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ドキドキ!ワクワク!かわいいお人形さんのお迎えセレモニー♡―その儀礼性をめぐって―

降臨台

降臨台に置かれたドール (創作造形©ボークス・造形村)

セレモニー中

オーナーと降臨台

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SD (創作造形©ボークス・造形村)

式次第

式次第

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DD (創作造形©ボークス・造形村)

1、はじめに

 私はドールオーナーである。
 私は数年前にVOLKS社のドルフィードリーム(DD)という種類のドールに興味を持ち、そのオーナーとなった。その後、興味の範囲が広がり、同じVOLKS社のスーパードルフィー(SD)という種類のドールも欲しくなった(1)。DDは一般的に男性向けと呼ばれ、その顔はアニメの美少女に代表されるような大きな瞳が特徴である。他方、SDは女性向けのドールであり、DD誕生前から愛好されているドールでいかにも「お人形さん」といえる特徴を有している(2)。
 このSDにはVOLKS社に所属する職人の手によって自分のイメージするメイクを施してもらえ、その他肌の色、ウィッグ、瞳の色や種類、手足の長さなど全て自分で選択できるフルチョイスというサービスが存在する。真に世界で一つ、唯一無二の自分だけのドールを制作してもらえるシステムというわけである。そして、このシステムの利用者にはオーダーしたドールの完成後、「お迎えセレモニー」と呼ばれる特別なサービスを受けることができる。
 DDだけでは飽き足らずSDも欲しくなった私は、このフルチョイスを利用し、自分だけの特別なドールをオーダーした。なお、SDにもサイズが何種類か存在する(3)が、私が購入したのは約58㎝のものである(4)。また、以前から深く興味があった「お迎えセレモニー」も是非体験したいと願っていた。私は、2018年10月12日に京都の著名な観光地である嵐山の「天使の里」というVOLKS社の施設でこの儀式を行った。たいへん感動的な儀式であったことを記憶している。
 では、この「お迎えセレモニー」とはいかなるものなのだろうか。「天使の里」公式サイト(5)を見ると、お迎え(購入)したことを「祝福」し、SDとオーナーの「絆を確かなものに」することがその趣旨のようである。そして、私が体験した範囲ではあるが、セレモニーの概要は以下の通りである。
 「お迎えセレモニー」は①はじまりの宣言、②お迎えのメッセージ、③永遠の生命の息吹④お迎え、⑤記念撮影の5つから成る。まず、儀式の前にドールは儀式の中央に位置する「降臨台」(6)と呼ばれる台座に置かれる。ドールはヴェールで覆われ、その姿が見えない状態で儀式が開始される。スタッフの方が儀式の「司会者」(7)となり、挨拶とお祝いの言葉を述べる(8)。「司会者」の進行に従い、オーナーは改めてヴェールを除ける。ドールの姿を露わになり、初めてドールとオーナーが「対面」する。次に、「降臨台」に灯されている蝋燭の火をドールに向かって吹き消す。火は生命の象徴と解され、吹くことによって飛ばされた生命がドールに宿るとされる。「司会者」がドールとオーナーがパートナーとなったことを宣言する。会場にいるスタッフ及び偶々会場に居てセレモニーに立ち会ってくれた参加者が拍手をしてくれる。「司会者」による閉会の挨拶とドールとオーナーの記念撮影によりセレモニーは終了する。
 私は感動したと同時になんとも言えない不思議な心情を抱くに至った。この儀式は一体何のために行われるのだろう?気恥ずかしいのになぜ良い歳をした大人が真剣にドールの儀式を行うのだろう?私はその時何をしていたのだろう?次から次へと疑問が沸き起こってくる。このような疑問は儀式が終わってから1年半以上経過した今でも消え失せることはなく、むしろ、時間が経過するに連れ余計に深まっているように感じられる。
 「人間は儀式をする動物である」とはよく言ったもので、わが国だけ見ても冠婚葬祭をはじめ入学式、入社式、卒業式、成人式など多様な儀式がある。しかも、人間の3分の1サイズの人形を購入した際にも儀式が行われるというのはそのこと自体驚異である。この事実に興味を惹かれないわけにはいかなかった。
 以上の経緯を踏まえ、本論では「お迎えセレモニー」なる儀式を文化人類学における儀礼論から分析し、その意義と理論的展開を試みたい。
 ここで、あくまで個人的な見解ではあるが、ドールの魅力を簡潔に述べておこう。後述する「お迎えセレモニー」についての理解が深まることを期すためである。
 ドールといってもその目的、サイズ、造形等多種多様である。私は日本人形を購入する予定はなく、上に掲載した画像のような顔のドールが好みであり、実際人気があるのもこうしたドールである。人形をいかに定義づけるかは困難を伴うので、DDやSDのようなドールに限定して述べると、その最大の魅力はその「物質性」であろう。テレビやパソコン画面のみでは決して出すことのできない「物質性」が有している「今、この場にいる」という圧倒的な存在感にある。二次元の美少女を三次元化したと言ってもよいだろう。
 しかし、それならばドールでなくともフィギュアでよいではないかという疑問が当然出てくるが、流麗な顔のメイクや肌の質感の繊細さ、そしてグラス、アクリル、レジン等の素材で作られる嵌め込み式のアイ(目)の美しさはフィギュアには出せないドールの魅力である(9)。加えて、ウィッグ、アイの色、衣装や靴、ポージング等各オーナーが工夫を凝らしつつ、自由に表現できるのも魅力であろう。ドール愛好家の中には、自らドールの顔にメイクをする者、アイ、衣装や靴及びアクセサリ等を自作する者が多数存在する。また、関節を改造して可動域を広げたり、ドールを自立させるためのアイテムの開発に成功した者、ドール撮影に使う小道具を製作する者、ドールの写真集を出版する者などドールは表現活動の客体として相応しい存在となっている。ドールに「物質性」が備わっていなければこれらの活動はなしえない。このような人間よりも美しい、かわいい「人間」を創造する営みは自己を実現する手段ともなっている。

