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“似ている”と“わかる”は別のもの

「つまり、こういうことでしょ?」
「わたしもそうだったからわかる。〜なんだよね」
「〜って思っちゃうんだよね。わかるわかる」

誰でも、一度くらいは誰かに言われたことがあるのではないかと思う発言だ。そして、誰かにしたことがある人も少なくはないと思う。かくいうわたしだって、こうした発言を何度かしてきていると思う。特に妹に言いがちだったことを自覚している。


言われる側は言う側よりも年齢が下であったり、経験が浅かったり、立場が下だったりすることが大半だろう。言う側は、自分が昔通ってきた道と似ているところで立ち止まったり苦しんだりしている人に対して、ついわかった風なことを言ってあげたくなるのだと思う。実際に、わたしが妹に言うときは姉として妹のために言っているつもりだった。別に悪意からではなく、むしろ善意であることも多いのだ。

だけど、こうした言い方には気をつけたいな、と思っている。わたし自身が、もやっとしたからだ。

「〜なんじゃない?」という言われ方であれば、「あー、そうかもしれないな」と思えるし、違和感があっても、「んー、ちょっと違うかな?」と思うくらいで済む。けれども、「〜なんだよね(わかるわかる、みたいな言い方)」と言い切られてしまうと、「え、いや、違うんだけど」となる。

似ていたとしても、わたしはわたしだ。その人ではない。だから、「そういうときあったから想像つくよ。わかるよ」と寄り添ってもらえるのは嬉しいのだけれど、「わかるわー。〜なんだよね」と言い切られるのは、なんだかちょっと、しっくりこない。「〜」だったのはあなたで、わたしではない……と思うからだ。

天邪鬼なわたしは、「いや、わかった風なことを言って決めつけないでよ」と思う。そもそも、そうして不快に感じる言い方をする人からは、寄り添おうとしている姿勢が感じられないから不快に思うのだと思う。そういう人は、訓示を垂れたいだけなのではないかな。返してもらうつもりがない、バシッとボールを強く投げつけてくるような感じがする。

一方で、丁寧にコミュニケーションを取ろうとしてくれる人は、相手の思考を勝手に決めつけない。「わたしもこんなことがあって、こうだったけど、そんな感じじゃない?」と山なりにボールを投げてくれる。目線は対等で、こちら側の意見や考え、悩みを想像して発言してくれているように思える。


「〜なんだよ」という誰かの言葉に、「つらいね。似たことがあったよ。つらいよね、わかるよ」という「わかる」と、「わかるよ。〜で、〜で、〜なんだよね」の「わかる」とでは、意味合いが異なる。

そもそも、後者の意味での「わかる」には疑問を感じる。いくら似た経験があっても、それに対する感情の揺れ動きまで、すべて「わかる」はずなんてないから。「わからない」のが前提で、わからないからわかろうとするのだから。


何より、この手のもやっとする「わかる」は、ポジティブなシーンではあまり使われない。その人の悩みや、欠点で使われることが多くて、だからわたしはもやっとしたのだろうと思う。ネガティブな方向性で決めつけられることなんて、きっと誰だって嫌ではないのかな。たとえば、そこからもがいているときにそうした言われ方をされることは、自力で浮かび上がろうとしている人の頭を押さえつけることではないのかな。そんな風に思う。


「わかるなあ」と誰かに思うときこそ、自分の発言に気をつけたいと思う。その「わかる」は、相手のためになるものなのか、それとも自分が気持ちよくなるためだけのものなのか。後者であるならば、その言葉はわざわざ相手に言うべきではないものだ。そして、「わかるよ」と言えるほど、実際には相手のことをきちんとわかってなんかいないのだから。


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