見出し画像

「|荼枳尼《だきに》桜」(坂口安吾「桜の森の満開の下」の二次創作:死)

 私は彼女の指に出会った。崖にしがみつき震える指は、桜色に染まっていた。

 私の家は海沿いの崖の上にある。祖父が別荘として建てたものを、絶景と交通の便が悪いのを愛でて使っている。
 崖の突端に一本の桜が生えており、海沿いに車を走らせていると、春先にはその桜が見えて、遠方から客を招く様子なのだが、近づくと見えなくなる。我儘なご婦人のようだと、遥か昔に父が言った。

 春の盛りだった。
 あの頃私は父の秘書を務めており、管理の為に屋敷を訪れた。
 夜半、崖の桜を見ようと外へ出た。屋敷を囲む塀が白々と月を浴び、微温い夜気の中を歩いていくと満開であった。幹がごつごつと醜いから桜は美しい。百日紅さるすべりのように白く滑らかであれば、薄墨色の雲のような花は霞んでしまう。風もないのに散る花を見ていると、指があった。
 私は慌てふためき、信じられないような力で彼女を引きずり上げた。彼女は萎れた花のように冷たい体を私に預け、私の体温を少しずつ飲み微睡んだ。豊かでない胸と白く長い腕と栞のように畳まれた細い体。あの頃から彼女は一向に変わらない。

 仕事の為に来たと言った。随分と昔からここへ来るのだと。私は詳細を尋ねなかった。気づくと彼女は居なくなっていた。
 年が過ぎ私は総白髪となり、政界を去り家族とも別れた。
 この屋敷を隠居所へ決めたのは彼女の為だ。また会うとも知れない彼女の為だ。

 初めは父でしたと彼女は言った。
 酸素を吸うのを嫌がりましてね。医者も母も手を焼きました。退院して家に戻りましたが、鼻の下に管を貼っている顔を恥じて、車椅子を用意したのに、外へは出たがりませんでした。
「私しかいませんでした」
 彼女は遠い目をした。

 私と会ったあの夜は若い男だったそうだ。
 一人で死ぬのは怖い、だが生きるのはもっと怖いと、命を質草に甘える態度が生臭くて嫌だった。彼女が命を吸う間際に、男は突然彼女に挑んだ。精気に溢れた様を見て、あなたの死期は今ではないと言い捨てると、飛び掛かった挙句に崖から落ちた。
「私も落ちるかと思ったのですが、体が途中で引っ掛かりまして」
 その時、次の月も予定が入っていることを思い出した。死病を患い苦しむ人で、これを見捨てるのは気の毒だ。とは言え自力で登れそうにもない。
「とりあえず崖を掴んでいると貴方が来たのです」

 偶然の出会いから恋が始まるように、人の死期に出会う。
「それとも、私と出会うから死ぬのでしょうか。だとしたら申し訳ないのですが・・」
「しかし私は生きてるじゃないか」
 私が言うと珍しく笑った。

 神様は等しく生と死を賜うけれど時期は選ばせてくれない。生まれる時はひと任せ、幸せの絶頂で事故に遭うかも知れず、病に苦しみ死にたくて堪らないのに死ねない。

 長く話した夜、疲れた顔を見せたので泊まれと勧めた。少し迷う様子を見せたが、それでもやはり何処かしらへ帰って行った。
 しかし次に会った時の彼女は一層顔色が悪く、屋敷へ留まるよう勧めると、今度の彼女は従ってくれた。

 「一体どういう方なんでしょうか」
 長年私に仕えてくれる元秘書は余計な詮索をしない男だが、流石に興味を持っているらしい。彼女が逗留して三日になる。医者はいらないと言った。ただ寝て起きて、こちらが用意する食事を大人しく食べる。顔色は元に戻ったが、時々魂が抜けたような顔をする。

