私の遺伝子は要らない

5歳年の離れた妹がいる事も手伝ってか、小さな子供の面倒を見る事は朝飯前だった。

どんなに悪い事をしても心の中では子供なんだから仕方がないという気持ちがある。その余裕を見抜いているのか、子供も私によく懐く。

けれど子供が欲しいと思った事は一度もない。授かりものだと言うけれど、つくる気は無ければむしろ要らないとすら思う。

なぜなら子供は親のコピペだという認識が私にはあって、それがずっと頭から離れないから。

知り合いの子供や公園で遊ぶ知らない子供。笑った顔がお母さんに似てるなあとか、少し下がった眉毛がお父さんに似てるなあとか、人の子供であれば似ているところがあっていいなあと思う。

お母さんとお父さんの子供だという証明。

紙切れ一枚で証明されるよりも、もっとずっと愛のある証明。

同じDNAを共有しているってなんて不思議なんだろう。それだけで無償の愛を注がれるという約束。目には見えなくても誰もが信じて疑わないもの。揺るぎなかった。

けれどいつか生まれてくるかもしれない自分の子供の事を考えると、頭に浮かんでくるのはコピペの3文字だけだった。

私の遺伝子を半分持ったコピペ。愛してあげられる自信がまるで無い。

根本的な話をして行き着くのは、ここでもやはり自己愛の欠如だった。

自分の事を愛する事も出来ず愛されるべき対象としても認識していないから、そこから生まれるコピペの事を愛する自信が無い。

結婚にも子育てにもこうでなければならないという形が無くなり境が曖昧になっている今、私が子供を産まずして育てる選択肢など沢山ある。

それでももしまた好きな人が出来たら?その人が子供が欲しいと言い出したらどうしよう。お母さんにはいつ孫の顔を見せてあげられるかな。

孫と称して私の腕の中にいるのは、私の遺伝子を全く持たない生き物かもしれない。

正しく愛してあげられるのならば、流れる遺伝子が誰のものかなんて至極どうでもいい事だった。

私の遺伝子は要らない。

なぜならそんなものが無かったとしても、私の愛を証明出来るものがあると信じているから。

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