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平成のお殿様のお話

交楽竜弾(まずらりゅうだん)。 

この方をご存知ない方がほとんどだと思う。いたとすれば、ご親戚か、変態か、はたまた作家や舞台で一緒だった方であろう。

本名は松平 武龍(まつだいらぶりゅう)とおっしゃるらしい。実は、私もさっき Wikipedia で調べてこの方の本名を知った。まず、Wikiに載っていたことが私にとっては驚きだ!

ご先祖様はあの徳川家康公であらせられる。「この印籠が目に入らぬか!」と差し出すと皆がひざまずく、徳川御三家ではないにしろ、彼はれっきとした越智松平家第12代当主なのである。

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ある日、学校から戻るとモヒカン刈りの男性が家にいた。やたらと存在感があり、しかも、声がデカイ!初めて見るタイプの人間だ。当時はまだモヒカン刈りは珍しく、とにかく、その変な髪型に驚いた。私はたぶん小学4年生くらいではなかったか?と記憶する。

父は手料理を振る舞い、酔っ払い、殿様のことを「おい!まずら!!」と呼び捨てで、殿様は父を「いやぁ〜、先生!」という具合だ。

殿を呼び捨てにして「お前の父親は、そんなにエライのか?」とのお叱りを受けそうだが、全く偉くはない。それに、父は彼の先生ではなく、ただの友人だ。そんな父でありながらも彼は嫌な顔をせず、よく長期にわたりお付き合いくださったものだと、今更ながら感謝が湧く。

あの頃はモヒカン刈りなので若そうに見えたが「そうでもなかったんだ」と、これまたWikiで初めて知った。


交楽竜弾


突っ込みどころ満載のレコードジャケットには笑いが止まらない。言い出すとキリがないので割愛するとしても、なかなか凛々しく、アラジンのような雰囲気を漂わせていらっしゃる。龍、竜、と使い分けていたようだ。

昔の人は、出世魚のように名前を変える習性があるが、彼もやはりその部類だったようで、これからも徳川の人間と認識させられる。本名を含めると4つあり、普通は変えない本名ですら松平を残すため、親の離婚時に姓を変えている。ついでに名も武龍→龍門と変えている(私は龍門を知っていた)。

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さて、父がこのお殿様と、どこで、どのようにして知り合ったのかは、いまだ謎だ。今度、父に会ったら聞いてみるつもりだ。

殿様がレコードをリリースしたうちには、父が作曲したものもある。でも、それは彼らの親交が深まった後のずっとずっと先の出来事で、最初の出会いがそれではない(注:写真は父の作品ではない)。

とにかく、知り合ってからというもの、彼は頻繁にうちへ遊びに来るようになった。その度に父が得意の中華料理フルコースでもって大盤振る舞いするので、私は何でもない日に、ちょいと贅沢な食事と、父の「早く寝ろ」攻撃が減るので嬉しかった。

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父は人前ではサービス精神旺盛で饒舌になるが、基本的に社交が苦手で無理をするせいか、客が帰った後は疲れて無口になる。料理の腕前を披露できるので喜んで人を招待するが、慣れないことで、客が帰った後はぐったり疲れ、酔った勢いで家族にくだを巻くのも常だった(酒癖が悪いとも言う)。

そんな父が、何度でも、どんなに頻繁でも、帰った後でも、引き続き上機嫌でいる友人が何人かいたのだが、そのうちの一人が交楽(まずら)氏であった。

父は、ただ、ただ、彼の喜ぶ顔が見たくて、精一杯のおもてなしで愛情表現をしていたのだ。

「あいつは風来坊で、売れない絵ばっか描きやがって、何やって食ってんだか。財産もないくせに、まともな仕事にもつかないで、奥さんにも逃げられて、本当にバカな野郎だ。でも裏表のない、本当に正直で、素直で、性格のイイ奴なんだよ。あんなに気持ちのいい男は見たことがない」と。

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彼は人に可愛がられる素質があったと確信する。次のような記載がある。


高円寺のアパートで無名の画家として貧乏生活を送っていた当時、1965年12月31日、ふと思い立って時の総理大臣佐藤栄作に電話をすると、思いがけず佐藤から「どうぞおいで下さい」と招待され、これを機に、3月13日の佐藤の誕生日には必ず招かれるようになった。佐藤は列席の人に「おれにも、こういう友人がいるんだ」と自慢していたという。-Wikipedia-


はぁ?

ふと思い立って、総理大臣に電話なんてします?


このエピソードは私もWiki(またか?)で初めて知りましたが、いかにも、いかにも、い・か・に・も 彼らしいエピソードで

笑える!

