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『不自由な脳』、あるいはことばの動機について

鈴木大介と山口加代子の対談本、『不自由な脳 高次脳機能障害当事者に必要な支援』(金剛出版)を読んだ。鈴木さんはルポライターで高次脳機能障害の当事者。山口さんは臨床心理士などをされている支援職の方。

「障害者」にかぎらず、これまで出会った人のこと、あるいは過去の自分が陥ったことを思い出しながら共感的に読み終える。脳の機能はグラデーションのなかで絶えずゆらぐものだと思う。ちょっとしたバグなら日常茶飯事だろう。

先日、冷蔵庫にお皿をしまいそうになった。食器棚ではなく。こういうことがあると「疲れてるんだな」と感じる。お風呂に入浴剤とまちがえてインスタントのお味噌汁を入れそうになった、という話も聞いたことがある。頭ん中は油断するとすぐまぜこぜになってしまう。酔っ払った帰りに他人の靴を穿いてきてしまった、なんてのもよくある話。

ただ、こうした一般化は慎重にしたい。障害は「ちょっとしたバグ」では済まないのだから。鈴木さんはこう話す。

例えばちょっとしたケアレスミスや注意のミス、物忘れなどは認知的な多忙状態にある人や強いストレスがかかっている人はみんな起きる状態なので、「鈴木さん、それ私もたまにそうなりますよ」と言われがちですよね。たまにあるのは知っています。でも当事者にはそれが二十四時間ずっと頻発し続けるから、苦しいんですという。p.139

「ちょっと」どころではなく、ミスが常態化する。そこが「障害」とカテゴライズされるゆえんでもある。「私もたまにそうなりますよ」といった一般化は共感的なようで、じつは「健常」という立場を堅持した物言いになっている。「ぜんぜんそんなのふつうだよ~」みたいな。

「ふつう」ということばは包摂的であり、そのぶん排他的でもある。慰撫にも攻撃にもなりうる。どんなときも「ふつう」に類することを言う場合は、まず相手の「ふつう」を想像したい。矛盾しているようだけれど、千差万別の「ふつう」がある。わたしは包摂される側ではなく、つねに排される側から「ふつう」を見てしまう。へそ曲がりな癖がある。輪の中にいない、マイノリティとしての自意識が強いんだろうなと思う。

鈴木さんは「みんなに共通することがものすごく強く出るのが、高次脳機能障害なんですよね(p.173)」と語る。症状は健常者にも共通する部分があるんだけど、「ものすごく強く出る」。頻度・強度がぜんぜんちがう。一般化するときは、そこに注意を払わないといけない。

その上で。程度はちがうけれど、「みんなに共通する」。ということは、誰もが知っておいてよい身体上の出来事なのだと思う。脳はバグりやすい器官ではないかしら。鈴木さんいわく、高次脳機能障害の症状は「脳の不具合のデパートのような感じ」だという。

 あとは高次脳機能障害の症状、特に僕らのような軽度の人間が社会活動の中で起こすような不具合は、脳の不具合のデパートのような感じなんですね。僕らをサンプルにして、心理職さんは、発達障害や認知症や精神疾患や、いろいろ脳に不具合が起きている人には同じようなことが起きているのではないかと、想定してほしいと思います。うつの人もパニックの人も適応の人も、みんな僕らと同じように話しづらさがあるし。p.171

読みながらわたしが思い出していたのは、祖母のようすだった。高次脳機能障害の症状のひとつに、感情のあふれ出しやすさがあるという。かつて同居していた父方の祖母にも、ある時から感情的な波の激しさがあらわれた。おそらく似たような脳機能の変容を呈していたのだと推察する。もともとは穏やかな人だった。

わたし自身も疲れ切っていたとき、公園で遊んでいる幼いこどもたちを眺めながら落涙していたことがある。本のなかで山口加代子さんも同じようなご経験を語っておられた。健常とされる人にも、状況によっては共通する。

