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「エルヴィス」駆け込み鑑賞。

https://wwws.warnerbros.co.jp/elvis-movie/

ギリギリ、上映終了に間に合いました~。

ロックの帝王、エルヴィス・プレスリーの生涯を、彼の人生を大きく動かしたマネージャー、パーカー大佐の視点から描いたフィクショナリー。
映画についての前知識ゼロで見に行ったもんで(誰が出てるとか監督が誰かとかも知らなかった)、パーカー大佐がトム・ハンクスだということに途中で気づいたけど確信できずに見終わりました。
よかった、間違ってなくて(笑)
にしても、ギリギリ、トム・ハンクスとわかるような特殊メイク、すごいですね。あれでずっと撮影してたのなら、そうとうしんどそう。

エルヴィス役のオースティン・バトラーも青年期から晩年まで25年くらいかな? ウェイトコントロールがすごくて、ちゃんと太って容色が衰えていくんですよね(メイクもあるんでしょうけど)。
初めてこの手の伝記映画で自然に加齢して衰えていくのを見たかも。

実話をもとにはしているけれど、随所に入る俯瞰的な演出がとても映像的、演劇的で、その分、ファンタジーっぽくもなってました。
(「ボヘミアン・ラプソディ」でもツアーに飛んでるときにビューンと飛行機が世界地図の中を飛んでいくような漫画的表現がありましたが、「エルヴィス」でも同じような表現を多用、それ以外でも場所を説明するのにぽん!と文字が立体に飛び出して来たり、現在と過去の場面を分割画面で同時に結び付けたり、漫画的な映像的な表現が多かった)

基本的にパーカー大佐の語りと視点なので、エルヴィスの独白の場面ですら彼の内面が見えにくく、いわばこれ、パーカー大佐の死ぬ間際の走馬灯、長い長い言い訳ではないのだろうかと思いながら見てました。だから全体に表現がファンタジックなのかなあ、と。
エルヴィスと大佐の出逢いの場面も、観覧車も、まるで夢のような描き方でしたし。そもそもルーレットにしがみつく老いたパーカー大佐の姿自体、非現実的でした。
ラストシーンで別のツアーの場面で使われていた「エルヴィスはもういないよ」のアナウンスとともに暗闇の中のちいさな光がプツンと消えるのは、パーカーの死を示唆しているのだと思います。

そう思ってみると、いくらなんでも大佐の周りの人々がバカすぎる。エルヴィスの父も、母も、取り巻きも、そして、エルヴィスももちろん。
実際はともかく、パーカー大佐にはこう見えていたのだろうな、と言う感じ。

エルヴィスを殺したのはファンの愛(スーパースター=彼の望んだスーパーヒーローであること)、それを彼が求めすぎたから、なんて締めもパーカー大佐の自分の我欲が追い詰めたことを認めたくない都合のいい、逃げや言い訳だと思えば、ハイハイ言ってて、って感じ。
音楽にもエルヴィスにも何に対しても愛がない描き方をされてましたね、パーカー。

最近のこの手のアーティストの伝記映画全体の傾向ですが、ライブパフォーマンスはとてもよかったです(ただ、全体には少な目の印象。パーカーとエルヴィス、二人の愛憎を中心に描きたくて、エルヴィスの音楽的な再評価、みたいなことには関心がなかったんでしょうか)。特にベガスのショーのリハーサルから本番にかけて繋がっていく場面の高揚。エルヴィスがプロデュース能力にも長けていたと感じられる場面でした。さらに「That’s All Right, Mama」で、少年期の自身と重なるカットはとても映像的でよかったです。
慈善コンサートでの「Trouble」は実際とは異なるそうですが、パフォーマンスとしてはとてもよかった。場の狂乱を生み出すという意味では最高の演出でしたね。

私は、エルヴィス・プレスリーをほとんど知りません。小さい頃に亡くなってるんですが、若いころのハンサムな彼より、太ったエルヴィスの方が印象に残ってるほどです。「骨盤ダンス」なんて呼ばれ方も大人になるまで知らなかったですし。
私の頭の中には「陽気なロックンローラー」「帝王エルヴィス」、白人として生まれながら黒人音楽で育ち、両方を結び付けた新しい音楽を作った…という死後の美化された評価、栄光しかなく、白人優位主義の中で彼がどれほど危険視され迫害されてきたか、は実感したことはありませんでした。
(現代日本人の私達が「人種差別」を肌で実感するのは難しい)
彼が破滅に向かったのは、パーカーとの共依存と同時に、評価と批判の中での精神的な摩擦も大きかったのではないか、と感じました。
冒頭、少年期に出逢ったミサでの降霊体験(と言う名のエクスタシー体験)の場面、メンフィスでのB.B.キング達との交流など、エルヴィスのルーツが黒人音楽にあることが視覚的にも聴覚的にもはっきりわかる演出から実感できたのはとてもよかったです。

唯一不満なのは、最後のパフォーマンスで途中から、エルヴィス本人の映像に変わっちゃう点。
なんのためにフィクションとしてそこまで役者を使ってきたのか…オースティンが作ったエルヴィス像とブレてしまう。
ドキュメンタリーにしたいなら、最初からそう作れば?と思います。
オースティン・バトラーの、パーカー大佐が言うところの「人の心を迷わせる」妖しい魅力がとても素敵だっただけに、ここで急にドキュメンタリーになると、ラーマン監督がそこまで築いたフィクションに自信がなくなったように思えて残念でした。
エンドロールに登場するならわかるんだけど、そのまんま本編が終わったから「んあ?」ってなってました。もやもや。

いい映画ではありましたが、もう一度見よう、とはならなかったのが正直なところでした。



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