してなお裁かれ苦しんでいる」という呪いを加えないでほしい。


もちろんあたなのこの世ランドのお楽しみイベントが「涙にかきくれ絶望すること」という可能性はあります。その場合は大いに嘆き悲しんでほしい。

「あなたが悲しむとあの人も心配で浮かばれない」なんて言葉で無理やり涙を引っ込め、空元気で心を圧し潰さないでください。飽きるまで、心ゆくまで発生したイベントをアトラクションを謳歌してこそ、この世ランドに来た甲斐があるというものです。


※じゃあ自死した人の魂が浮かばれない話はなんなんだという件についてはディスカバリーチャンネルの奴隷商人の館の話をしたいがそれはまた今度ね。


これで死にたいと思うこと、死ぬことは悪いことではないこと、実際に死を選んだとしてもそれは罪ではないし、死後にこの世と同程度、あるいはそれ以上の地獄があるという話は信頼に値しないということもお伝えしました。


最後に私からの個人的なご提案をお伝えしたいと思います。


あのね、この世に生まれた目的は楽しむことだと思うので、もしもいま何かこの世ならではの楽しいことがあるなら、帰るのはもう少しあとでもいいんじゃないかと思うのよ。


この世ランドの楽しみには権力の座に就いて摩天楼から下界を見下ろすとか、絶世の美貌で国を傾けるとか数量限定の大型イベントも確かにある。


でも他にもかわいい猫と出会うとか、美味い菓子を見つけるとか、珍しい雲みるとか、雨音を聞くとか、友達の馬鹿馬鹿しい冗談に笑うとか、ささやかだけど捨てがたい魅力のあるイベントもある。パークの職員がちょっと気を利かせてイレギュラー対応をしてくれることもある。何もないと思う時間はあなたが予約したイベントの開始時刻までの待ち時間かもしれない。


あなたは何かを成し遂げるために生まれてきたとすれば、そうしたこの世ランドの楽しみを味わうためであって、この世ランドに金字塔を打ち立てることではない。金字塔の建立が楽しければやっていいと思うけれども、建てられなかったからアカンと思うことはない。


この世ランド創設者がいるとすれば、あなたが「この世ランドめっちゃ面白いな!また来たい!」と思って帰る来場者であってほしいし「もう来ねえよ!と思ったんだけど、乗り物ガチャと新規アトラクションが気になってまた来ちゃった」という人も歓迎すると思う。


どうか死んだらいけないと思わないでください。

死にたいと思う自分を責めないでください。

この世に馴染めなければあの世に帰りたいと思うのは当たり前です。

それから死んでしまった大切な人を怨んだらいけないと思わないでください。

もっと一緒にやりたかったことがあるのに先に帰られたらがっかりして当然です。

私たちはみんないつか帰りたくなくてもこの世を後にしなければならない。その帰り方を採点されると恐れないでください。


そして最後にごくごく個人的なご提案としては、もうちょっと残っていたらパレードがはじまったり、新規アトラクションが開設されたりするかもしれないから、それまでちょっとした手品や出店で笑ったり呆れたりしながら、だましだましこの世ランドを楽しんでいけたらいいですね、ということです。このテキスト読んで面白かったとか、面白くねえよ!と感想を書いたとか、そういうことで日々間を持たせていっていただきたい。


それでは猫がむちゃくちゃにした部屋を片付けててきます。ごきげんよう。

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