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2024年1月18日 この世界で最も愛しているもの 


先日、X(Twitter)の相互さんとお茶会をしてきました。
今回はお茶会といっても、ホテルでアフタヌーンティーをしてきたわけではなく
喫茶店でだらだらお茶を飲みながら会話をするというモノだったのですが
これが非常に面白かったのです。

思いつくことをお互いどんどんしゃべっていくだけなのですが
全く、話が尽きることがありません。
また比喩やイメージを使った話でも
問題なく会話のラリーになるのが
楽しすぎました。

そのお茶会を通して
自分が生きていて何を1番面白いと考えているかを
再認識できました。

最も面白いと思っていることは
「生きている人間との会話」です。
芸術や自然も好きですが
それらのように物体として存在するもの、残っていくモノ以上に
この瞬間にある会話、消えていってどこにも残らない会話を
最も面白いと思っている、
はっきり言ってしまえば、
「愛している」ことに気づいたのです。

もし、記録や録音を残したとしても
あの空気感はおそらく残りません。

数年、数十年後には、誰もその会話の比喩が何であるかなど
わからないはずです。
そして、さらには100年後にはあの会話で使われていた言葉のほとんどが
死語になるか、異なる意味やイメージを持つことでしょう。
あの会話があの場にいた2人にとってどういう意味を持つもので
どう言う体験だったかを理解できる人もほとんどいないでしょう。
万が一、文章や写真、動画で残されたとしても
2度と同じように立ち上がることはない会話、
それを最も好んでいるのです。

芸術はどれも好きですが
のめり込むほどまで好きにならず、
芸術家になろうとも思わなかったのは
こういうことなのだと感じました。
1番近いのは、演劇、お笑いや音楽かもしれませんが、
それらだって台本やお決まりの展開や楽譜があります。
完璧なフリートークとは違います。
関係性をもとに、瞬間に生成されるもの、
1番近いのはジャズミュージックのセッションかもしれません。
学生の頃、友人に「演劇を一緒にやろう」と誘われたのに
見学もそこそこに断ったことを思い出しました。
同じ台本を何度も練習するというのがどうも性に合わなかったのだと
今ならわかります。
よりフレッシュなもの、
より消えていくもの、より残らないものに
惹かれていたのです。

先輩の主催する様々なワークショップの手伝いは楽しかった覚えがあります。
ワークショップの申込者に一期一会があり、ワークを何をするかは決まっているけれど
何が起きるかはわからないところに心惹かれていたのでしょう。

しかし、そういう意味で言うと、
もっとスポーツ観戦やスポーツを好きになってもいいと思うのですが
スポーツには全く興味がありません。
どうしてでしょうか。勝ち負けに興味が湧かないと言うことかもしれません。
勝負よりも、ハーモニー、そこから生まれるえも言われぬ雰囲気が面白いのです。

ラップバトルとか詩のボクシングには興味があります。
恥ずかしいのでかくしていますが、ラッパーには今でも憧れがあります。
できることなら、相手を罵る時だって、かっこいいリリックのパンチラインを決めたいと思っているところが、恥ずかしながら確かにあります。
絶対にハッとさせるようなことを言ってやりたい、とう言う欲望があるのです。

立ち上って消えていく言葉、
生成されては忘れ去られていく会話が好きだということでしょうか。
自分は根暗で人と交流することは得意ではないと思っているのですが
本当に楽しいと思うことは他人との会話であるという矛盾したところがあるようです。
よく考えれば、子供の頃から、そうだったような気もします。

もちろん、誰でもいいから会話をしたいと言うわけではありません。
人見知りなので、旅先でフランクに話しかけられると固まります。
好き嫌いも強いので、嫌いな人とは喋りません。
誰とでも適当な会話をしたいというわけではないのです。
「◯◯を食べた」「◯◯をした」という現実的な話よりも、その現実から考えたこと、感じたことを話し合いたいのです。
その人なりの意見や考えが打ち出されているとなお楽しくなります。
その上で、イメージを駆使した会話、比喩などを理解してくれる人と喋りたいということかもしれません。
また、フェアに話をするのが楽しいのであって、
お悩み相談会のような
どうにもならないしどうにもする気がないこと(例えば不倫)を愚痴るタイプの会話は
好きではないと言うことも気づきました。
できるだけフェアに、そして、まっすぐ会話をしたいのです。
発展性のない会話、ぐるぐる回って煮詰まっていくような会話は全く好きではありません。
その場でバッサリ切ってしまうか、その場所をすぐさま出ていくくらい嫌悪感があります。
そういった風通しの悪いねっとりした会話を、自分の中では、会話として認めていないような気がします。結局それは、他人を使った独り言でしかないと感じるからでしょう。
独り言なら1人でやってくれよ…と思ってしまいます。

長い時をかけて、
自分がこの世界で本当に愛しているものが、
「生きている人間との会話」であることを発見しました。
子どもの頃、そんなふうに思ったことは自分ではありませんでした。
自分は1人でいるのが好きだと思っていました。
長生きはするモノです。
自分が知っている自分など、いくらでも更新していけるのですから。

さて、占星術を少しだね勉強しているのですが、
上記に書いたことは、出生図という、生まれた時のチャートにおいて、
月星座が天秤座であること、
アセンダントが水瓶座であることと関係している気がします。
天秤座も水瓶座も風の星座です。
4つのエレメントの中では言語によるコミュニケーションなど、情報の伝達に優れているエレメントと言われています。
手に取ることも、眺めることも、触れることもできない風と、
生成されては消えていく会話はどことなく近しいように思うのです。
また、占星術において、アセンダントはその人の外見や持って生まれた考え方、月はその人の肉体や居心地の良い場所を、示すと言います。
アセンダントが水瓶座であるから、グルグル回る愚痴ではなく、異論反論オブジェクションあっての会話が当然だし、
月が天秤座であるから、生身の人とジャズセッションのように話すことを喜ぶのかもしれないなどと考えます。

「面白いなぁ。また誰かに会った時にこの話をしよう!」とすでに武者震いをしています。楽しみです。

   


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