余談ながら、自分は弱いもの全般に感情移入しやすい傾向がある。横文字でいうとfragility,vulnerabilityに弱い。弱さに弱いというか……。「儚さ」みたいなもんの訴求に流されやすい。他方で、ヒップホップのセルフ・ボーストや漫画『グラップラー刃牙』などの強さを誇る文化も好む。真逆だけど、自分の中でこれらは地続き。強さと弱さは表裏一体だと思う。

ともあれ、感情は誰にも共通の「コントロールしがたいもの」ではないだろうか。それが高頻度で「ものすごく強く出る」という苦心は測り知れない。鈴木さんはその感情について、こんな興味深い分析をしている。

凝視したものから視線を離せない感覚と、心の中で凝視してしまった感情から注意を引きはがせない感覚は、とても似ているんです。視線や思考を接着剤でくっつけられてしまったような、やはり病前には経験したことのない異様な不自由感でした。p.82

視線の硬直と、思考の硬直がリンクする感覚。これもおそらく、程度はちがえど多くの人に共通するんじゃないか。眼球運動と脳の情報処理は密接に関係している。と、わたしは考える。

すぐに思い出すのは、睡眠時のREM(Rapid Eye Movement)だ。寝ているとき、コンスタントに眼球がギュルギュル動く。レム睡眠といわれる時間。そうやってなんか記憶を勝手に処理してくれているのだろう。しらんけど。

あるいは、トラウマ治療の技法にEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing)というものがある。眼球運動による脱感作と再処理法。一行で雑に説明すると、トラウマ的な記憶を想起しながら眼球を素早く左右に動かす治療法(詳しくはお調べいただきたい)。これも眼球運動と脳の情報処理を紐付ける技法といえる。

個人的な体感では、散歩も眼球運動が促進される。ブラブラ歩くと、なんとなく頭がすっきりするのはそのせいではなかろうか……。これは仮説。もちろん全身運動による効能もあるだろう。日々の散歩に救われる自分がいる。

精神的に弱っていると、無駄にスマホから目が離せなくなったり、一点を見つめてぼーっとしたりしてしまう。視線の硬直と思考の硬直はとても似ていると、わたしも思う。

鈴木さんは「雲を見る」という対処法も語っておられる。しんどいときは、雲の流れをじーっと観察する。これも視覚が関係している。コチコチに固まった視線を雲の速度で、すこしずつ引き剥がすような方法だろうか。遠くを見ることもよいのかもしれない。都会に住んでいると、ついつい近視眼的になりがちだから。わたしも「雲を見る」は実践している。しばし、雲のかたちを真に受けてみる。

脳と眼球の関係についてたびたび思い出すのは、解剖学者・三木成夫のことばだ。以前にも引用したけれど(日記782)、何回でも引こう。

 ところで眼球の3重の壁は、実はどれもが脳のつづきである。すなわち目玉というのは、脳の一部がブランデーの杯のように突出して鼻の両側のくぼみ(眼窩)に脂肪の座ぶとんをしいて顔をのぞかせ、外をながめているものと考えられる。

『生命形態学序説 ―根原形象とメタモルフォーゼ―』(うぶすな書院、p.166)より。この洒落た表現がまたいいんですね……。眼球は脳のつづき。脳そのものといっても大袈裟ではないのかも。脳から生えてる触覚みたいな感じかな。

「脳」といって多くの人が頭に浮かべるイメージ図に、眼球はふくまれていないと思う。目ン玉もふくめたほうがほんとうは正確なのだろう。眼球は脳の一部である。何を眼差すか、何に眼差されるか、目をいかに使っているか、あるいは使わずにいるか、できるだけ意識的でありたい。目のありようが思考を規定する、目のありように思考を規定される部分は、きっと大きい。

