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ラベルを貼る楽さと不確かさ

わたしたちはたくさんのラベルを貼られている。たとえばそれはカテゴリーだ。男であったり、ゆとり世代であったり、既婚未婚であったり、サラリーマンであったり、親であったり、国籍であったり、在住地であったり。

またたとえば、それは傾向や属性を指す。セクシャリティであったり、何かの病気であったり。

同じラベルを貼られた者同士が、ざっくりと同じ器に入れられている。同じ商品のように。

当たり前のことなのだけれど、人にはそれぞれ個性がある。それは、大きな枠組みでは分類できないものだ。

学生時代にメンタルを病んだ。便宜上「鬱だ」と説明することが多いのだけれど、実際には何だったのかわからない。昨年夏前からまた心身のバランスを崩したのだけれど、これも結局、何なのかはよくわかっていない。

精神的な傾向を示すものはたくさんある。HSPや、内向的外向的、鬱やら躁鬱やら。発達障害や病名になっているものも含めれば、本当にたくさんの分け方があるのだなと思う。ただ、「これだ!」にはなかなか出会わない。いろんな症状や傾向を見ながら、「あ、ここは当てはまるなあ」と思うに留まっている。

学生時代、今でいうLGBTにあたるのだろう友人がいた。

ただ、どれに彼女が当てはまるのかというと、はて、どれなのだろうと思う。いろいろな個性を持っている子だったから、何かに当てはめにくいのだ。当時は前知識もなかったため、「こんな人もいるんだ」とそのまんま受け入れたのだけれど、それがむしろ良かったのだろうなと思っている。カテゴリーのラベルを貼られてしまっていたら、先入観を抱いてしまったかもしれないから。

そして、このときの経験があるからか、今もわたしはどんな人であってもラベルをあてにせずにいたいと思っている。ラベルあってのその人ではなく、先に目の前にいる相手と接する方が、その人自身を見つめられると考えているからだ。ラベルを貼ってくれていた方が理解しやすくるなる人もいるだろうけれど、わたしは本人が見せてきたときに「へえ、そうなんだ」と思う程度でいいかなと思う。


カテゴリーのラベルを貼れることで、安心できる人はいる。自分の中にある得体の知れないものに対する怖さもあるし、その特性が周りと比べて「劣っている」と感じられるものの場合、ラベリングできることで理由を説明できるし、自分自身を肯定できる根拠にもなるからだろう。場合によっては、ラベリングされることで、はじめて対処法がとれるものもあるわけだしね。

大人になってADHDがわかったという人は、これまでの諸々が自分が悪いわけではなかったとわかってうれしかったと言っていた。そして、この安心感は親が子どもに対しても抱く感情だ。育て方のせいではなく、きちんと理由があったのだ、と。


ただ、ラベリングをすることで、反対に本来の自分が自分自身で見えにくくなることもある。

心の状態やセクシャリティなんかは特にそうだと思っていて、カラーチャートで「この色」と指定できるものではなく、自由にカーソルを動かして「あ、この辺の色」と指し示すのが、一番生に近い自分を示せる方法だと思っている。

人によっては、ラベルに自らや誰かを合わしていきかねないのでないだろうか。「このカテゴリーの人だから、こうなんだよね」とフィルター越しに判断してしまうことは、ままあるのではないかと思う。

自分と向き合うのも、人と付き合うのも、ラベリングされてカテゴリーに入れ込まれた状態ではなく、あくまでも個人レベルにまで降りていかなければ、生身の状態には近づけないだろう。

もちろん、何も知らない人に説明するときにはラベルが役立つ。ヘルプマークやマタニティマークのように、「こうなんです」とシンプルに伝えられもするだろう。

ただし、あまりにもそこに捉われてしまうと、大切なものを見落としてしまいそうだな、と思っている。

自分のことを理解するためにも、自ら勝手にラベルを貼って安心したり満足した気になるのは嫌かな。1枚のラベルで表せるほど、人はわかりやすくない気がするから。


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