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おじさんのドール趣味は「いき」な趣味?

1、はじめに

 11月21日から23日までの連休及び19、20両日に有給を取得し、GOTOトラベルを利用して岩手県を一人で旅してきた。否、私とドールの「紗耶ちゃん」(SD)との「二人」旅である。当時仕事もそれほど多忙ではなかったことに加え、来年2月には東京から大阪又は名古屋へ異動になる予定で、東京にいる今しかないと考えたからである。
 確かに、感染者の巣窟のような東京都内の人間が遠出してよいものか躊躇したが、実際に行ってみると5日間で「密」になるような状況は皆無であった。しかも、私に接してくれた岩手の人々は私が都内から来ていることを知悉していても(1)何ら嫌悪することなく親切極まりない態度で接してくれた。結果的にコロナの影響は全く感じないほどの頗る快適な旅であった。
 さて、旅行の日程であるが18日に仕事を終えるとその足で東京駅から新幹線で岩手へ向かい、その日は一ノ関のビジネスホテルに宿泊した。翌日は早く起き、中尊寺を回った外、毛越寺や厳美渓、達谷窟毘沙門堂などを堪能し、旅行2日目となる翌々日は花巻を観光することとした。
 花巻といえば、宮澤賢治所縁の土地であるが、彼について私は熱心なファンと言うわけでもない。また、お恥ずかしい話だが作品についても殆ど読んだことはなく、せいぜい小学生の頃に読んだ「注文の多い料理店」と中学生の時分であったか国語の教科書か何かに載っていた「雨ニモ負ケズ」を知っている程度である。
 ところが、宮沢賢治記念館やイーハトーブ館等の各施設を巡っていると、ふと哲学者である九鬼周造の著書、「いきの構造」(2)を思い出した。江戸時代から伝わる我が国特有の「いき」(粋)の文化の構造を明らかにしようとした九鬼と宮沢賢治の生き方が脳内でリンクした瞬間であった。どういうことか、以下詳述する。

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↑SD紗耶ちゃん。花巻市の瀟洒なカフェ「茶寮かだん」様にて宮澤賢治の好物、三ツ矢サイダーを頂いた。(創作造形©ボークス・造形村)

2、「いき」とは何か
 

 九鬼周造は、その著書「いきの構造」の中で、「いき」(粋)と呼ばれる現象には ①「媚態」、②「意気地」、③「諦め」という3点が徴表されるという。
 ①「媚態」とは、「いきごと」が「いろごと」を指すことからも分かるように異性との性愛に関することである。九鬼は媚態を「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」と難解な定義づけを行っているが、これは異性との一体化、統合、支配は適わないが、かといって一切の関係性が断絶されるわけではない、いわば付かず離れずの絶妙な精神的距離を維持し続ける緊張関係を指すということだろう(3)。
 ②「意気地」とは、「武士は食わねど高楊枝」という自身の気位を保つための武士道の道徳的理想主義から承継されている気概である。媚態との関係で言えば、惚れた異性の前で恰好をつけるためにはどんな苦労があってもそれを見せず、やせ我慢をするということになるであろうか。
 ③「諦め」とは、ここでは仏教の世界観・人生観を背景とする執着しない解脱した態度、運命に対する無関心を指す。九鬼の言葉を借りれば「世知辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜けした心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心」(4)である。具体的には、「婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて『いき』の真相を把握」し得るのである。

3、「いき」とルパン三世

 「いき」と聞いて私がすぐに連想するのは「ルパン三世」である。特に最高傑作との呼び声高い「カリオストロの城」に最も顕著に表れているように思われる。中盤のあたりであろうか、ルパン三世が単独で幽閉されている物語のヒロインであるクラリスを訪ねるシーンがある。「この泥棒めにどうか盗まれてやって欲しい(助ける)」旨を告げ、今はこれが精一杯と手品で一輪の花を渡す。クラリスのそれまでの不安と恐怖の表情が晴れた瞬間でもあり、ルパンはこのためだけに命がけで厳重な警備を突破したのである。この命をも賭けたやせ我慢が感動するほどカッコいい。ラストシーンでは、クラリスの方から一緒に連れて行ってほしいと接吻を求めてくる。アニメに出てくるような(実際アニメなのだが)理想の美少女に惚れられるのである。男子として生まれてこれほど男冥利に尽きることがあるだろうか。ルパンも思わずその体を抱きしめそうになるが、「クラリス・・・バカなこと言うんじゃないよ。また闇の中に戻りたいのか? やっとお日様の下に出られたんじゃないか。お前さんの人生はこれから始まるんだぜ。オレのように、薄汚れちゃいけないんだよ。」と優しく告げ、立ち去る。これもまた最高のやせ我慢のシーンである。 
 ルパンのような泥棒稼業は常に命の危険がつきまとう。いつ野垂れ死にしてもおかしくはない。この稼業は確かに自分で選択したものであるかもしれないが、いずれにせよ自分にはこのような生き方しかできない、今さら他の選択など不可能である、こんな自分がどうして純粋な堅気の少女と添い遂げることができよう……自分の稼業を「闇の中」と表現していることからも分かるように、こうしたルパンの生き方にはどこか運命や人生に対する諦めと悲哀がある(5)。

4、「野暮」と宮澤賢治

 ルパン三世の生き方、人生観は「いき」であることを述べた。他方で、このような「いき」という言葉の対義語に「野暮」という言葉がある。普段我々は「いき」は積極的評価、「野暮」は消極的評価として使用しているが、九鬼によるとそう単純な問題ではないようである。以下、「いきの構造」より(6)。