2、儀式と儀礼
 

 こうして私はSDの「お迎えセレモニー」を体験したわけであるが、儀式(ceremony)と似た言葉に儀礼(ritual)がある。「お迎えセレモニー」はその言葉(ceremony)通り儀式の一種であると言えそうである。普段われわれは特に意識して両者を使い分けてはいないが、講学上、議論の錯綜を回避するため語義は明確にされなければならない。
 辞典を繙くと、儀式には
① 一定の作法・形式にのっとって行われる行事。慶弔に際して行われる行事や組織体が行う行事など。
② 朝廷で行う公事・祭事の礼式作法。また、それを定めた書。
という意味が、儀礼には
① 一定の形式にのっとった規律ある行為・礼法。礼儀。礼式。
② 聖なるものとかかわる慣習的・宗教的行為。
という意味が与えられている(10)。①を見る限り、儀式と儀礼については明確な区別はなされていないようである。儀礼の②で儀式より儀礼の方が宗教的色彩を帯びていることが分かる。
 哲学者で宗教社会学者であるデュルケームも宗教的行事に代表されるような「神秘性」は非日常的で日常的な「俗性」と対極を成すものとし、儀礼を「神秘性」をめぐる行為と特徴付けた(11)。
 「お迎えセレモニー」では「畏れ多き 天上の導き」という超自然的な力の存在が肯定され、「もう一人の自己を 永遠に己の身代わりとして」、ドールが誕生し、「『二人』の上に幸多からんこと」(『』は筆者)が祈祷される。そして、ドールに覆われたヴェールを除け、この超自然的な力の存在の下で「永遠に生きる『命』を与えられる」(『』は筆者)ことが宣言され、ドールが「長く生き続け」、オーナーを「癒すこと、励ますことそして心から喜びをお届けするような存在に」なることが祈願される(12)。この間、覆われたヴェールを除け、「降臨台」に座っているドールに向かって蝋燭の火を消すといった特徴的な行動もとられる。「お迎えセレモニー」の行動様式は極めて象徴的で日常のそれとは大きく乖離しており、「神秘性」を帯びていることは明らかであろう。
 従って、本論では、「お迎えセレモニー」をその文言に反し、あえて「儀礼」として扱い、これを前提として諸検討を行うものとする。

