記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『山月記』が、心に響く。 #155

我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。

この一節が有名な中島敦の『山月記』を読んでいました。高校生の時に教科書で読んで以来でしたが、こんなにも胸が締め付けられる内容だったのかと思わされました。読みながら目頭が熱くなっていました。

あらすじは、李徴という見た目も良くて出世もして妻と子どももいながらも、自分の詩の才能を諦めきれずに苦しみ続ける一人の男が、ついには発狂してなぜか虎になってしまったといったところですかね。


人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

「我が臆病な―」やこの一文が象徴するように、『山月記』は李徴の人生を通して「何かを生み出すことに挑む人が直面する壁」が描き出されています。恥をかきたくない。自分が特別ではないことに向き合いたくない。自分は優秀であるという可能性の中で生きていたい。そんな気持ちが文学に昇華されているように思います。


他人と切磋琢磨しながら自分の下手さを自覚することでしか上達しないというメッセージに耳が痛くなります。たとえば、李徴が自分の詩を残したいと袁傪に口伝するシーンで、袁傪は「才の非凡を思わせるものばかり」と評価しながらも、以下のように思うのです。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。

なんとも残酷ですよね。「上手いんだけど、プロレベルじゃないなぁ」と袁傪は思うのですから。袁傪をもってしても、李徴に詩の出来についての率直な感想を述べることが憚られて心の声にとどまっているというのも、何とも辛い。

その後、李徴はこうも言います。

己の詩集が長安風流士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。

皮肉にも、詩に魅了されたからこそ、そして少しの才能があったからこそ人生が狂ってしまったのです。こうした李徴の一人語りの間に「袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いていた」という一文が差し込まれているのもニクい演出です。


ところで、徒然草の第百五十段にはこうあります。

未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

上手くなるには、下手なうちから上手な人に混じって練習するしかないのだということです。上達に近道などない。手っ取り早い方法がどこかにあるのではないか。独学でも上手くなれるのではないか。そう思いたくなる。でも、そんな安易な解決策などない。下手な自分をさらけ出しながら、地道に積み重ねていくしかありません。

だから、こうしてnoteを書き続けるのです。自分でも分かる文章の拙さを恥じながら「投稿」の緑のボタンをクリックする。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心を乗り越えるために。


追伸:Amazonで無料で読めます。ぜひ読んでみてください。

noteにコミカライズ版もありました!ドラマチックに再構成されていて、こちらも涙なしには読めません。


いただいたサポートは、デザイナー&ライターとして成長するための勉強代に使わせていただきます。