可愛いは正義 ってすごく残酷な言葉じゃないか?

私の人生についての悩みは決まっている。自分が美少女じゃないという点だ。馬鹿言ってんじゃないよって思うかもしれないが、20歳くらいまでは真剣に悩んでいた。それ以降は美少女になることが不可能な事が分かったので妥協してやり過ごした。思い返してみればこの突拍子のない願望は、小学1年生が将来のなりたい夢を「ウルトラマン」と書くようなものだった。
最近、地上波の歌番組で宝鐘マリンというVtuberが『美少女無罪♡パイレーツ』という曲を披露して、話題になっていた。観測する限りはネット上では叩かれていた。どうやら給食の時間にアニメソングが流れるような恥ずかしさがあったらしい。リビングから
「キュートは正義 美少女無罪~♪」という曲が流れて、3Dモデルの美少女キャラクターが踊っていた。私の普段呟いているようなことを歌っていて、これがYouTubeのコメ欄でよくみる"歌詞に共感した"ってやつかと思った。
苺ましまろの有名なキャッチコピーに"かわいいは正義"というものがあるが、おそらくそこから引用してるのだろう。少し前には、「可愛くてごめん」という曲も流行っていた。

これらの主張や価値観は、世の中にはいろんな苦労が悩みや困難があっても、結局は可愛いかったらいいじゃんってことだ。私だってそう思う。可愛けりゃ大抵の事はなんだっていいと思う。それほどまでに可愛いということには価値がある。
可愛いというものは悪いものも全てを抱擁して可愛いという名の女神の腕の中で安からに眠れるような安らぎを与えてくれる。
可愛いというパワーは絶大で強力だ。永遠に回転する頭の中の歯車を可愛いというつっかえ棒があれば止めてくれるという気さえする。よく分からない例えをしてしまったが、とにかく可愛いは最強なのだ。

しかし裏を返せば、可愛くない事には価値がないということになる。これほどまでに残酷な競争による淘汰や差別もないだろう。可愛くてごめんと太陽の下でウインクする少女の裏には、可愛くなくてごめんと夜な夜な泣いている女の子が大量にいるに違いない。
古典的なオタクが「キュートは正義 美少女無罪~♪」というVtuberに否定的なのは皮肉な話だと思う。オタクコンテンツに美少女がなければ何も成立しないというのに。
親ガチャなんて言葉が流行ってるが、それもこの残酷な世界に対して産まれが多くのハンディキャップを与えてしまうからだろう。"可愛い"も勿論そうだ。Vtuberは可愛いイラストを人間の上から被せてしまおうという発想で、後天的に作られたものだった。可愛いは正義という、運命からあらがう戦士のようだった。しかしそれもまだわずかな抵抗に過ぎず、声による選別もあるし、結局は既存の可愛いという価値観に乗っかるモノでしかない。
可愛いというこの強大な概念が壊れる日は来るだろうか?

解決策はある。世界は多様性と向かっている。ポリコレという言葉を聞けば今やムッとする人のが多いかもしれないが、私はそうは思わない。きっとこのムッとする感情は私たちが生きていた積み上げてきた可愛いという価値が揺らぐことによるものだ。可愛いとは何か、それは美はなにかという問いだ。美というものには違いがあれど一定の方向を向いている。それは女優やアイドル、美少女イラストを見てもらえば一目瞭然だ。規則性のある形や記号のようが美しさにはある。美しさには再現性のある規格がある。逆に美しくないものは形が様々で無秩序だった。もちろんそれを美しいと思うもこともあるがそれはまた違った楽しみ方だ。もしあなたの容姿を神様に好きなように注文できるとして、あなたは3歳児の描いた落書きで発注するだろうか?

私たちは生まれてから365日間、長い間可愛いという情報を観測して学習してしまったので、もはや大型の修正は不可能だ。可愛いという遺伝子は私たちの脳髄まで侵入して取れなくなってしまった。しかし今行われている多様性的価値観が加速した先にある未来、つまりは美や可愛いといったものが無限の枝別れした世界が出来たとしよう。その世界に脳みそにしわのない赤ん坊が目を開けた時に、今あるものとは別のものに可愛さを見出すだろう。同時にそれは厳しい道のりのように思える。それよりも先に可愛くない遺伝子は淘汰される方が先かもしれない。可愛くない遺伝子が一人残らず世界から消え去っちまうのが先か、新しい可愛い新革命が生まれるか。私が賭けたいのはもちろん後者である。


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