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這いつくばってやり過ごす日

一本の道がある。わたしが歩いている道だ。曲がりくねったり、時に分かれ道にであったりしながらも、それでも道はつづいていく。

人生を道で例えることに、いつ頃であったのかはおぼえていない。おぼえてはいないのだけれど、小学生時代に友達とつくっていた創作冊子の名を「さんぽみち」と名づけたのはわたしだ。道、というものに惹かれていたのかもしれない。(名づけた理由は忘れてしまった)

時に、わたしの歩く道は橋になる。頑強な橋ではなく、ゆらゆら揺れる吊り橋だ。何なら、突然横幅が狭くなることもある。少しずれたら落ちてしまう恐怖。ぱっくり足元でわたしを待つそれは、いい眺めの大自然……ではなく、奈落の底、という表現が似合う闇だ。

何度か書いたことがあるけれど、わたしは長年の希死念慮持ちだ。希死念慮という言葉を知ったのは20歳の頃。だから、それまでは名前がつけられず、ただただ「死にたい……」と悶々としていた。詳しいことはここでは書かずにおく。

まるで発作のように現れて、耐えているうちに薄らいでいく。だから、ゼロにはならないけれど永続的につづくものでもないと、今のわたしは知っている。だからといって、簡単に乗り切れるわけでは、決してないのだけれど。

ぶわっと眼下の景色が闇になり、歩いている道が狭い狭い吊り橋になる。這いつくばって進むうち、また元の世界に戻る。その繰り返しだ。

道は終わりがくるそのときまでつづく。または、終わらせるときがくるときまで。できるかぎり終わらせることのないよう、やばいなあと感じるときには這いつくばる。落ちなければいい。落ちなければ。とはいえ、やらねばならないことは日々あるわけで、焦りがないといったら嘘になるのだけれど。

不恰好でも、その場をやり過ごせれば、ひとまず前には進める。最後に振り返ったとき、見える景色を少しでも誇れたらいい。たとえ誇れなくても、せめていい見晴らしだなあと眺められたらいい。

全然楽にはならないし、ずっとみっともないまだ。こんな自分でいいなんて言い切れやしないけれど、こんな自分といてくれる人を蔑ろにはしたくない。

本来ならば、こうしたことを書くのはどうなんだろう、と思わないでもない。特に、これを目にするかもしれない人のうち、リアルから先に出会った人がどんどん増えてきている今は。

というのも、わたしは基本、人に会うと元気スイッチを入れてしまうからだ。そのため、最近知り合った人からは「えええ」と思われるかもしれないなあ、とか。でもまあ、それならそれで仕方がないね。騒がしいほどに明るいわたしも、そうではないわたしも、わたしだ。うん、そうなんですよ。

不穏な空気の変化に怯えながら、だけどまだ諦めるわけにはいかないから。何とか這いつくばって、やり過ごしながら明日を待つ日があってもいいよね。


・・・


余談だけれど、「道」の名を冠したことをやるべく、目下準備中です。「さんぽみち」のことは頭になかったのに、道被りに「道好きなのか、わたし……」と思っているわたしなのでした。

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