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私はどう生きるか(「シン」仏教哲学講座by松波龍源さん)#325

私はパーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designへの留学時の卒業制作で仏教をテーマにし、そのリサーチも兼ねてNew York Zen Centerで禅を体験していたが、日本に帰国してからは仏教に触れる機会が身近になかった。

帰国後も継続して仏教を学びたかったので、松波龍源先生の「シン」仏教哲学講座を受講してみた。松波龍源先生は「a scope」仏教回のゲストとして初めて知ったのだが、西洋哲学を参照しながらの説明が個人的に分かりやすかったのが今回の受講の決め手だった。

本講座では、松波龍源先生のバックグラウンドである大乗仏教(真言密教)や文化人類学に基づいた仏教的な思想や生き方を教わったので、個人的な学びと感想を記していく。

この記事の内容は講座の要約・解説ではないことをご了承ください。


仏教哲学概論

理論編:中観哲学と唯識哲学

中観ちゅうがん哲学とは、一切皆空や因縁生起などの世界観について思想である。一切皆空とは「森羅万象万物に『独立性』『絶対性』『永遠性』を認めない」という意味であり、因縁生起(縁起・因果)、相対性、変化を前提とした世界観である。

また、唯識哲学とは、中観哲学を「人間の認知スケールにあわせる」場合の思想である。つまり、全てはくうであるから、認識する主体によって異なる世界が見えていると考える(遍計所執性へんげしょしゅうしょう依他起性えたきしょう円成実性えんじょうじつしょう)。また、認識と行動は互いに影響を及ぼし合うとも考える(現行薫種子げんぎょうくんしゅうじ種子生現行しゅうじしょうげんぎょう)。

このように、存在論や認識論という抽象・マクロレベルの中観哲学と私個人のあり方という具体・ミクロレベルの唯識哲学は、空という概念の裏表の関係性にある。また、この認知スケールを自由自在にコントロールでき、抜苦与楽・離苦得楽を実践することを「さとり」と呼ぶ。

実践編:吾唯知足と曼荼羅

現代社会は唯物論・実在論(近代科学≒一神教)を前提としており、定量的に評価できる目に見える存在に価値があり、その数字が大きければ大きいほど豊かである(資本主義では金銭・資本が多いほど豊かである)という価値観である。

一方、中観哲学・唯識哲学を前提とすれば、豊かさはモノの多寡に依るものではなく個人の認識・感じ方次第であると考えられる。また、「豊かさの実感」=「必要分が充足された」=「余剰が発生した」と言い換えられるならば、自分の余剰を他者の欠乏を埋めたり善を補強したりするために贈与している状況が豊かであると考えられる(吾唯知足われただたるをしる、布施、同行どうぎょう)。

また、曼荼羅で表現される華厳経の世界観では「多即一、一即多」であり、個人は他者との関係性の中で役割が決まり、絶対的な中心は存在しない(=全てが中心とも言える)と考える。すると、自分という存在を仮の中心としながらも他者とのつながりを意識する生き方が導き出される。また、どんなに正しい生き方に思えても「わたし」にとっての暫定的な正しさであり、異なる世界が見えている他者に「わたし」の正しさを押し付けてはならないことも導かれる。


個人の感想

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