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LeitzとNSDAPの関係

どうも、うにょーん(@giondoll)です。さて今回はLeitzとNSDAP、そしてLeitz freedom trainと呼ばれる人道支援について語っていきます。
真面目な話なので真面目な文体でいきますよ~

現LEICA CAMERA社の前身企業であるLetiz社はその時勢故ナチスこと国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と複雑な関係を構築することになった。
Leitz製品に興味がある人ならば国防軍に納入されたiiic kやドイツ海軍に納入されたiiic型、所謂マリーンなど有名な品について知っている方も多いだろう。
Leitzはその高度な光学技術故に第一次世界大戦から双眼鏡等の軍事光学技術に関与しており、兵器の近代化が進んだ第二次世界大戦当時においてその製品は双眼鏡や観測用望遠鏡のみならず砲の照準器など使われている。この事からLeitz社は「ナチスに加担した兵器屋」といったマイナスイメージを持たれる事もあった。

しかし、Leitz社をナチス関連企業と決めつける事には違和感を覚える。この記事ではLeitz社とNSDAPの関係について纏めていこうと思う。


Ernst Leitz iiという人

Letiz社の二代目代表であるErnst Leitz iiは起業家としての顔の他に、熱心な政治家としての顔があった。
彼は1918年にドイツ民主党の創設に関与し、Leitz本社があったWetzlarでの民主党市議会議員かつ、民主党国会議員候補でもあった。また国旗団 黒赤金(Reichsbanner Schwarz-Rot-Gold)と呼ばれる社会民主党などを中心とした複数政党から成る準軍事組織に属しており、ワイマール共和政の守護の為に左右両派からの体制転覆を阻止する活動に身を投じていた。
彼はその活動の中で国旗団制服の導入やLeitz社名入りトラックの提供など幅広く活躍しており、その名はドイツ共産党(KPD)の準軍事組織である赤色戦線戦士同盟やNSDAPの準軍事組織である突撃隊にも広く浸透していた。
しかし彼の活躍は実を結ばず、1933年のNSDAP代表Adolf Hitlerの首相任命から始まるドイツの「乗っ取り」を食い止める事は出来なかった。
これ以降Ernst Leitz iiはNSDAPから懸念材料として特段の監視を受ける様になる。

Ernst Leitz ii


NSDAP体制下で

Ernst Leitz iiがNSDAP体制下において残した一番の功績はユダヤ人を中心に迫害を受けていた60から100人もの人物の尊厳ある国外退避に貢献した事、後年のホロコースト研究者の言うLeitz Freedom Trainの実施にある。
この事を理解するには当時のNSDAPによる「国家の敵」への対応を学ばなくてはならないだろう。

NSDAPによる国家の敵、とりわけユダヤ人への迫害の代表的な例がアウシュビッツに代表される強制収容所だが、本来強制収容所はユダヤ人が入れられる施設では無かった。初期の強制収容所(1933年頃)は主に政治犯に限定され、年代を追ってNSDAPの権力が増すごとに収容者の範囲が増えてゆくものの、ユダヤ人がユダヤ人であるが為だけに強制収容所に収容されるようになったのは水晶の夜(1938年)以降、保護拘禁制度成立によるSD、ゲシュタポの権力拡大後である。
1938年以前のNSDAPによるユダヤ人への迫害はニュルンベルク法制定(1935年)以前と以後でおおまかに分ける事が出来るが、当時の多くのユダヤ人にとっては1933年のAdlf Hitlerの首相就任の時点で明確な危機感を抱いていた。
1938年の水晶の夜以前はユダヤ人の国外退去そのものについてNSDAPが特に制限を課すことは無かったが、当時からドイツ外に持ち出せる資産は総資産の4%程度という厳しい制限があった。こうした厳しい制限下においても多くのユダヤ人が国外退去したが、退去先で厳しい経済的苦境に立たされる事になった。

こうした状況下でErnst Leitz iiが行った行動こそ、ユダヤ人などのNSDAPから国家の敵と認識され迫害を受けていた人々への経済的支援と国外退去の援助活動を主にするLeitz Freedom Trainなのである。

Adlf Hitler

Leitz Freedom Train

この活動の胆は国外に退去する人々を「Leitz従業員が海外支社へ出張する」として海外へ送り出した事にある。Ernst Leitz iiはユダヤ人の従業員のみならず、小売業者や友人までもをニューヨーク支社を中心にパリやロンドン、香港などの支社に配属させる事で退去後の経済的安定と自立を支援した。
この試みはNSDAPによるLeitz営業部長Alfred Turkのユダヤ人扇動の疑いでの逮捕やこの運動に参加していたErnst Leitz iiの娘Elsie Kuhn Leitzに対するゲシュタポによる拷問などに代表される妨害を受けたが、第二次世界大戦勃発によるドイツ国境の完全封鎖(1939年)まで行われた。Leica Freedom Trainで国外に脱出した人々は60~100人程度とされている。当時資料が散逸している事やこの活動自体内々に進められていた為正確な人数は未だ不明であるものの、ホロコーストの嵐が吹き荒れるこの時代においてこれほどの規模での人道的活動は非常に稀である事は間違いない。

戦時体制の圧力

このようにしてNSDAPによる独裁や人種差別に対抗してきたErnst Leitz iiだったが、第二次世界大戦以降は目立った人道的活動は出来なくなった。
主な理由として、Leitzの光学技術に多大な影響を与えたMax Berek博士が反ナチス的意見を表明していた為に教授職を剥奪される等、NSDAPによる圧力が強まった事や開戦によってLeitzの重要な売り先の一つであったアメリカ市場に代表される連合国の市場が無くなった影響で収益を軍需に頼らざるを得なかった事、1942年のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終的解決」の方針が労働を通じての絶滅へ完全に転換した時点で、情勢はもはや私企業の手に負える段階では無かった点などが上げられる。
また第二次世界大戦後半では多くのLeitz関連工場が空襲を受けるなどで従業員や工作機械が多大な被害を受けた。しかし軍需産業の遅れを許容する訳にはいかなかったNSDAPはかなりの圧力を掛けてLeitzに東欧諸国人の捕虜等を強制的に労役に付かせる事を了承させている。
国全体が戦争を遂行する極限状態において、私企業が行える抵抗には限界があった。

戦後のLeitz

戦後Leitzは戦時中の捕虜の強制労働に関する謝罪や補填などを進めたが、Ernst Leitz iiやLeitz社がLeitz Freedom Train等の活動を宣伝する事は無かった。戦後しばらくした後のホロコースト研究が進んだ段階において初めて露見したこの活動は当時の研究者達を驚愕させることになった。
Elsie Kuhn Leitzは1965年にフランス教育功労賞などを受賞したものの、ついにErnst Leitz iiの功績は2000年代を過ぎるまで明るみに出る事は無かった。
2006年にFrank Dabba Smithによって執筆された「The Greatest Invention of the Leitz Family: The Leica Freedom Train」という本において初めてErnst Leitz iiの人道的功績が世に知れ渡る事になると、翌年2007年、アメリカにおいて反ユダヤ主義との合法的な対決を掲げているユダヤ系団体である名誉棄損防止同盟(Anti-Defamation League)から勇気ある保護賞(Courage to Care Award)が贈られた。Ernst Leitz iiの死後実に51年後の事であった。

お読みいただきありがとうございました。


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