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ご先祖の徳川家康は江戸城(皇居)から見た「鬼門」と「裏鬼門」に神社仏閣を建てまくった。

天台宗の僧侶である南光坊天海の助言から風水が取り入れられ、城の北東と南西、「鬼門」と「裏鬼門」と呼ばれる方角に聖地を置いて魔の侵入を防いだそう。

邪気を寄せ付けないための建設であったが、実は、神社仏閣を建てるということは最高の徳積みができると言われている。子々孫々と繁栄し、滅びることがないほどの徳積み。

徳川幕府が260年も続いたのは、この徳積みのお陰と私は勝手に分析する。

そして、この徳積みの功徳が越智松平家第12代当主にも流れているに違いなかった。誰からも可愛がられる性質がそれを物語っている。

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画家でもあった彼は、洋画家の林武氏からも次のように推薦されていた。

「交楽君は独立会員である二人の画家を両親として生を享けた。性格的にも彼は両親のよい所を享けた精鋭である。芸術的にも彼の内には既に濃厚に、才能の血が用意されていると思われる」 -Wikipedia-

少年のように、無垢で、無邪気な、飾らない性格が人を惹きつけ、夢中にさせる。「また会いたい」と思わせる、心地良い余韻を残してくれる、そんな魅力で溢れた人だったように思う。

そこには、決して損得勘定などはなく、人を褒めちぎって、嫌味なお世辞を言うのとは違う。そういうのばかりの世界に身を置いて生きて来た父だからこそ嗅ぎ分けられる敏感な嗅覚でもって「こいつは大丈夫」という烙印を押された彼は、それから何度もウチに出入りさせられ、半ば拷問に近い「どうよ?」攻撃を受けることとなる。

食事も、食べる前には並んだ料理を、ゆっくり、マジマジ、と眺める。ニコニコしながら盛り付けを舐めるように観察する。それから、ゆっくりと目をとじて、嗅覚、味覚、触覚、身体の使える部分の全てを使って味わいながら食す。

「いやぁ〜、美味しいなぁ〜、幸せだなぁ〜」

と言い、空を仰ぎ(室内だがね)、至福のとき、といった感じで目をとじる。

最高だ。こんなにも感激されたら、何度でも料理したくなるものだ!父はこれが見たくて料理を振る舞っていたのだ。

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初めてうちに来た時の本業は画家だったが、その後は歌や演劇にハマったりしたようだ。

必ず来るときには、ご自身が描いた絵を持って来てくれて、それは大きなキャンパス画だったり、彼の母上が私に描いてくださった作品だったりと、いろいろだった。大きな作品がないときは、絵の具と色紙を持参して、サラサラとその場で描いて見せてくれた。

絵の心得がある人など一人もいない我が家へ、せっせと自分の描いた絵を運び、ただ、微笑みながら渡すだけ。そこにうんちくはない。

それは「こいつらに言ったところで分かるまい」という類いのものではなく、「思うまま、感じるまま、評価はそちらで降してください」といった揺るぎない自信と、誇りがあった。押し付けではなく、受け入れてもらえたら「価値観が合った」ことに喜びを感じる、そんな芸術家としての魂を見せてもらったように思う。

そして裏には必ず、○○ちゃんへ、○○先生へ、○○様へ、など名前と、日付を入れてくれた。画家から絵を贈られるというのは、後にも先にもこの時期にしかなく、偉大な作曲家が親交のあった友人へ作曲した曲を贈ったりした歴史に思いを寄せて、誇らしかったのを思い出す。

色紙は、雛祭り、端午の節句、クリスマス、いろいろな季節の絵で、どれも色紙の場合はタッチが軽い。それは今でも母が季節の花と一緒にしつらえていて、我が家の床の間を華やかにしてくれている。



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父と殿の親交は長く深く続いたが、やがて、それも途切れ気味になる。

荒れた生活からか、顔を出しずらくなったのかもしれない。しかし、そんな中であっても、時々、突然に、電話がくることもあり、舞台の連絡があると、私が父の代わりに劇場へ足を運んだこともあった。

脚本が遠藤周作さん、林真理子氏など、錚々たるメンバーの中で芝居をやったりしていて、どんなに落ちぶれても、やはり誰からも愛され、可愛がられる性質は色褪せなかった。

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彼からの最後の電話は「テレビに出演するので見てください」というものだったように思う。「平成のお殿様」だか「3DKのお殿様」だか「団地住まいのお殿様」だか、、、まぁ、そんなような番組だった。

