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【うらがみむらかみ往復書簡】6通目 | うらがみ

むらかみさんへ

わたしももっとお話ししたいと思っていたので、お返事をいただけて嬉しいです。ありがとうございます。

憧れは起こっては消えてしまう。わかります。
自分が「大事だ」と気がつき、大切にしないと育てられなくて、「まあいいや」と思ってしまったらそれまで。いまは、お互い憧れを大切にできている状態なのかもしれませんね。よかったです。
思いもよらぬ「絵本」から、憧れていた”絵を描くこと”に繋がったのですね。なにかが、見えない・自覚できないところでずっと繋がっていたのかもしれません。素敵な出来事ですね。

<ラプソディ・イン・ブルー>の映像、観てくださって嬉しいです。曲を知ったきっかけや、演奏映像をはじめて観たときのことはよく覚えていないんです。曲自体はずっと前から、気がつくと知っていた気がします。でもたぶん、心に刻まれたのは4,5年前で、映像を見つけたのはその頃です。バーンスタインがとても楽しそうに演奏していて、引きこまれたことだけは覚えています。
当時わたしは大学で演劇の歴史や作品について学んでいて、20世紀前半の欧米の作品を中心に調べていました。過去の舞台を観ることはできないから、写真や映像、映画を参考に、当時の演劇の雰囲気を掴むようにしていて。YouTubeで調べると意外にいろいろ出てきたんです。バーンスタインも、40年代のミュージカルの作曲者として出会って、きっとその流れであの映像を見つけたのだと思います。
そうなんです。2024年を生きるわたしたちが、何十年も前の彼らがつくったものを観ることができて、しかもカラー映像はかなり細かいところまで見て、感じることができますよね。本当に素敵なことです。
以前、1910-20年代の舞台に関する本を読んでいたら、制作過程で仲間内の喧嘩があったり仲直りしたり、という話まで載っていたんです。それがすごく面白くて。彼らとわたしと、生きる時代は違うし生活環境も違うけれど、同じ悩みを抱えていることもあって。人間って変わらないんだなと、そのときは100年も前に生きた彼らのことをちょっと身近に感じられました。

いま、前に勧めていただいた江國香織さんの『やわらかなレタス』を読んでいます。半分くらい読んだところです。
普段、エッセイを読みたいとは思いながら小説や学術書を選びがちで。せっかくの機会だからと、文庫を買いました。往復書簡をきっかけに世界が広がって、嬉しいです。ありがとうございます。
わくわくしながらページを開くと、はじめての感覚に最初は戸惑いながらも、すぐに江國さんの世界観に入りこみました。クスッと笑えるところも多く、江國さんの生活やお人柄が手に取るように感じられて、息づかいが聞こえてくるような表現に驚きながら読み進めています。江國さんのことが好きになるような、身近に感じられるような、そんな気がします。疲れていてもするする読めますね。ひとつひとつが読みやすいし、ついつい次も読んでしまいます。それってすごいなと。作家の方になにを、ですが、これが文章力か!と感激しました。

『やわらかなレタス』を読みはじめたとき、なにに戸惑ったのかと考えてみると、わたしが感情を起こさない、もしくはあえて言語化しない部分を、江國さんが言葉にしているように感じたからかもしれません。「ここを言葉にするのか!」とくらくらしながらも、徐々に引きこまれていきました。たとえば〈鱈のこと〉にあった、鮭や鰯などの魚へのイメージの話。わたしは考えたことがなくて、おもしろいと感じました。
江國さんの表現は、“言葉がないもの”を“言葉があるもの”に当てはめて表現するとか、“見えないもの”を感じて細かく書き起こすとか、がとても多いように思えます。言ってみればそれらは、普段人とはあえて共有しないような部分や、自分の感覚を認識すらしていない部分かもしれません。でも、だからこそ、もし日常でだれかと共有してみたら、「そんなこと考えてたんだ!おもしろいね!」と思えそうです。

わたしは常々、周りの人のことを、「わたしに見せていないおもしろい面がもっとあるはずだ」と思っています。”それを見たい”というよりは、ただ、”見えない部分があるんだろうな”、と。
おもしろい面が垣間見えるのに関わりきれずに終わった昔のクラスメイトのことを、もっと話してみたかった、と思い返すこともあります。話すのはあまり得意じゃないから、後悔まではしていないけれど。
人は皆どこかしら、悪気も作為もなく、表に出てこないものがあるまま相手に向かい合っていると思うんです。
どれだけ仲が良くても、どれだけ長い時間をともにすごしても、全部は知らないまま進むのが人間関係、それで十分。だからこそ、いつもなら相手の前に出てこない部分を、もしお互いに共有してみたら、もっとおもしろいことが起こったり、思いがけない人同士の縁が繋がったりすることもあるんだろうな、とか。電車で隣り合った人と話すことはないけれど、実は話してみたらおもしろいんじゃないか、とか、考えます。

わたしにとっては、その垣根を比較的取っ払ってくれるのが「書くこと」や「読むこと」かもしれません。
実際、note上で出会っていきなり往復書簡をさせてもらっているむらかみさんとは、もしわたしたちが職場で出会ったとしたら(少なくとも出会って1ヶ月では)共有しないようなことを、いまここでやりとりさせてもらっていると思います。
そして、きっと江國さんも、出会って間もない人に「魚へのイメージ」を話すことは滅多にないと思うんです。想像ですが。たまたま魚の話になったら話すかもしれないけれど、魚の話にはならないかもしれない。でも、今回はじめて江國さんの本を読んだわたしは、江國さんの魚に対する考えや感覚を知ることができたのです。
書くときは、自分が持つ、普段はなかなか表に出てこないものとゆっくり向き合い、ゆっくり言葉にすることができる気がします。だから、だれかが書いて、それを離れた場所にいる相手が読むとき、“日常ではなかなか共有しないもの”を伝えられることもある、のだと思います。
その、“日常ではなかなか共有しないもの”を掬って公開する作家さんってすごいなぁと思いつつ、だからこそ読者は読みたくなるのかなと思ったりもして。
話すほうが得意な方はまた違う感覚を持っているかもしれませんね。

〈出会って10年〉のnote、読んでいただいてありがとうございます。嬉しいです。
昔の友達とは、いまは別々の生活を送っていて、”近況報告”から始まるくらい、いまのお互いのことは全然知らない。それでもかつてたくさんの時間や感情を共有した仲であり、かけがえのない存在ですよね。お互いを大切に思っていたら、また集まれると思うし、これからも関係が続いたら良いですね。

会ったことがなくても、付き合いが浅くても、長らく会っていなくても、生きる時代が違っても、人が人になにかを伝えたら、なにか一つ、一部分だけでも、時には通じ合うことができるのかもしれません。
それ以外はまったくなにも共有できないとしたら、それはそれでおもしろいですよね。

さて。今日はたくさん書きました!
お返事をのんびりお待ちしています。
それと、だんだん回数を重ねてきたから、この往復書簡をマガジンにひとまとめにしたいと思っています。あとでやらせていただいても良いですか?

うらがみ

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