食べることは、生きること
たとえば、「今食べているものが、未来のあなたの身体を作っていくんです」とか。
「食べることは生きることだから、大切にしたいんです」……とか。
「食べること」って、イコール「ていねいな暮らし」に繋げられることが多いと思う。繋げられるというか、「ていねいな暮らし」をしているひとは、もれなく食生活が豊かである、というか。
食生活を丁寧に送っていることだけで、「ウケる」コンテンツになることだってある。いや、それだけで、というわけではないのだろうけれど、食に関心を持っているひとが出てくる物語は、人気が高いものが多いなあという印象がある。
たとえば、「食堂かたつむり」とか。「深夜食堂」とか。ジブリ作品には毎回おいしそうなものが出てくる。わたしの好きな羽海野チカ作品にも、食事のシーンはたっぷり出てくる。
創作だけではない。ベニシアさんなんかもそうだよね。ひと手間をかけたものや、手作りのものなど、物質的豊かさとは違う豊かな食生活が、そこにはある。
わたしは、食に無頓着だ。食べることへの執着心があまりなく、気づけば一日一食になりかねないこともある。空腹と睡魔なら迷わず睡眠を選ぶから、昔夏休みに寝続けて痩せたこともある。(子どもがいるので、今はさすがについでに食べてはいるけれど、平日に一日一食になることはままある)
メンタルがやられ始めたら影響がすぐに出るのは食欲だし、基本姿勢は「食べられたら何でもいい」だ。幸い、好き嫌いはほとんどないしね。
おなかが空く、という感覚自体が鈍めだからか、たぶんひとり暮らしをしたら、面倒くさいが勝つんじゃないかな、と思っている。自炊はもちろん、出前を頼むことも、買いに出ることも、面倒くさいから。
母曰く、赤子時代から「乳は飲まない、離乳食食べない、ごはん食べない、延々寝てるか本を読んでるか絵を描いてる」というタイプだったようなので、これはもう、持って生まれた個性なのだろう。
「食べることは生きることだから、食べることは大切にした方がいいんですよ」「家族の“食”に気を配るのが、よい妻・母なのですよ」と暗にいわれるのが、ときどきつらいなあと感じる。特に後者は、それを“愛”だとされがちだから。
興味がないものに興味を持ち続けて動き続けることって、重労働のはず。だけど、それができないことは、命や家族を軽視しているのか、みたいな。ときどき、そうやってひっそり落ち込む。
わたしも、おいしいものは人並みに好きだ。だけど、それは自ら用意してまでという意味ではないし、ひとりで食べに行きたいレベルでもない。それよりも、ファストフードでもファミレスでも、「誰か」と食べるときの方が楽しいし、うれしい。
わたしは、「何を」食べるかではなくて、「誰と」食べるかの方に軸があるのだろうなあ。
すきな人と食べに行けるのなら、吉野家でもマクドナルドでもサイゼリヤでも回転寿司でも幸楽苑でも構わない。おいしいお店でも、もちろんのことではあるのだけれど、それは必須ではない。
わたしにとって、食べることはきっと、生きることではないのだろうな。食べることは、ただエネルギーを補給するためのものに過ぎなくて、そこに何か(や誰か)が付加されることにより、やっと意味が生まれるものなんだろう。
カップラーメンや惣菜を食べすぎることが体に決してよくないことは、わかっているのだけれどね。
「昼めんどくさーい。何もなーい。あ、アイスでいいや」としてしまった、今日のわたしです。
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