父と母と私とで見たのだが、彼の魅力が充分に伝えられておらず、それも番組が意図するものなのか? もちろん取材されて行われたと想像するが、深く取材したようにはとても思えないような、薄っぺらで、お粗末な、バラエティー仕立ての内容だった。

NHKのファミリーヒストリーのようなものを期待していた自分達が愚かだったと言える。

しかし、そんな中でも彼は堂々としていて、悪びれるわけでなく、あるがままの現実を画面に晒しつつも、清々しい顔をしていた。口には微笑みを浮かべ、羽織袴で登場。絵の紹介などは全くされなかった。

生活保護を受け、慎ましやかに暮らしている様子を、テレビにイジられて、それが全国ネットで放送されているというのに、威風堂々たる風貌が、逆に泣けたのである。

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サイケデリックな前衛画家として話題になり、新宿やお茶の水や銀座で個展を開き、林武から推薦された彼が、どのような葛藤と戦い、ヒモ生活となるまで落ちぶれるに至ったか?

亡父の自宅を1億円で売却した彼が、なぜ、その半分を父の愛人に渡し、残りの5000万円も中国で学校を建設する事業のために寄付したのか?

晩年は3DKの公団住宅に住み、元妻と離婚、再婚を繰り返し、自殺未遂も起こし、生活保護を受けて独居生活を送った。なぜ?

ここに彼の育ちの良さ、血筋の良さがうかがえるはずで、それまでの心の内を掘り下げなければ、現在の姿に納得できるわけがないのに。偶然にあの番組を見た人には、ただのイカれた、ふざけたオジさん、という風にしか写っていなかったように思う。

とても残念だ。

でも、そう感じていたのは我々だけで、当のご本人は全く気にしていない様子で、これまた、あっぱれ !と感心してしまうのだ。彼ひとりだけ次元の高い場所にいて、下界のわちゃわちゃなどは耳に届いてない模様。

残念だと嘆いている我々も、わちゃわちゃしたグループに属している。

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私がカナダに来る一年前に亡くなったらしい。

それも母から、だいぶ後になってから聞いた。何かの話題から交楽氏の話になった時「元気かな?どうしてるんだろうね?」と呟いたら「もう亡くなったのよ。ずいぶん前に…」と。

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過去、実家にはいろいろな種類の人間が出入りしたが、彼はそんな中でもトップクラスのゲストで、招かれ上手、おもてなしされるのに慣れているという生粋の「殿様」であった。

お遊びで出演していた舞台でも、はっきり言って、演技はど素人であるはずなのに、なぜかプロの役者さんたちよりも目立ってしまい、他の方を称えるための紹介ですら、自分の方が目立ってしまうという殿様基質なのだ。

何をやっても「皆のもの、苦しゅうない!無礼講じゃ〜」というご先祖を背負って生きているようにしか見えない。

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彼の作品はピカソのような、岡本太郎のような、そんな画風だ。絵についてはよく分からないが、才能は確かだったと感じている。

でも、絵よりも、まず、彼自身が既に作品だった。

今回、岡本太郎さんの自伝小説の要約を見て、彼を思い出した。何十年も前のことだが、記憶の中に、ひとつ、ひとつと、刻み込まれている彼の姿勢や生き方などが蘇った。

作風は似ていてもこのお二人は真逆に位置している。自分の主張を貫き、時には相手を降伏させる勢いで上り詰めた岡本太郎氏。

対して、目立ってナンボの世界に身を置きながらも、ひっそりと佇む花のように何も語らず、見つけてもらえたことに喜びを感じ、主張しないが故に枯れていった花のようで、それでも「野に咲く花は、枯れて当然!」とでも言うような、武士の切腹の潔さを感じる。



まずら



どちらが正解か、わからない。でも芸術で食べていくには売れなければならず、売るためには魂を犠牲にしなければならない。そこには、いつの世にもジレンマがあり、永遠のテーマがあり続ける。

父を側で見ていた私は、それと闘う葛藤と、だからこそ殿を気に入った父を今なら理解できる。「父親としてどうなの?」「一家の主人としてどうなの?」と子供心に感じたあの頃の父に対する強い怒りは、「こういう人もいるのか…」と交楽氏を側で楽観することで和らいだことは確かだ。

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次にお会いできるのはあの世でだが、お会いできたら、こうお伝えしたい。

「絵をくださって、ありがとうございます。絵を見る度に、記憶の底に沈んでいた子供の頃の思いを浮かびあがらせてもらえました。迷ったとき、方向を見定める指針となりました。」

音は一瞬で消えてしまう。絵は長い年月をかけて人に訴え続けるものがある。「私はあなたの絵からそれを学びました」と、お伝えしたいのです。










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