「私は野暮です」というときには、多くの場合野暮であることに対する自負が言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を経ていないことに関する誇りが主張されている。そこには自負に価する何らかのものが存している。「いき」を好むか、野暮を択ぶかは趣味の相違である。

 花巻にて宮沢賢治に触れたとき、九鬼の言うようにあえて「野暮」を自負する場合のあることを思い出した。かの有名な「雨ニモ負ケズ」の全文を掲載しよう(7)。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 一読して分かるが、この詩には媚態に関する表現は一切登場しない。それどころか、無欲で、ただひたすら人が好く、デクノボーと呼ばれ、普段から皆に軽んじられているような人間が描かれている。「いき」とは対極になる「野暮」な人間像である。
 そして、その「野暮」な人間に「ナリタイ」と、この詩は言う。この「野暮」に対する誇りを支えるものは何であろうか。それは、純朴な農夫への憧れと経済的に安定した教師の職を辞し、救貧のために農業に従事することに人生を捧げる決意である。九鬼の言う「自負に値する何等かのもの」なのであろう。

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(創作造形©ボークス・造形村)

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↑「茶寮かだん」様の庭には宮澤賢治が設計した花壇があるが、この日は生憎大雨で拝見することが叶わなかった。雨ニモマケ、風ニモマケてしまったが、「こんな大雨ですから止むまでゆっくりしていって下さいね」と優しいご主人。お言葉に甘えて抹茶を頂きながら雨が止むのを待つ。(創作造形©ボークス・造形村)

5、ドールおじさんのドール趣味

 宮沢賢治は野暮を誇っていたという一定の結論が出たところでさらに考えを巡らせてみると、ドールおじさん(ドールを所有しているおじさん)のドール趣味についてはどうだろうと疑問が生じる。ドール趣味とは、ここではひとまずドールのアイ(瞳)やウィッグ、コーデを考える、写真を撮る、ひたすら眺めてニヤニヤする等々大抵のドールオーナーが普段から行っていることに限定して検討してみよう。「いき」(粋)という概念が①媚態、②意気地、③諦念を要素とすることは既に述べたが、ドールおじさんのドール趣味は「いき」な趣味であろうか、それとも「野暮」であろうか。
 ドールおじさんの①理想の美少女を創造しようとする試みは媚態に関するものといえよう。また、②決して安いとはいえない諸費用(ドール本体、衣装、ウィッグ、アイ、カメラ、レンズその他撮影機材等)にも耐えうるやせ我慢はその理想を完遂せしめんとする意気地でもあるだろう。③しかもどれだけ努力してもドールと添い遂げることは原始的不能であり、ドールオーナーは皆そのことを知っている。
 このようにドールおじさんのドール趣味を「いき」と解釈することは不可能ではない。しかし、そこで対象となっているのは人間の異性ではなくドールである。一般常識に照らして人間とドールを同列に扱い論じることにはやはり無理がある。九鬼も「いき」を考察する上で人間以外の存在を対象とすることはよもや想定していなかったであろう。
 とすると、各論として例えば「粋なドール写真と野暮なドール写真」等が観念できるとしても(8)総論としてドールおじさんのドール趣味は「いき」というよりもむしろ「野暮」と捉えるのが通常であろう。
 しかし、私はたとえ僅かであってもドールおじさんのドール趣味は「いき」であると主張したい。昨今、ドール趣味も一定の社会的理解は得られているように思われるが、わが国では昔から人形は少女が持つイメージがあり、現在においてもそのイメージは根強い。このことから、ドール趣味もおじさんが主体だといまだに特殊な趣味として常識から外れていると考える者も少なくない。中には「気持ちが悪い」と偏見を持たれ、心無い言葉を浴びせられた経験を持つオーナーもいるだろう。そこまでいかなくとも、コスプレほど社会的に認知されていないドール趣味では撮影中、ふと気づいたら背後から不特定多数人にガン見されていたという報告は枚挙に暇がない。
 こうしたドール趣味を取り巻く状況にも拘らず、ドールおじさん達はTwitterなどのSNSの場において、オーナー同士で本来不快な体験を自虐ネタとして笑い飛ばす気概を持っている。そこにはドールおじさん達の達観したような諦めの境地があり、どこか哀愁を感じさせる。これこそ九鬼の言う「世知辛い、つれない浮世の洗錬を経てすっきりと垢抜けした心、現実の対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない括淡無碍の心」ではないだろうか。

6、おわりに

 ルパン三世は「いき」で宮沢賢治は「野暮」、しかも誇りを持って自らこれを選択した「野暮」である。ドールおじさんのドール趣味は「いき」か「野暮」か、読者諸賢は如何に考えるであろうか?

脚注

(1)大抵の場合、アンケート用紙にどこから来たのか記入を要求される。
(2)九鬼周造 「いきの構造」 岩波書店 昭和5年11月20。
(3)媚態に関することに同性同士の関係など含まれるかも考察の対象となるが、この点九鬼自身に何も言及がないためここでもあえて触れない。
(4)九鬼前掲P27。なお、異体字、変体仮名、くずし字については現代仮名遣いに訂正した。以下の引用も同様とする。
(5)なお、私は「いき」なルパンと共にする仲間、次元や五右衛門もまた「いき」であると考える。ルパンと行動を共にしているのも単に業務上の理由のみならずルパンのそうした姿に惚れ込んでいるからであろう。また、詳述しないが峰不二子や銭形警部の脇役も「いき」な人物として描かれているように思われる。
(6)九鬼前掲P48。
(7)宮澤賢治 「雨ニモマケズ」 青空文庫 Kindle版。
(8)この点については別稿で述べたい。





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