3、「お迎えセレモニー」におけるコミュニケーション
 

 儀礼の行動様式には規律があり、参加者は皆これに従う。例えば、お祝いの言葉を述べる、歌や踊りを行う、拍手をする、何かを捧げる、沈黙する等である。ここには明示ないし黙示のコミュニケーションが存することは明らかである。ここでは、儀礼におけるコミュニケーションの構造を把握し、「お迎えセレモニー」においてはどのようなコミュニケーションが図られているのかを分析する。 
  タムバイアは、儀礼を「文化的に体系化された象徴的コミュニケーション」と定義づけたが(13)、この「象徴的コミュニケーション」とは何か、ハンデルマンは以下のとおり考察する(14)。 
 儀礼は一般的に非日常的な行為ではあるが、現実の世界は聖と俗、日常と非日常のような単純な対立構造ではなく、多次元的である。そして、儀礼の対立項となるのは「遊び」であり、現実の世界は「儀礼」、「日常」、「遊び」の3つの要素から成り立っているという。
 そして、この3つの要素のうちの「儀礼」と「遊び」のコミュニケーション形態をフレーム(枠づけ)されたコミュニケーションとする。すなわち、「遊び」は「これは遊び(嘘)である」というメタ・メッセージに枠づけられたメタ・コミュニケーションと構成される。例えば、冗談で相手を抓ったり叩いたりするのは本人と相手方との間に「これは遊びである」という共通認識があることで成り立つ。この認識のない偶々道ですれ違った他人を叩けばこれははっきりとした敵対行為であろう。
 他方、「儀礼」のコミュニケーション形態は「遊び」とは逆に、「これは神聖なものであり、真実である」というメタ・メッセージに枠づけられたメタ・コミュニケーションと構成される。例えば、悪魔祓いや人形に生命を与える等の象徴的なパフォーマンスもこのような真実と見做す枠づけがあるからこそ成り立つ。
 そして、この二つのコミュニケーション、「儀礼」(真実)と「遊び」(嘘)は互いに対立しながらも相補的に機能し、日常を実効あらしめる社会秩序を批判する、いわば、既存の構造に対する「反構造」の性質を有している。すなわち、日常にも大小あらゆる真実と嘘が複雑に入り混じっており、その秩序は両義的で曖昧なものである。この嘘と真実の中間にあるような社会秩序の不確実性に対して対極にある「儀礼」と「遊び」が刺激を与え、構造に緊張状態をもたらす。その反省作用が両概念の機能なのである。
 以上、「儀礼」におけるコミュニケーションの形態について触れてきたが、「お迎えセレモニー」ではいかなるコミュニケーションが生成されているのであろうか。「お迎えセレモニー」には冠婚葬祭や入学、卒業式、成人式などわが国の一般的な儀礼とは異なる特徴がある。言うまでもなくそこに人形が「いる」ことである。
 人形は呪術の手段等、「人」が行い得ないことを「人」の代わりに行い、歴史的文化的に我々の関心の対象となってきた。その目的は多様であり、「菊人形」に「生き人形」、「人形浄瑠璃」、米が日本の食文化の根幹であるように、人形も日本人の生活と共にあった。昨今では、愛玩用としての人形も誕生し(15)、「お迎えセレモニー」も愛玩用としての人形(SD)を対象とするものである。
 供物のように儀礼の目的達成手段として何らかの道具が用いられることは別段珍しくはないが、「お迎えセレモニー」における人形は手段としては用いられない。オーナーによって生命が与えられるという儀礼の主体であり、その存在自体が目的の対象となっている。つまり、本来「人」に対して行うような儀礼を人形が担っていることを意味している。
 人形は字義通り「人」の「形」をした有体物である。無論、人間そのものではない。他方で、人ではないが人に似せて製作される以上、姿態や人為的動作やポージングに「人」のイメージが重なる。作られた人形が人間に近いほどそのイメージは強くなるだろう。そのため、人が人形を扱うとき、程度の差こそあれ人に近い存在であることを意識せざるを得ない。
 このことから言えることは、「お迎えセレモニー」には人形が道具としてではなくその目的主体として存在するという特殊性のために、「人『遊び』」というメタ・メッセージが内在しているということである。参加者には「これは聖なるものであり、真実である」というメタ・メッセージの下で「儀礼」と認識しつつも、どこかで「遊び」(嘘)ではないだろうかという疑義が不可避的に生じている。「お迎えセレモニー」の場では、「人」の儀礼のパロディのような疑似的な「儀礼」が行われ、参加者に「儀礼」で「遊んで」いるかのような不思議な感覚をもたらすのである。真面目な気持ちで参加していてもどこか気恥ずかしさを覚えるのはこのような二重のメタ・メッセージのためである。
 そもそも、「お迎えセレモニー」はSDをフルチョイスした顧客が受ける企業(ボークス社)の一サービスであり、営業ないし消費活動という「聖性」とは無縁な世俗的性質を有している。このことからも「お迎えセレモニー」には原始的に「遊びである」という黙示のメタ・メッセージが秘められているという理解も可能であろう。
 他方で、これを体験した身として、司会者をはじめとするボークス社スタッフの方々は真剣そのものであり、とても「遊び」とは思えぬ厳粛な雰囲気であったのも事実である(16)。ドールとの絆が深まったと感じるオーナーをはじめ、感極まって泣きそうになった参加者など顕著な内心的効果を得る者も多く存在する。これらは間違いなく「聖なるもので真実である」というメタ・メッセージに枠づけられたメタ・コミュニケーションが成立していることに外ならない。
 「儀礼」と「遊び」は社会秩序の中で密接に関連しあい、両者が相互に間歇的に突出する不安定な性格を有する。このような性格から青木は、「儀礼の遊び化」も「遊びの儀礼化」も日常生活においてしばしば起こりうることであると指摘する(17)。この本来的な両者の性格に、「お迎えセレモニー」のコミュニケーションではこの不安定さがさらに顕著になる。両義性のあるドールの存在が儀礼の主体となる「お迎えセレモニー」では「遊び」(嘘)のメタ・メッセージが原始的に内在化されている。そのため、両者が同時にかつ並列しながら作用する極めて特殊な関係性が認められる。この関係はいわば、「儀礼の遊び化」や「遊びの儀礼化」のような事態が本来的に予定されていると言えよう。
 「儀礼」とその対立項である「遊び」。「お迎えセレモニー」は両方の性質を併せもつ特殊な行事である。人形それ自体に内在している両義性、二律背反性、虚実皮膜の位相が「お迎えセレモニー」にもそのまま表象されるのである。

