物語に育まれてきた

先日、子ども向け映画上映イベントに息子たちを連れていった。夏休みに学童で映画館デビューを果たして以来、長男は映画好きに拍車がかかっている。次男も冬休みにシュガーラッシュオンラインで映画館デビューを果たした。

映画は冒険ファンタジーもの。わたしは知らなかったのだけれど、原作は何冊もつづいているシリーズものの海外児童文学らしい。

「これ、本があるんだって」と観終わったあと長男に話したら、「え、読みたい!」と目をキラキラ。即Amazonで一冊目を購入した。

平日は学童に通っているため、なかなか時間がとれないなか、気づけば(やるべきことを放置して)読みふけっている長男が目に入る。一年生が読むにはなかなか一冊が長めなうえ、漢字もそこそこ多い(ふりがなはついている)。もうこんなの読めるようになったのかあと内心思いながらも、「頼むから、先にやることやろう」と声をかける日々を送っている。

簡単に楽しめる娯楽があふれているなか、読書は特にエネルギーがいる娯楽だと思っている。絵本やマンガはイラストが助けてくれるけれど、活字中心の本は想像するエネルギーが必要だからだ。数ある娯楽のなかで、1番主体的にかかわる必要があるもののように思う。

「本を読んだ方がいい」と大人に言われるよりも前に、わたしは本を読む楽しさに出会えた。ラッキーだったなあと思う。今の長男と同様いろんなことを投げ捨てて読みふけることも多かったし、そのせいで親からむしろ小言をもらったことも何度もある。


今の長男を見ていると、昔のわたしを思い出して苦笑いしてしまう。昨日も、「いや、読みたいのはめっちゃわかるけど、でも今日は寝よう」と寝床に連行した。

読みたいと思って読む本のおもしろさは格別で、「タメになる」とか「賢くなれる」みたいに、もっともらしく提示された「読むべき理由」の弱さをつくづく感じる。タメになるからと読む本よりも、おもしろそうだと思って読む本の方が何倍も本人のタメになるだろう。すぐに目に見える変化はなくとも、読んだ本はその人を形作る栄養になるから。

今日食べたものは、3ヵ月後、半年後の自分を作るのだと聞いたことがある。本も同じことで、読んだものが自分の何かになるまでには、きっと長い時間が必要なのだ。というか、長い時を経たときに「何か」になった本を読めたことは、贅沢で幸せなことなのだろう。変化はいつだって無意識で地味なものだ。読み終えたあとの「感動した」「よかった」だけがいい本だとは言い切れなくて、脳や心のどこかに引っかかったまま熟成されることがあるのが、奥ゆかしいなあ、なんて思う。

児童書や絵本はロングセラーも多い。親になってから息子と読み返すなかで、「うっわあ、これに影響受けてたんだ」と再確認することが幾度となくある。今の今まで作品のことを忘れていたにもかかわらず、シーンやストーリーはわたしのなかにしっかりと息づいていて、原風景のひとつとなっていたのだ。リアルとファンタジーの垣根がない年頃に読んだ本だからか、記憶のなかでリアル寄りになっていたものすらある。「あれ、これ、ぼんやり記憶あったけど、リアルじゃなく本のなかのことだったのか…」ということがままあるのだ。

本を読む楽しさに長男が出会ってくれて、予想外に喜んでいるわたしがいる。絵本も、マンガも、映画も、さまざまな作品に触れて吸収していってほしい。「うわー、おもしろかった」と感じた経験は、いつか自分の力になる日がくると思っている。別に、読解力がつくだとか、漢字が覚えられるだとか、そういう「力」ではなくて。

大げさだけれど、それは人として生き抜くための力、といえるだろう。ひとつの作品が人に与えられるものは、思っているよりも大きい。「いいな、好きだな」と思えるものに出会うたび、感情と思考の襞が増えていくような気がするのだ。そして、増えた襞は、世界を、人を、色鮮やかに見せてくれる。


わたしの根底には、世界へのぼんやりとした希望や人が好きだという気持ち、性善説の思考回路があるのだけれど、これらは幼い頃から触れてきたものたちが育んできたもののように思える。

わたしは、本や映画に出し惜しみをしたくないタイプの人間だ。これからも自分のために本やマンガをどんどこ買い、映画館に(時には子どもも連れて)行き、家でも(時には彼らと)映画を観るのだろう。親子で「これ、よかったよね」を共有できるようになっていくであろうことも、新たな楽しみが増えていくようでうれしい。


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