 元秘書が懸念しているのは、彼女が違法行為を働いていて、私まで巻き込まれないかとそれだけである。
「私はただ、自分の土地にある桜を自由に使わせているだけじゃないか」
「しかし、あの下で何人死んだやらと思いますと」
「死体はない訳だろう」
「それはそうですが」
 崖の下では骨と化した屍が崖を一層白く見せているのだろうか。
 そんな些事はどうでもよくて、嬉しいのは、彼女が滞在することによって、幾らかでも私を頼りにしてくれているのかと想像することだ。庭先の木の実をついばみに来た小鳥がやっと慣れて、水盤で水浴びをしてくれたような。

 荼枳尼だきにというものがいる。人の死期を悟り、人を喰う。若い荼枳尼は美しくて魅力に溢れているそうだ。その話をすると彼女は困った顔で私を見た。私は遠回しに君も美しいと言いたかった。
 四日目、彼女は家を出た。三日だけ彼女を得た後の喪失感に悩んだ。人を死なせる為に私の元へ来るのなら、千人でも死ぬがよい。

 どうやって普段の暮らしを立てているのか尋ねたことがある。困っているなら何でもしてやりたかった。大丈夫だと彼女は言った。

 どうやって人の死に呼ばれるのかも、尋ねたことがある。彼女は答えなかった。私は医療関係ではないかと見当をつけている。

 どうやって死を授けてやるのかも尋ねたことがある。授けるだなんてと彼女は言った。ただ、その人の灯が消えるのですと言った。
「苦しむのかね」
「いろいろです」
「私の時も頼めるかね」
と聞くと返事がなく、振り向くと彼女がじっと見ていた。
 
 謝礼はあるのか、捕まったことはないのか。要するに金を受け取って安楽死させる商売ではないかということは、確かめる術も必要もない気がした。
 した。
 そう、彼女とのことは全て過去の事だ。切ない位過去の事だ。

 彼女は父親の話をすると珍しく表情を変えるので、それ見たさに、残酷だと知りながら時折話を振った。彼女にとっての初仕事だ。その瞬間二人の間には完全な愛情があった。
「母に恨まれたのは嫉妬かも知れませんね」
 私もそう思う。

「誰でも選べればいいと思いませんか。人と命を鎖で縛るような延命治療は、果たして正しいでしょうか」
 栄養の摂取も呼吸も排泄も繋がれた管で行われ、意識はあるやら無いやら。
「それでも、家族は望んでるかも知れないよ」
「本人の意志はどうでもですか」
「鎖と愛は同意語かね」
 上手い事を言えたなと思っていると、目で叱られた。

「今は色々と選べるそうだよ」
 知人の女性は死装束ではなく、誂えのピンクのドレスで葬られたらしい。海への散骨、樹木葬。遺灰を器に入れて保管する自宅葬。墓など維持するのが大変だから、生前に墓終いをする人も増えた。この狭い国土だからそれもよい。
「そうじゃなくて」
 死ぬ時の話だ。難病患者など条件付きで安楽死をさせてくれる国もある。
 彼女は植物が結実して枯れて土に戻るような、合理的で速やかな死を望むのだ。延命なぞするのはヒトだけだ。彼女は随分と話すようになったが、距離は遠い。

 珍しく警察が来た。
 一応は名の知れた政治家であった私の家に、行方不明者の訊き込みに来た警察官は若者であった。後で署長から電話があり謝罪されたが、直に謝りに来ればよいのにと元秘書は憤慨した。
「やはり、例の件でございましたが・・・」
 どの件か分からんが、彼女が死を施した相手がこの場所を書き置いていたらしい。防犯カメラがあれば画像を提供してもらえないかと、若い警官は尋ねたのだ。分かるような場所には仕掛けていないので、元秘書は断った。
 
 礼を尽くしたつもりか、次は署長が来た。彼女の写真を持っていた。あんなものに写るのだなと思った。
 富裕層の高齢者を狙った詐欺の容疑。殺風景な話だ。彼女に教えてやると、二、三度遺産を受け取ったことがあると言った。
「不用心だね」
「別に要らなかったんですけど」
 その連中は彼女に覚えていて欲しかったのだろう。思いつく手段が金しかなかったのだ。
 