4、リミナリティとコミュニタス
 

 ここまでは「お迎えセレモニー」のコミュニケーション形態について触れてきた。ここからは儀礼の主たる特徴としての「リミナリティ」と「コミュニタス」という二つの重要な徴表が「お迎えセレモニー」にも見られるかを検討し、「お迎えセレモニー」における「儀礼」性を考察したい。
 ファン・へネップは、社会的アイデンティティの承認としての「通過儀礼」の概念を創出したが、社会的アイデンティティの承認のみならず、他のあらゆる儀礼にその構造が妥当すると指摘した(18)。この概念の体系的整理を行ったのがターナーである。
 ターナーによれば一つの儀礼には分離・過渡・統合の3つの時間的段階があり、世俗的な分離過程から「聖性」を獲得するまでの過渡段階で生じる「聖」と「俗」の中間的で曖昧又は逸脱した特殊な「境界」状態を「リミナリティ(liminarity)と呼んだ。そして、リミナリティ状態では、儀礼参加者間で社会的地位や役割等の社会構造とは無関係な平等で均質的な共同体、すなわち「コミュニタス」(communitus)が生じるという(19)。前述のとおり、このコミュニタスは既存の社会秩序に刺激を与え、緊張をもたらす批判作用を持ったいわば「反構造」の連帯様式である。
 リーチもまた時間論として儀礼を捉え、厳粛的雰囲気から完全な非日常である「聖」へと至り、また世俗的な日常へ戻っていく過程で「乱痴気騒ぎ」が行われ、完全な日常=「俗」へ還元されたとき、「聖」と「俗」の「役割変換」が認められるとする(20)。①厳粛性、②乱痴気、③役割変換がリーチの分析の特徴であるところ、例えば、日本の結婚式や成人式の場合、①厳粛な雰囲気の下で挨拶や誓い、または沈黙等の儀礼的言葉や行動があり、②披露宴など徐々に乱痴気的雰囲気へ移行する。③その後の友人たちとの乱痴気騒ぎは当初の厳粛性とは対照的な役割転換が認められる。リオのカーニバルなどは極端な場合として有名である。このリーチの特徴は「お迎えセレモニー」にも見られる。
 ①前記のとおり、ボークス社スタッフの方々はいずれも真剣そのもので「お迎えセレモニー」に臨んでいる。参加者も茶化したり、冷やかしたりせず、儀式の規律である沈黙を守っている。また、空間的にも世俗的日常とは隔絶されており、「降臨台」や蝋燭に灯された火など象徴的である点も述べた。いずれも日常を離れ、厳粛性を保つための所為である。
 ②オーナーが蝋燭の火を吹き消した後、セレモニーは終焉へと向かってゆく。厳粛な雰囲気から一転、乱痴気雰囲気の下、参加者から祝福の拍手がなされ、オーナーがドールを抱っこした姿をスタッフの方が写真に収めてくれる。参加者に笑顔も見られる。
 ③また、披露宴などに見てとれるように飲食は極めて日常的かつ世俗的な行為であり、乱痴気騒ぎに親和的であるため、飲食スペースは厳粛さとは対照的な役割転換の発露の場として機能する。天使の里には紅茶やケーキを楽しめるカフェスペースが存在し、お迎えしたばかりのドールとゆったりと濃密な時間を共有できる空間が常設されているのも偶然ではあるまい。
 また、青木は「リミナリティ」は聖と俗のみならず生と死などの超自然的な対立項も象徴されるという。生と死のような対概念でも循環するという点では一つの記号として統合されていると指摘する(21)。
