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はじめてのインド旅行記 ~ヴァラナシ編~

インドといえば、カレー、タージ・マハル、ボリウッド、人々の活気で渦巻く街・・・
一度は何かしらの媒体で、インドにまつわる情報を目にすることがあると思う。

行きたい、と思う人は、そのうちの数パーセントしかいないかもしれない。

私は、その数パーセントのうちの一人だったのだが、一人旅をする程の熱量はなく、いつか機会があれば・・・と思っていた矢先に、高校時代の友人から連絡が入った。

話を聞くと、どうやら、人生を見つめ直すために、インドに二か月滞在するらしい。
ただ、女性一人旅(しかもインド)に関して、両親が猛反対しているとか。

行ってみたかったし、と二つ返事で、一か月後に、彼女と一緒にインドへ行くことになった。

彼女とはヴァラナシで現地集合をした。

空港から市街までは、まるでルート66で見られそうな、四方に砂地が広がる一本道だった。渋滞もなく着実に目的地へ進んでいたが、時折現れる一軒家には、牛が数頭放し飼いにされていた。インドでは牛は神様。人々の暮らしのすぐそこに、牛がいた。

町が現れ、絶え間なく行き交う人々が見え始める。
いつもそこで降ろしているのだろう。運転手が、行けるのはここまで、と言う。
Google Mapを頼りに、ガンジス川のほとりへ向かう。

気候、匂い、熱気。
初めて参観日に出席する保護者のように、そわそわしていたのだろう。
現地の人が好奇の眼差しでこちらを見ていた。

ポカーンと立っていると、彼女が現れる。すっかり現地の人になっていた。
というのも、彼女は一週間前からコルカタに入っており、インドの生活に慣れ始めてきた頃だとか。

現地に溶け込む彼女

宿に荷物を降ろし、早速昼ご飯を食べに出る。
インドでは毎食カレー!と決めていたため、もちろんカレー一択。

食堂のようなところで、水牛のチーズカレーと野菜カレーを頼んだ。
5分もしないうちに、シルバーの皿に並々につがれたカレーが運ばれてくる。

お腹を壊すとかいう心配をよそに、現地式で、右手でカレーをいただく。
おいしい。今まで食べたことのないスパイス感。ジャガイモはほとんど煮崩れしていたが、ルーと一体化し、味わい深い。 
水牛のチーズは正直よく分からなかったが、おこがましくも、本場のカレーに感動した。

カレー屋を出て、夕方。彼女が前泊していた宿で出会った、現地の人がヴァラナシの街を案内してくれた。彼は、観光地と化している、ガンジス川のほとりの死体の焼き場に連れて行ってくれた。

死体を焼くのには、順番待ちがあるようだった。
呼ばれた家族から順に、白い布に巻かれた死者をガンジス川の水面まで運び、川の水で死者を清めていた。
そして、死者を焼き場に運び、石で組まれた土台の上にそっと乗せる。土台の下に、死体を燃やすための木を置く場所があり、遺族はそこに木をくべていた。
火をつける前に、白い布に巻かれた死者へ、マリーゴールドの花が手向けられていた。

人が焼ける匂いを、初めて嗅いだ。
鼻をつんざく匂い。長く吸っていると、気分が悪くなった。
でも、家族の旅立ちを見守る人たちから目を離すことができず、その場に立ち尽くすほかなかった。

船から見た焼き場

インドは世界第2位の人口を持つ大国。
火葬ができない貧困層の人は、合同の焼き場で焼かれるようだ。
こうやって家族に送り出してもらえる人は、限られたごく一部の限られた層の人なのだ。

夜には、別の焼き場へ連れて行ってもらった。
そこは夕方に行ったところよりも大規模で、10余りの土台で、火葬が行われていた。土台と土台の間の1mくらいの通路を歩いたが、炎が生み出す温度が、信じられないくらい熱かった。

この焼き場では、知らない世界を垣間見た。
黒いマントをまとった女性が、焼き場の近くに座っている。
一見するだけで、近寄るのは怖いと感じた。後から、彼女は、「アゴーリ」という修行僧だと聞いた。

アゴーリは、火葬されずにガンジス川に流された死体の臓器を食べるのだという。「不浄の中にある純粋さ」を求めることがヒンドゥー教徒としての生き方そのものであるからだ。「不浄」と向き合うこと(人肉を食べることは一例に過ぎない)は神への境地へ達する最速のルートだと考えられている。信念や考え方は、国、文化、人により様々だが、生き方の究極を知った気がした。

夜の散歩を終え、宿に帰り、それぞれのベッドで眠る。次の日は、朝からヨガに連れて行ってもらうことになっていたので、早めに就寝した。

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Maki

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