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【それはきっと,教師が心に留めることだ】


教室は間違えるところだ、っていうけれど、ずっとどんな意味なのだろうと思っていた。
よく、誤答やみんなと違う意見を言うことを恐れるな、失敗を恐れるな、知らなくて当たり前、できなくて当たり前なんだから間違えていいんだ、勇気を出してやってみろ、的な意味で語られている印象が強い(あくまでも私の印象……。)
そういった側面はあるし、そういう指導が必要だったり有効だったりすることもあるから、否定するつもりは毛頭ない。
しかし、そうはいってもやっぱり人前で失敗するのは恥ずかしい。
こういう経験が大事だとわかりながらもそう思う。
私自身が気後れするのに、子どもにそれを強いることにやはり抵抗がある。
失敗の種類やレベルにも(あるいは、場面や時期、関係性においても)違いがあろうから、一概には言えないのだろうけれど。世の中の皆さんはきっともうわかっていたのだろうけど、私はつい最近、この言葉の意味がわかったと思った瞬間があった。


この言葉は、子どもを奮い立たせるためにあるのでも、勇気づけるためにあるわけでもない。
教師である自分自身に言い聞かせるためにあるのだ。
わかるけど、できない。
教室はそんなことで溢れかえっている。
わかっているのにやってしまう。
やめようと思うのに、やめられない。
子どもとはそういうものだって思う。
いやいや、大人だってそうではないか。
そういうことの繰り返しの先に、人の成長があるのではないだろうか。
教師はそれをよくよくわかっていて、子どもの苦しさや情けなさを受け止め、繰り返される失敗にも可能性や未来を信じる。
何度うまくいかなくても、何度失敗しても、それでも見限らない。
教室は間違えるところなんだと自分自身に言い聞かせ、ただただ子どもの未知の可能性を信じて関わる。
やがて、社会に出たときに自分らしく幸せにいきるために、今はたっぷり失敗して間違えていいのが教室なのではないか。
それを信じて関わり続けるのが、教師なのではないか。
どんなに周りが諦めても、時に、保護者や本人さえもが諦めたとしても、それでも関わり続けるのが、教師なのではないか。
間違いを繰り返しながら、あなたはちゃんと学んでいるし成長しているよって言えるのが、教師なのではないだろうか。


教室は間違えるところだ。
教室は間違えていいところだ。
教室は間違いがあって当然のところだ。
何度間違えてもやり直せる、学び直せる教室は、教師の中に存在する。

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