幕間をひとつ
酷い記事ばかり書いていて、自分で自分の記事を読んで気分が悪くなってきてしまったので、ちょっと別なことを書いてみようと思う。
ボランティア活動中には数えきれないほど、素晴らしいこと、感動したこと、楽しかったこと、面白かったこと、奇妙なことを経験した。
たとえば、震災直後の東北では、しょっちゅう交通事故に遭遇した。
これは交通網が元通りになっていない上に、他県の行政やマスコミ、支援者など、地域で乗り慣れていないドライバーが多かったからだと思う。
多い日なら行きしなに1件、帰り道で2件、脱輪してたり、道路脇の田んぼに半分ずり落ちてたり、電柱やガードレールに衝突してエアバッグが開いてたりなんて事故車をよく見かけた。
通行人の少ない、田舎の何もないようなところだから、ほとんどの事故は大したことではなさそうだったけど、これが人混みに溢れた都会だったらと思うとゾッとする。
夕刻には毎日渋滞も発生した(これは東北だけでなくどこの災害現場でも同じ)。平常時より通行車両の数が爆発的に増えるのに、通行止めや一時的な一方通行の場所が無数にあり、普通に車両が通れる道路が限られるからだ。
夏の暑い日の屋外でのボランティア活動は、大抵15時か16時に撤収することになっていた。その分、朝早く7時や8時の涼しい時間から始める。いくら東北でも夏の日中は暑いので、ボランティアの体調に配慮してそういう方針になってたんだと思う。
何しろ熱中症は怖い。死ぬ人もいる。しかも活動場所は辺鄙なところが多いから、何かあっても救急車なんかすぐに来れない。
それに、活動車の給油を早めに済ませないと、夕方のガソリンスタンドの大行列に巻きこまれて無駄な時間を食ってしまう。ガソリンスタンドも燃料もまだ不足していた。
そのころ、私が滞在していたボランティア拠点は内陸で津波の被害を受けていない場所で、インフラも商業施設もなんともなかった。
だから私たちは、夏の午後の活動の帰りにコンビニに立ち寄って、アイスを買って駐車場で食べながら一息つくことがよくあった。
その日もいつも通り、活動が終わってコンビニでアイスを買い、めいめい食べながら井戸端会議に花を咲かせていると、目の前で交通事故が発生した。
そのコンビニはやや急な登り坂が下り坂に変わる地点にあって、しかも道路がコンビニを中心として弧を描くようにゆるくカーブしていた。道幅はせいぜい5〜6mほど、道路沿いには大きな桜の木の並木が植えられ、道路の頭上に長い太い枝が折り重なるように伸びて、その濃い影が路面に落ちていた。
経験的にいって、地域のことをよく知らないドライバーにとって、かなり危険な立地だと思う。左右両側から駐車場に進入しようとするドライバー同士が、相手の進路を見間違えやすい。
駐車場には入り口も出口も設定されていないから尚更だ。
事故車はコンビニから見て左側から駐車場に進入しようとして、右側から進入したバイクと正面衝突した。
両者とも減速していたが、バイクのドライバーは跳ね飛ばされて、仰向けに倒れて動かなかった。
私たちはすぐさまアイスをゴミ箱に投げ捨てて駆け寄り、ドライバーのヘルメットを外し、着ている服の襟元やベルトを緩めて、意識があるかどうかを確認した。幸い、呼吸は正常で、やや朦朧としつつも意識はあって、私たちの呼びかけにもぼそぼそと応えられてはいたが、一見して脳震盪と鞭打ちの症状が見られ、骨折もしているようだった。
一方で交通整理をして、他の通行車両に徐行を呼びかけ、救急車と警察を呼んだ。
このとき、私たちボランティアグループのリーダーだった人が、小さな声で「トランクに聴診器と血圧計があるからもってきて」といった。
いわれた通り、彼女が運転していた乗用車のトランクには、応急処置に最低限必要な医療器具を一揃いつめたブリーフケースが入っていた。
「看護師なんです」と、やはり彼女は小さな声でいった。ボランティアセンターには秘密にしているような口ぶりだった。
まもなくパトカーと救急車が現場に到着したのを見届けて、私たちは速やかにその場を去った。
ボランティアの中には、彼女と同じ看護師だという人がたくさんいた。彼女のように、職業を隠している人もいれば(これは看護師だからと勝手なスキルを期待されて面倒に巻きこまれることを避けたかったのではないかと思う)、オープンにしている人もいた。看護師といえば人手不足で忙しいというイメージだったが、彼らは貴重な休みを利用して、病院の外で、被災者の手助けをしていた。
ほんとうに頭が下がる思いだった。
他に多かった職業は、医師、介護士、介護福祉士、理学療法士、ヘルパー、ケースワーカー、美容師もしくは理容師、学校教師、自衛隊員(空自は災害派遣で活動する機会がないという)、警察官、消防士、ライフガード、ヨガインストラクター、登山ガイド、調理師、飲食店経営者、建設業、運送業、タクシードライバー、警備員、造園業、整備士など、普段から人に尽くす、社会に貢献することを職務としている人が多かったように思う。
震災直後のボランティアの年齢層は圧倒的に30代後半〜60代が大半で、アウトドア生活に慣れた人が多かった。学生など若い人が増えたのは、学校が夏休みに入ってからだった。最初はみんないい年をした大人ばかりで、しかも休職中とか、離職して再就職活動中、もしくはフリーターなんて人もザラだった。ボランティア拠点の失業率は相当高かったと思う。
災害緊急援助で「ボランティアっていいな」と思えたのは、普段の生活ではほとんど会う機会のない、住む場所も職業も生活背景も年齢層も趣味嗜好も全然違う人同士が協力しあって、同じ目標のために努力するという貴重な体験ができたことだ。
ボランティア拠点が寒くても、トイレが足りなくても、お風呂に入れなくて洗濯ができなくても、食べ物が少なくてみんないつもお腹を空かせていても、誰ひとり一言も文句をいう人はいない。
いえる状況なんかじゃないことを、言外に誰もが理解していた。
そういう連帯感って日常ではちょっと体験できない。
あ、いま、私たち連帯してるな、と感じる瞬間って、やっぱりなかなか感慨深いものです。