 「お迎えセレモニー」に使用されるスペースは扉が閉鎖され、一旦開始されると終了するまで出入りができない。ドールに命を吹き込むという超自然的な「聖」と日常的な外の世界である「俗」が空間的に完全に分離されるのである。ドールに命が吹き込まれるシーンが近づくと「降臨台」以外の照明が消される。降臨台が「明」で、その場以外は「暗」。「明」は「聖」や「生」に対応し、「暗」は「俗」や「死」に対応するという解釈も可能であろう。そして、生命が降臨する場である「降臨台」に備えられた蝋燭に灯された火を吹き消す行為は「生」を与える行為であり、象徴である。他方、行為の前のドールはヴェールに覆われており、オーナーとの対面も叶わない、いわば「死」が象徴されていると評価できるだろう。
 次に、「コミュニタス」についてみてみよう。「コミュニタス」は、前述のとおり反構造的で反省作用を促すリミナリティ状態から派生する共同体であるから、その内部では社会的役割が否定され、必然的に均質及び平等化された集団となる。そのため、個々人が無個性であり、規律に対しても服従的な存在となるのが特徴である。「リミナリティ」と「コミュニタス」という儀礼の構造は宗教的儀礼のような典型的な儀礼だけでなく、若者のサブカルチャー等あらゆる社会で広く認められる(22)。
 「お迎えセレモニー」は時間にすると15分~20分と短く、また、人数もスタッフ数名とオーナー及び偶然居合わせた参列者である。このような短時間かつ小規模な儀礼の場であっても「コミュニタス」は生成されるのであろうか。
 「お迎えセレモニー」では、当然ドールを中心とした進行するわけであるが、セレモニー中はドールが座っている「降臨台」のみ照明が灯されており、参加者は暗闇で見えにくい状態となっている。参加者の容姿、年齢、性別等の社会的属性が隠され、一人々々が無個性な存在として表れる。また、個性が強く表れる名前についても、呼ばれるのはセレモニーの主役とも言えるドールのみである。オーナーの名前も呼ばれるが、殆どがSNS等のアカウント名であり、実名ほど個性が表出されない。このような脱個性的な参加者は、祝福の言葉や沈黙などセレモニーの規律に従い、行動する。ここには、均質かつ平等化された集団の様相がみられる。
 さらに、参加者が拍手で祝福するという行動様式は参加者の間に一体感や連帯意識が生じやすい。実質的にも参加者の中にはセレモニーに感動を覚える者も多く、一体感や連帯意識が生まれている。たとえ僅かな間であったとしても、同じドール愛好家としての「コミュニタス」に対応する構造が認められよう。
 ドールとオーナーとの関係に着目すると、ドールは人でないため「コミュニタス」の対象とはなりえないが、セレモニーにより「生命」が与えられ、「人」とみなされるドールとそのオーナーとの間には疑似的なコミュニタスないしはコミュニタスのパロディと言えるような状態が生じている。セレモニーによって「二人の絆が深まった」のである。
 以上、「お迎えセレモニー」にも「リミナリティ」状態と「コミュニタス」的傾向が見られることが分かった。しかし、最初に述べたように真剣で行うのがどこか気恥ずかしいのである。儀礼は「真実である」というメタ・メッセージに枠づけられている必要があるが、前述のとおり、「お迎えセレモニー」にはドールの実存的主体性によって「嘘である」というメタ・メッセージが常につきまとう。二つのメタ・メッセージの狭間で揺れ動く不安定さを持っている点に他の儀礼との相違が認められる。