 珍しく客が来た。
 政界に居た頃の知り合いだ。突然押しかけて申し訳ございませんと言った。無論本当に突然ではなく、事前に連絡はあったが、格別懇意だった訳でもないので唐突な印象はあった。
「何もない所でね。春なら桜を見せられたんだが」
 ところが客は、幹と枝しかないその桜を見せてくれないかと言った。
 客の酔狂に付き合って崖の突端に行くと、彼女が居たのである。ああこれかと合点がいった。客は彼女に呼ばれたのだ。
 客は冴え冴えとした顔で帰って行った。またいずれ来るのだろう。    
 私は彼女と依頼者の邂逅を初めて見たことになる。私は彼が来ることを彼女に知らせてはいないし、彼女が来ていたことも知らなかった。偶然は必然か。羨ましいのは彼が帰るときの、悩みなど海の彼方へ消えていったかのような表情である。私は彼女に何も聞かなかった。彼女も言わずに帰って行った。

 依頼から実行までの期間は何の為かと問うたことがある。どちらも適当な言葉か分からない。彼女の説明では、余力のある人は積極的に身辺の後始末に回るそうだ。それでは生きることに執着するんじゃないかと聞くと、
「不思議とキャンセルはありませんね」
 適当か分からない言葉で彼女は微笑んだ。
 彼の立場ではさぞ後始末も多かろう。葬儀には元秘書を行かせた。盛大な式で、跡を継いだ息子が懸命に喪主を務めていたそうだ。彼には弔う躯を残してやったのだから、死なせ方にも色々あるらしい。私なら跡形もなく処理してもらいたいものだ。今度彼女とその話をしてみよう。

 彼女は嫌な顔をした。約束をした人としか、そんな話はしたくないそうだ。そういう決まりとは知らなかったんだと素直に謝った。
「本気で仰ってますか」
 私はしばらく考えて、
「そうだな。跡形もなくというのは本当だよ。棺桶に入れられて、死んだ顔を皆にじろじろと見降ろされるのは嫌だね。隠居したと思っていたら自然といなくなってた。そんなのがいいね」
「跡形もなくって」
「君なら、そんな手段を知っていそうな気がしたんだよ。すまない」
「ありますけれど・・・」
 一度ご覧になるといいわと彼女は言った。
「何時か分かりませんけど、ご覧になってから決めるといいわ」
 彼女が私の背中に額を寄せた。
 嫌われるのは嫌だけど、仕方ないかしら。でも貴方はまだ。まだ先。
 背中を通して優しい呪文を聞きながら、彼女の額の熱を愛おしんでいると、何時の間にかいなくなっていた。

 しばらく彼女は来なかった。

 彼女と会わずとも死ぬ人間は大勢居る。出会える出会えないの違いは何だろう。尋ねても偶然ですという返事しか聞けない気がした。本当は、桜など要らないのではないか。場所や条件など関係なしに、ふううと大きく息を吐けば、ケーキのキャンドルのようにいくつもの命の灯を消せるのではないか。なぜ面倒を背負うのだろう。

 元秘書が倒れた。

 私に付いた時は二十代の半ばだった。共に老いてくれたが、まだまだ元気だろうと思っていた。
 屋敷に病室を作らせてそこへ移した。病院へ入れていても、回復して退院ということは無いと言われた。常駐の看護師や複数の人間を雇い入れたので、少しばかり賑やかになった。
「何でも彼らに言いなさい。はは、君の秘書といったところだな」
 金や手間が掛かることに申し訳ないと言ったが、してやれることがこれしかない。仕事一筋、私一筋の男で家庭も持たなかった。偽善だと思いながら毎日茶を淹れた。
 ある日、良い事を思いついたという顔で彼が言った。
「私の事を、彼女に頼んではいかがでしょう」
 今まで謎だった彼女の処置を目の前で見られるのではないか。実験台になろうと言うのだ。
 これには迷った。正直見たい気はするが、それきり彼女に会えなくなるのではないか。思いの外残酷な処置を目にするのではないか。しかし彼は、これぞ最後の御奉公とばかりに熱心に言い続けた。
 彼女が訪ねてきた。

