ユースワーカーのモヤモヤ④

子どもの最善の利益

 子どもの権利条約の4つの原則の1つでもある子どもの最善の利益。ユニセフのホームページにも「子どもに関することが決められ、行われる時は、『その子どもにとって最もよいことは何か』を第一に考えます。」(https://www.unicef.or.jp/about_unicef/about_rig.html)とある。当然のことだと思うし、自分もしっかりと実践していきたいと思う。
 また別の原則として、子どもの意見の尊重「子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。」がある。
 ここで一つ疑問が湧いてくる。子どもの意見と、子どもの最善の利益とは必ずしも一致するとは限らない。一致しなかった時には、誰が、どのように子どもの最善の利益を判断するのだろうか。

プロセスに関わる重要性

 各地の学校では、生徒とともに校則の見直しをする動きがあるが、一部の学校では未だに時代遅れとも思えるブラック校則が存在し、生徒が意見を表明することもできずに、何も変わらないという状況もあるようだ。こうした学校では、一部の大人の価値観による偏った子どもの最善の利益が優先されるため、子どもの意見と一致することはない。子どもの声に耳を傾けることなく、一部の大人の価値観だけで決められたものを最善の利益と言うのかは甚だ疑問だが…。
 さまざまな困難を抱えた状況で一時保護された若者が「早く家に帰って、学校の友だちに会いたい」と要望しても、「家庭での養育が十分に機能しない」「安全を確保できない」と児童相談所が判断すると、若者の願いはすぐには叶わない。このケースは、若者の生命に関わる事項として、児童相談所を中心とした大人がを判断しているのだろう。やむを得ない面もあるが、やはり不一致である。
 ここで重要になるのが、判断するまでのプロセスとして、「帰りたい」という意見表明の機会が与えられたのか、なぜ帰れないかの丁寧な説明があったかということだ。
 願いが叶えられないことはあったとしても、子どもや若者がそのプロセスに関与し、誰がどのように判断したかが明確である必要性がある。学校の規則についても、意見表明の機会があり、誰がなぜ判断したかということが明示されることが必要だと思う。ところが実社会ではこの、誰が、どのようなプロセスを経て判断したのかが分からないことがあまりに多過ぎるように感じる。モヤモヤである。

意見表明とその成果

 子どもの最善の利益を追求するためには、そのプロセスとして子どもの意見が尊重されることは言うまでもないが、その意見表明に結果が伴うという側面も大変重要である。
 ユースセンターにおいては、若者からさまざまな意見が寄せられる。意見表明に対してはできるだけ真摯に向き合い、どうしたらその願いを叶えることができるのか、一緒に考えるスタンスをとる。一緒にというところがポイントで、若者を主体とすることで、当事者が決定までのプロセスに関わることが可能となる。そして、すべてが実現することが難しいとしても、何か小さな結果が伴うように努力していく。小さくても願いが叶うという体験が、若者が更に声をあげるエネルギーとなっていくからである。
 もしも、意見に対して「善処します」とのみ答えて、何もしないことが続けば、若者は最初から諦め、意見を表明しなくなってしまうのだろう。日本の若者が政治に対する関心が低い傾向にあるのは、日常社会でのこうした積み重ねの結果ようにも思える。

施設のミッションと若者の思い

 多くのユースセンターは、自治体から公的な資金が投入され運営しているため、当然のことだが、自治体や地域コミュニティからの思いや願いに沿った施設のミッションが存在する。これは、それぞれの自治体が考えた、若者の最善の利益を実現するための具体的な目標や指針でもある。だからこそ、当事者である若者の意見が反映されていることが重要になってくる。
 ユースセンターが常に若者の声を反映して、必要に応じて変化し続けていくためには、若者にユースセンターの在り方を自分事として考えてもらうことや、その声を地域社会に届けていくことが必要となる。そのためには日常的に若者の声を傾聴し、若者がプロセスと結果の両面でコミットしていく経験を積み重ねることが重要になってくる。そして、そうした活動を持続可能なものにしていくための仕組みを構築していくことも必要となるのだろう。
 まだ、全国的に見てもごく僅かではあるが、子どものための公的施設における運営者選定に当たり、子どもの代表が有識者などと一緒にその大役を担ったというような事例もある。こうした事例を一つずつ増やしていくことが重要なのだろう。


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