倒錯愛好者
1、はじめに
ドールオーナーになって幾星霜、今更という感がしないでもないが、ドールの魅力について述べておきたい。ドールの種類によってその魅力も異なるのではないかと考えるからである。
基本的にとにかく「カワイイ」あるいは美しいというのがドールオーナーの共通認識であり、一オーナーであるわたしもそのことには疑いない。けれども、「カワイイ」、美しいだけでなく、ここではもう少し各種のドールについて別の言葉を紡いでみたい。
なお、ここでは私が所有しているボークス社製のドルフィードリーム(DD)などのアニメ顔の美少女ドール(以下、「DD等」という)(1)、またはスーパードルフィー(SD)や海外製キャストドール(以下、「SD等」という)(2)を専ら対象とする。従って、男性のドールや人外系、等身大ドール等は想定していない。これらのドールも魅力はあるだろうが、私は所有していない以上、その魅力を語る言葉を持ちあわせていないためである。
2、ゴシックとは
まず、ドールの歴史を概観すると、ゴシック・ドールと呼ばれるドールがある。ゴシックとは何か、その定義づけは難しいが、ゴシックの研究者である高原英理は抽象的に語ることはできないとしつつ、以下のように述べる。
ゴシックの基底にあるのは「合理主義」や「進歩主義」への抵抗の精神である。もう少し砕いて言うなら、世間的な「キレイゴト」に対する反骨精神と言っても良いだろう。
そして、ゴシック・ドールはハンス・ベルメールを始め四谷シモン、三浦悦子、中川多理などによって作製されるドールを指す。検索してみれば分かるが、どこか不気味で奇怪、抽象的で不思議、乏しい私の語彙量では筆舌に尽くし難い。まさにゴシックという雰囲気を醸し出している。
ところで、哲学者の金森修は人形の概念的把握の手段として、人間の「情念」を前提とした「呪術」、「愛玩」、「鑑賞」の三点の三角形を底面に「物質性」を頂に置いた「人形三角錐」を考察している(3)。
この「人形三角錐」の理解に従えば、ゴシックドールは芸術として展示される場合もあり、「鑑賞」の度合いが高いと言えるだろう。他方、とても「カワイイ」とは言えず、「愛玩」の度合いは低い。
3、DD等
逆に、DD等は「カワイイ」に特化したドールであり、「愛玩」用であることは疑いない。他方、アニメがサブカルチャーと言われるようにアニメ顔のドールはカルチャーとして確立している芸術とは無縁である。確かに、DD等も自宅や店舗などでガラスケースに入れて鑑賞する場合もあるが、金森の言う「鑑賞」は絵画、彫刻、音楽、建築などの芸術の鑑賞と同列と理解できる鑑賞でなければならない(4)から、やはり「鑑賞」的要素は皆無と言ってよい。
また、「お迎え」費用も比較的安価なのがDD等の魅力の一つであろう(といっても決してお安くはないが。)。
かつて手塚治虫は、自分の漫画のキャラクターについて顔のパーツの組み合わせにより喜怒哀楽を表現すると述べた(まんが記号説)。
DD等も同様に大きな目、ほぼ無い鼻、シンプルな口などの「記号」により比較的簡易な造形がなされる。これにより工場での大量生産も可能となり、低コスト化が実現される。そのため、SD等に比べて安価となる傾向にある。
「ドールおじさん」という自虐があるように、「カワイイ」に特化したアニメ顔ドールは男性から絶大な支持を受けているのもこうした理由によるだろう。
他方で、人気カスタマーによりメイクされたドールのヘッドがオークションで高額取引される場合もある。中には数百万円もするヘッドも見受けられる。
かつて、ボードリヤールが現代では商品を本来の「使用価値」のみならず他者との「差異」化のために「記号」として消費していると喝破して久しい。
アニメ顔はその造形の簡易さから没個性的になりやすく、「差異」化されにくいといえる。そのため、より希少性が高い「カワイイ」をもって差異化を強調する必要があるのだろう。カスタムヘッドが異常に高騰する理由もこの辺りにあるのではないか。
4、SD等
次にSD等を検討してみよう。アニメ顔とは異なり、より「お人形さん」らしい造形であることが特徴である。SNSでよくドールは「生きているみたい」と称賛されることがあるが、SD等には死んだような美しさも兼ね備えている。このことはアニメ顔のDD等にはないゴシック的な要素が創出される可能性がある。
先ほど、ゴシックドールには「カワイイ」要素はなく、アニメ顔にはゴシック要素がないことを述べた。とすると、ゴシックと「カワイイ」は対極にあるようにも思えるが、両者は決して矛盾するものではなく、奇妙な両立を見せる。
例えば、ゴスロリというファッションはゴシックとロリータの「カワイイ」が融合している。両者は相反するものではない。互いの長所を相殺することなく、絶妙に調和の取れた特有の魅力を発揮する。
確かに、SDや海外キャストドールはゴシックドールに比べると愛玩的要素が強く、高原の理解ではゴシックとまでは言えないだろう。また、金森の理解でも芸術とまでは言えず、「鑑賞」用とは考えにくい。
しかし、顔の造形からしてアニメ顔よりもゴシックな衣装が似合うことは間違いなく、加えて、ゴシックな雰囲気を背景とすれば総体としてゴシック要素が導かれるのではないか。
SDは愛玩用として「カワイイ」を維持しながら、ゴシック的要素も持ちあわせているという、いわば両取りの魅力があると考える。
↓うまいとは言えないがゴシック風に
↓こちらは「カワイイ」を意識して撮った写真
5、おわりに
以上、長短併せたドールの魅力を述べてきたが、ドールの世界はどれだけ語っても語り尽くせるものではない。むしろ、語れば語るほどドールワールドの深さを知ることとなる。
金森が提唱する「人形三角錐」では「物質性」がその頂にある。ドールが「そこにいる」という圧倒的な存在感である。
オーナーはキャラ設定、衣装、ポージング、普段の接し方等の趣向だけでなく、容易には理解されない「こだわり」もある。それによって物語を志向する。即ち、そこにはドール哲学がある。
若人がよく使うコスパだのタイパだのを気にしてスマホのドール画像だけ見ても決して得られることのない特別な体験である。
ドールとオーナーは似ると言われるのはこうした哲学によるところが大きい。勿論、美少女と冴えない中年男性では似ても似つかぬが、ドールはオーナーの理想の投影、ドールをみればオーナーの思想が見えてくる。親が子に自己を投影させたら「毒親」だが、オーナーとドールとの関係ではそれが可能となる。
「人形」について語ることは「人間」を語ることなのである。
6、脚注
(1)VOLKS製の外にアゾンインターナショナル製や小櫃製作所製のドールもある。
(2)VOLKS製の外に海外製キャストドールの販売で有名なDOLKを想定している。
(3)金森修「人形論」平凡社 2018 p48〜49
(4)金森・前掲 p48
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