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世界は人間のサラダボウル
世の中には、本当に多種多様な人がいる。そんな当たり前のことを、肌で感じるのが好きだ。
母親になり、年齢が異なる友達が増えた。ライターの仕事を始めて、出会う人の性別・年齢・バックボーン・興味関心・仕事内容のバリエーションが、さらに広がった。
頭で「いろんな人がいる」と思っていることと、実際に周囲にさまざまな人がいることとは、大きく異なる。人間は、どうしたって環境に順応しようとする生き物だ。頭だけで多様性をわかっていたとしても、実際の環境が似た人ばかりだと、どうしても価値観は偏りがちになるのではないかと思う。
昔、私立中受験をした友達がいた。大学に入り再会したとき、彼女が話してくれたことが強く印象に残っている。
「受験さあ、ムダだったとまでは言わんけど、中学まではもっといろんな人と関われる環境にいても良かったかもとは思うんよね」
彼女曰く、その中学には、同じくらいの成績で、何となく親の雰囲気も似ている、そんな生徒が集まっていたらしい。受験組は希少だったから、似た価値観の親子が集まってもおかしくはなかっただろう。
一方、わたしが進んだ公立中は、いくつかの小学校の生徒が混ざり、クレバーな子やヤンチャが過ぎる子など、バラエティに富んでいた。その後の人生では出会わなさそうな子もいて、ぶっ飛んだ考え方に良くも悪くも刺激を受けられたと思う。
高校、専門学校や大学、就職。
人生を先に進めていく中で、狭まる(とされている)のは、選択肢だけではない。似たようなコミュニティに入ることにより、どんどん多様性から遠ざかり、価値観も狭まる可能性は多分にあるのではないかな。
ただ、大人になると自分次第で広げられるものではあるのだけれどね。仕事外の付き合いを作るだとか。しない人も多いというだけで。
元々、多様性なんて意識しなくても、わたしたちは多様性の中にいたのになあ、と息子たちを見ながら思っている。
幼稚園には、おそらく多動なのかな?と感じる子もいる。参観時にもその子は自由気ままだったけれど、クラスの子どもたちは、「せんせー、○○ちゃんが行っちゃったよー」とフラットに言うだけ。
中国籍の、日本語がまだ苦手な子が転園してきたときには、「○○ちゃんに、みんなでいっぱい話して、よーちえんのおやくそくをおしえてあげるんだよ」と話してくれた。子どもたちが群がり話しかけ続け、彼女は日本語がとてつもなくうまくなっていた。
男女の区別こそつけているけれど、そのほかにラベルは何もない。「そのままのその子」がたくさんいるだけだ。
もちろん、成長段階として、自分と他人との区別・比較がまだあまりできないからこその受容力なのかもしれない。けれども、「当たり前にいろんなタイプの人がいる」という環境にいられるのは、とても大切なのではないかなあと思うのだ。
狭めたコミュニティも好きだ。クローズドな関わりは、それはそれで楽しいし必要だ。
けれども、わたしは、あえてもっと外にも目を向けたい。同じ界隈の人だけではなく、仕事・価値観ともに多種多様な人と出会い関わることは、きっとわたしの財産になると思うから。
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