5、おわりに
 

 最後に「お迎えセレモニー」を体験した身としてセレモニーの意義について総括したい。
 形式的かつ厳粛な「儀礼」は持続に困難を伴うため一時的である必要がある。日常生活に儀礼が多く占めることとなれば皆疲弊してしまうだろう。青木は、「儀礼を遊び的」に行うことによりこのような「儀礼の“圧迫”」から解放され、社会秩序が活性化されることの可能性を指摘する(23)。
 「お迎えセレモニー」は儀礼でありながら、遊び(嘘)のメタ・メッセージにより遊び化しやすいイベントである。もともと人形による「遊び」の性質を持っているため、心理的負担が少なく、気軽に行えるメリットがある。
 さらに、これを聖なるものとしてあえて真剣に行うことで非日常的空間を作出し、平凡で飽きやすい日常を刺激する。「いい歳した大人がなぜ真剣に行うのか?」という疑問の答えの一つがここに見出されるだろう。中にはセレモニーに興味があっても気恥ずかしさから躊躇するオーナーもいるだろう。当然の反応である。しかし、「お迎えセレモニー」は気恥ずかしさも含めて楽しむイベントなのだろう。これこそが「儀礼の“圧迫”」からの解放に繋がるのであり、一部のドール愛好家の好奇心を刺激して止まないのである。
 人形は呪術の手段等人が通常行い得ない事柄を人の代わりに行い、歴史的文化的に我々の関心の対象となってきた。人形がわが国の宗教観と相まって儀礼と結びつくのは必然であったのかもしれない。ところが、愛玩用の人形の誕生により人の代わりではなく人形それ自体が目的となり、別の価値を見出すことが可能となった。
 祈祷などに見られる呪術用の人形は村のような組織的な共同体の構成員による総有的な所有形態が典型であるが、これとは異なり、愛玩用の人形は個々人が1体ないし複数体所有する形態が多い。必然的に人形も多数必要となるわけであるが、この需要を可能にしたのが企業による生産である。これにより、かつては「儀礼」に用いられてきた人形が「遊び」に用いられるという転換が起きたのである。特に、DDのような愛玩用の人形の爆発的な増加は人形が「消費」の対象になった瞬間でもあるだろう。
 消費は極めて日常的な行為であり、資本主義経済の下で絶えず日常に侵食してきている。「お迎えセレモニー」は人形に生命を与え、「人」と見做す儀礼である。「人」を「買う」とは言わないから「お迎え」。気恥ずかしさを覚えつつも「いい歳した大人」が真面目にこのような儀礼を行うのはドールという隙間産業にまで浸食しようとする「消費」(買う)からの抵抗なのかもしれない。
 ドールの世界は広大かつ深遠であり、言語の力でこれを語るには困難を極めるが、たとえわずかであっても本論を読まれた方が「お迎えセレモニー」に興味を持っていただけるのであれば望外の喜びである。また、これによりドールそのものの魅力を知ってもらう一助となれば本論の目的は達成されたこととなる。
 ドールの存在は退屈な日常に刺激を与えてくれる貴重な存在であり、我々愛好家はドールの魅力の虜である。ドールオーナーは皆こう言う。ーーーーーー「ドールはいいぞ」。


