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揺らぐ光の話を、聴かせて

あのとき、ああしていたら、とか。あのとき、何も言わなかったら、とか。そんなことを思わないなんて、無理だ。

人生は一度きりしかなくて、一時停止もスローダウンさせることもできなくて、ただただ残酷に時間は過ぎる。ついこの間まで賑やかにやっていたはずの人たちも、お互いの環境の変化で何となく疎遠になった。「ついこの間」といったけれど、そのついこの間は、もう10年も前の話になる。

それぞれが、それぞれの生きる道で、傷を負って、負わせて、動けなくなって、また立ち上がって。「もしも」を背後に感じながら、それでもとりあえず、生きている。

死なない限り、わたしはつづく。変わる。変えられる。変わってしまう。

何となく放っておけば癒えただろうに、わたしは瘡蓋を引っぺがす。わたしにとって、きっと書くことは抉ることで、抉って見つめなおして時に原因を突き止めて、また時には突き止められなくて、その繰り返しなのだと思う。

そもそもが引っぺがさずにはいられない性分でもあるのだろう。「何となく癒える」では結局癒えなくて、とことん向き合って苦しんで深堀して、そうしなければきちんと前に進めないところがある。

「損だ」、といわれる。そんなところに時間を割くなんて無駄じゃん、と。

抉ってみても何も変わったようには見えないから、無駄だといわれるのは仕方がないのかもしれない。だけど、あのとき抉っておいたから何とかやれている今があると思えるのも事実だ。「何となく」のまま過ごしていたら、きっとわたしはわたしではなくなってしまっただろう。

ただ、この習性はわたしのものだ。当たり前のことだけれど、万人に共通するものではない。傷に向き合わなければならない義務はない。健やかに生きられるなら、それが一番いい。

10代の頃のわたしは、よく人の相談を受けていた。理由はわからないけれど、話してきてくれることはうれしかった。わたしが人に相談するのがとてつもなく下手だからこそ、うれしかったのだと思う。弱さを人に見せるのは、とても怖いことだから。

「土足で入ってこないでしょ。ちゃんと靴を脱いで、何なら揃えて、そうやってそーっと入ってきてくれるでしょ。それがいいよね」

ある人から、当時メールで送られてきた言葉だ。外側から見続けるのではなく、かといって無遠慮にずかずか入ってこない。だから、話せる。そう言われた。

それは、わたしが入られたくないからだ。入られるのが怖くて、境界線をぴしりと引いているからだ。中は柔く、脆い。簡単に血を噴き出すだろうし、簡単に壊せてしまう。だから、慎重でいたかった。傷つきたくないし、傷つけたくもなかった。

人の話を、聴いている。人の人生を、聴いている。

いいことばかりの人生なんてなくて、大変だったこともつらかったこともあるのがふつうなのだけれど、その人生を丸ごと、聴かせてもらっている。

すべてを開示してくれとは言わない。どうしても言いたくないことは、言わなくていい。わたしだって言わない。言えないから。

だけど、もう乗り越えた「あの頃」や、飲み込んだ「あの日」の話をしてくれるとき、その人はとてもいい表情をしている。

人の顔は、生き方が作る。
小6のときの担任の先生が言っていて初めて知ったことだけれど、本当にそうなのだろう。

「もしも」を携えている人も、そうでない人も、どこにも「ふつう」なんてなくて、そのすべてに「いいな」と思う。いいことも、悪いことも。……悲しいほど陳腐な感想だけれど。

真っ青な空、雲ひとつない空に輝く太陽は、それはそれできれいだ。

だけど、薄曇りの日、雲越しの太陽による陰影のある光も、とてもきれいだと思う。

その人が見せていたいと思う光に満ちた部分以外を垣間見せてもらうことには、怖さとありがたさが同居している。だけど、揺らぐ光だからこそ届く誰かが、きっといるから。

わたしと、あなたと、誰かのために。聴きたいし、書きたいのです。

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