 二人が話す間私は席を外したが、襖一枚隣の部屋で座っていた。
 元秘書の声か、彼女の声かは聞き分けられたが、言葉は聞き取れない。彼女の声が少し大きくなって、また静かになった。しばらくして中に呼ばれた。
「日を決めましょう」
と彼女は言った。

 彼女は元秘書を食べた。

 綿あめが口に入れた途端溶けてしまうように静かな咀嚼で、彼女と私と元秘書の三人が居た部屋は二人になった。彼女は変わらぬ様子で脚を斜めに座っている。
 疲れたかい、と私は聞いた。
 彼女は私に背を向けて座っている。
 私もああなるのだね、と私は言った。
 彼女はふいに立つと、私の方を見ないまま去って行った。

 私はしばらく夢を見ていた。痛みもなく死んで、あの唇に触れて彼女に飲み込まれる夢を繰り返し繰り返し。繰り返し。
 足元からひたひたと死の波が寄せては返す。私は波間に漂いながら彼女の夢を見る。床から起きられなくなって久しく、いずれ私は頭頂部まで溺れてしまうのだろう。家政婦の声がした。
「お客様がお見えです」
 彼女は衣擦れの音すら立てず傍に座った。

 あれから何年も経っていた。私の視界はぼやけていたが、やはり彼女は変わらなかった。
(私の番なのだね、やっと来たのだね)
(待っていたのだよ、君が来ないと死ねなかった)
 言葉の代わりに涙が溢れて、こんな年寄りの塩水でも海になろうかと思う程で、私はいつまでもそうしていたかった。こんなに喜びが溢れたことはなかった。彼女は静かな静かな目で私を見下ろしていた。
 だが・・・
 妙に疲れた目もしていたのだった。
 湖の底で魚が動いた。波紋は溢れて彼女の涙になった。
「昔・・・」
 好きになった人が居て。その人と幸せになれるつもりでした。
(なぜ今そんな話を)
 あの人は私から死を奪いました。自分が解放される為に・・・
 冷たい指が頬に触れた。
 眉も睫毛もそのままに涙はほろほろと零れる。
 泣かないでおくれ。悲しまないでくれ。君の涙など見たくないのだ。
 彼女の指が頬を撫で、掌が頬を包んだ。
「貴方は私を愛してくれたかしら。私を受け入れてくれるかしら」
 津波が私を襲う。
 涙が私の頬に落ちた。
 私は彼女の魂を受け入れることしか出来ない。体を奪い与えることは出来ない。だが私の、死の間際の老いぼれの全身全霊は恋に打ち震えた。
 
 彼女の唇が触れて、ずるずると私の中に入ってくる。無味無臭のゼラチンを頬張らされたような不思議な感覚で彼女はずるずるつるつると入り続けた。喉から腹が温かくなり、熱は反転して私を包み、また私の中へと落ちた。熱を抱いたまま意識が遠のいた。

 目覚めると私は一人だった。私は彼女を永遠に得て永遠に失ったのだ。腹には膨らみも気配もない。頭と視界が冴え冴えとして、体を起こすと嘘のように軽かった。

 今朝まで死にかけていた老人が廊下を歩いていると、家政婦が仰天して飛んで来た。私が死なないことに納得出来ない医者には辞めてもらった。その他の使用人にも十分な謝礼を払い暇をとらせた。

 私は荼枳尼となり永遠に生きている。尼はおかしいが他に言いようがない。
 他人に役を譲るには同じ方法を取るしかないようだが、愛は彼女に捧げてしまった。
 時々屋敷に帰って来る。桜の元へ行く。根元に座り込んだまま二、三日、海の音を聞く。
 死に引き寄せられる。死に招かれる。足元を濡らす細波のように可愛いものだ。風に散る花びらのように愛しいものだ。

 無性に寂しいことが、無くは無い・・・

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?