脚注


(1)ドールオーナーを長く続けているとこれまで関心のなかった種類のドールに興味を持ちはじめ、その興味の範囲が拡大してゆくことはよくあることである。
(2)DD及びSDについては画像参照。男性のSDオーナーも一定の割合で存在し、このことは何ら不自然ではない。女性のDDオーナーもまた然り。あくまで比率が高いというに過ぎない。
(3)ボークス公式サイト参照。
https://www.superdollfie.net/hajimete/sdtype/
(4)このドールには「紗耶」と名付けた。完全に余談だが、名前の由来を記しておくと「紗」は「薄い絹織物」という意味があり、「絹織物」
はしなやかで強く美しい光沢を放つ。のみならず繊細さも併せ持ち、「優しさ」や「儚さ」も表像される。また、かなり飛躍だがシルクロードの「雄大さ」も連想できる。「耶」については、キリストを表す「耶蘇」(イエス)や、仏陀の母マーラーを表す「摩耶」などそれぞれの宗教で重要な人物に使われている字であり、聖性や慈悲深さが表象される。なお、日本では「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」が有名である。以上が名前の由来である。
(5)天使の里公式サイト参照。
https://dollfie.volks.co.jp/shop/tenshinosato/blog/002222.html
(6)画像参照。
(7)ドールアドバイザーと呼ばれる。ボディの種類やヘッドの形状その他ドールに関する一切のカウンセリングを行う。オーダー時からセレモ
ニー完了時まで個人に一人このような担当者を就けてもらえる。
(8)オーナーとドールの名前が呼ばれるので儀式の前に決めておかなければならない。
(9)最初から目が描かれている所謂「描き目」のドールも存在する。メーカーによって違いがあることに留意されたい。
(10)三省堂 大辞林(第三版)。
(11)エミール・デュルケーム「宗教生活の原初形態(上)」古野清人訳 岩波書店 2001 72頁。訳 岩波書店 2001 72頁。
(12)画像の「式次第」参照。
(13)Tambiah,S.J.1985.Culture,Thought,and Social Action: An Anthropologial Perspective.Cambridge:Harvard University Press
(14)Handelman,Don “Play and ritual:complementary frames of metacommunication”,in It’s a Funny Things,Humour,Olxford,Pergamon Press 1977,pp.185-192
(15)哲学者の金森修は人形の概念的把握の手段として、呪術、愛玩、鑑賞の三頂点に物質性という共通項を一つの頂点とする人形三角錐を
考察している。(金森修「人形論」平凡社 2018 48頁。)
(16)服装は基本的に自由だが、私も厳粛な行動様式を示す礼服で参加した。
(17)青木保 「儀礼の象徴性」 岩波書店 2006 78頁。
(18)アルノルト・ファン・へネップ 「通過儀礼」綾部恒雄・裕子訳、弘文堂 1977 160頁。
(19)V.W.ターナー 「儀礼の過程」富倉光雄訳 新思索社 1981 318頁。
(20)エドマンド・リーチ「文化とコミュニケーション」青木保・宮坂敬造訳 紀伊國屋書店 1991 159頁。
(21)青木 前掲書 285頁。
(22)厳しい環境の下で共に過ごす修行僧など典型的なケースだけでなく、大統領の就任演説や「2ちゃんねる」(当時)のような匿名掲示板での大規模OFF会においても「コミュニタス」傾向が認められるのは大変興味深い。
大統領の就任演説につき、松本啓子『コミュニケーションにおける儀礼的諸相の再考察ー「連帯」と「聖なるもの」をめぐってー」』「言語文化」1212 同志社大学言語文化学会 2009 345頁~。
「2ちゃんねる」の大規模OFF会につき、伊藤昌亮『ネットに媒介される儀礼的パフォーマンス―2ちゃんねる・吉野家祭りをめぐるメディア人類学的研究』 マス・コミュニケーション研究No.66 2005 91頁~。
また、「お迎えセレモニー」には認められないが、歌と踊りもコミュニタスに親和的である。本論とは無関係のため詳述はしないが、私見では、アイドルのライブパフォーマンスにもリミナリティが表出し、そこからアイドルファンとの間にコミュニタス的関係が認められる。
(23)青木 前掲書 80頁。










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