終わりを迎えるのは、まだ早い
今日から長男は2学期だ。火曜日という何とも半端な時期。なぜ今日からなのだろう。
昨夜、学校の用意をしていなかった彼は、今朝バタバタと出かけて行った。……上履きを置いたまま。
1学期は通学に苦戦した長男。無理やり行かせるつもりはないけれど、行けることに越したことはないから、学校が彼にとって楽しい場であればいいなと思う。
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2学期の開始だけが、何となくネガティブに捉えられがちかもしれない。息子を送り出した家で、ふと思った。
宿題が多い? いやいや、春休みはともかく、冬休みにも宿題はある。夏休みは長いため、日常生活に戻るのが億劫だから? 2学期が長いから? そんなことをつらつら考えながら、シャワーを浴びてドライヤーをかける。
ぼんやりと考えながら適当なブローを終えたとき、はたと思い至った。
2学期だけが、終わりと同時に始まるからかもしれない。むしろ、終わりに始まるというか。
1学期は、4月に入って1週間した頃に始まる。新学期。進級。進学。新生活。新年度ムードが何となく社会に漂っている気がする。始まるのは、何も子どもたちだけじゃない。みんなそれなりに新しさを迎えている。
3学期は、新年が明けてから始まる。文字通り「新年」だ。大晦日はすでにうしろにいるし、お正月ムードでしんみりした雰囲気もすでにない。やっぱり、全体的に漂う空気は新しさだ。
そして、2学期。2学期は、その多くが夏の終わりとともに始まる。今でこそ8月中に始まる学校も増えているようだけれども、2学期の始まりは、夏の終わりを告げているように思える。
そして、大人たちは9月に入ってもさほど何かが変わるわけではない。9月から新しい期に入るところもありはするのだろうけれど。
1学期や3学期に比べると、2学期の「始まり」の空気感は薄いのではないかな。夏の終わりに薄められて。
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終わりは、いつだってどこか物悲しい。夏は生命力に満ち溢れた季節だから、より一層終わりに寂しさを感じる。
道端に転がった蝉の死骸を見て、10代のわたしは死を思った。いつかはすべて終わる。だけど、今は終わりを置き去りにして、前に進まなければならない。終わりと始まりの狭間で、心がキリキリと痛んだ。
希死念慮を抱えた、生きづらさを感じている10代だった。あの頃のような夜の嵐みたいな激しさは、今はあまりない。けれども、ぼおおっとロウソクの炎が夜風に吹かれて揺らぐような心の揺れは、今も変わらずにある。
当たり前の顔をしてやってくる明日の連続。ふと我に帰ったとき、途方もない「明日」に怖さを感じる。いつかはすべて終わる。でも、そのいつかって、いつ?
10代の毎日は、ベルトコンベヤーに乗せられているようだった。無意識に乗せられているうちはスムーズに日々を送れるのだけれど、乗せられていることに気づいてしまうと、そこから飛び降りたくて仕方なくなった。
そうしてそんなとき、学校は苦痛な場所になった。「学校生活」というベルトコンベヤーの速さと自分のテンポとの差に意識が向くと、途端にダメになった。授業に出ていても、意識は底に沈み、心はここにあらず。そうしてそんなとき、わたしはものを綴った。そして、それでもダメになると、「おなかが痛い」と保健室に向かった。
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8月31日。学校の再開を目前にして、死を選ぶ10代が多いらしい。生と死の間に横たわる線を飛び越えられてしまう理由は何なのだろう。
わたしは、死ねなかった。「メンヘラ」だとか「死にたがり」だとか「かまってちゃん」だとか思われながら、それでも気が狂いそうなほど死にたいともがきながら、だけどどうしても死ねなかった。だから今、ここで生きている。
子どもが死を選ぶ理由を、大人は「イジメ」だと思うのかもしれない。けれども、決してそれだけじゃないことを、過去の自分や友人を見ているわたしは知っている。理由を明確に説明できない辛さがあることも、知っている。
「生きていればいつかいいことがあるよ」だなんてことを軽はずみに言うつもりはない。「いつかわからない“いつか”までなんて、耐えられない」と思っていたから。だけど、終わりを選んでしまうと、二度と始まりはこないのだ。
「始まりなんてもういらない」と思っているかもしれないけれど、「できれば、終わりを選ぶのはもう少し先延ばしにしてみない?」と言いたい。世界は今いる「そこ」だけじゃないから。別の世界に出会う前に終わらせてしまうのは、あまりにももったいないから。
内側に内側に目を向けていると、思考は深まるけれど、同時に狭くもなる。ふっと力を抜いて、外を見てほしいなあと思う。
どこかに必ず自分のテンポや価値観が合う世界があると、わたしは信じている。そして、わたしは大人になってから、合う世界とたくさん出会えた。今の時代は、「今いる場所」以外の場所の存在を10代であっても知りやすい。……悪意もはびこっているけれど、誰かにとっての始まりだって、どこかに息づいているんだよ。
10代はまだまだ不自由で、「逃げろ」と言われたって物理的に自由に逃げ切れる力はない。だけど、せめて心を逃がしてほしいと思う。逃げ場所を探してほしいと願う。
夏の終わりは、秋の始まりだ。どうか、終わりに引きずられないでほしい。今、何の始まりも迎えられていないと感じたって、終わりを選びさえしなければ、始まる可能性は残るのだから。
今日はいつだって、始まりの始まりだ。停滞だって、離脱だって、何かの始まりの「始まり」だ。
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