視線のこと以外にも、手がふさがっているときの認知的な負荷を鈴木さんは語る。手に何かを持つことの負荷。それはたしかにあるかも、と感じた。なかなか気がつかない観点だろう。日常的に留意しておくとよいかもしれない。両手がフリーだと、気持ち的にも余裕ができる。

あと引用したいのは、鈴木さんが「すごくわかってほしい」とおっしゃる話。これはわたしも身に覚えがあり、痛いほどわかる。

すごくわかってほしいと思うのが、環境さえ整っていればやれるはずなのに、やれないことにされちゃうことです。例えば三桁の掛け算10問を15分でやりなさいと言われたら、多分ほとんどの人ができるけれど、2分でやりなさいと言われたらできない。でもそれは掛け算がまるっきりできないのではなく、2分という環境ではできなくさせているだけですよね。それを、掛け算ができない人扱いされることの絶望感を、高次脳機能障害の当事者は日常的に感じているとわかってほしいんです。あらゆる人生のタスクについて、いきなり時間制限がドカーンと短くなるような感じ。病前普通にやれていたものを、いきなりすごく急いでやれと言われているような感じ。そして、できない人扱いされちゃう絶望をわかってほしい。p.147

わたしは会話の場面で「できない人扱い」される経験が多い。意見を言うべきところで異常に考え込んでしまい、沈黙が数秒つづくと「何も考えてない」とみなされたり「頭が悪い」とされたりする。いや、頭は悪いかもわからん。すくなくとも回転は遅い。でも、それなりにモノ考えとるヤツなんやで!という歯がゆい思いもある。アホの子でもええが。ノータイムでのやりとりが苦手なだけ。「速さ」には暴力的な面もある。

話すのは苦手だが、そのぶん時間をかけて深く思考できる人はたくさんいると思う。潜在的な知性のありようを見逃したくない。いうまでもなく、知性はひとつの軸では測れない。ことばのともなわない感覚的な知性もある。人は千差万別のユニークな理知(=ユニークな体)をもって、この世をサバイブしている。それぞれの環世界、といってもいい。あらゆるところに知性を見留める知性をもちたい。

こうした考え方は『不自由な脳』の「終わりに」で心理士の奥村茉莉子さんが書いていることともつながる。「その人」に出会うこと。ほかの誰でもない、「その人」の体がある。

あたりまえだけど「高次脳機能障害」「発達障害」「認知症」「統合失調症」「うつ病」などといったカテゴリーだけで「その人」は語れない。あるいは「男/女」でも、「健常/障害」でもいい。カテゴリー自体は「その人」ではない。わたしは男性であるが、「男性はわたし」とは言い切れない。ほかにもたくさんいるから。「男性」はわたしを構成する一部分であり、ひとつの手がかり。むろん、女性的な部分も持ち合わせている。

主語には、あくまで「その人」を据えたい。既成のカテゴリーを主語に据えた時点で、目が曇る。絶えず変化の途上にある「その人」を見失うと、コミュニケーションが硬直してしまう。奥村さんは、こう述べている。

すべての支援がそうであるが、当事者が感じていることを伝えてもらえる存在に支援者がなれるかどうか。鈴木氏はくりかえし「苦しい」と言える相手が、回復の伴走者になってほしいと言われる。支援者には、五感を動員して対象とかかわる在り方が求められる。

ヒトには他者と連続的な五感がそなわっている。他方で、言語は離散的な切り分けを旨とする。きちんと分け入る分析も重要だけれど、それにとらわれて連続的な見方を失念してはいけない。

……いや、どうだろう。うーん。じつは言語も潜在的には連続的(アナログ)なのかもしれない。見えない地下茎で、どこまでもつながっている。顕在的には離散的(デジタル)。

荒川洋治が『文芸時評という感想』(四月社)で述懐していた、田村隆一のエピソードを思い出した。

 四年前、ある公開審査の会場だった。二十代の聴衆を前に、審査などそっちのけ(?)で、田村さんは突然立ちあがり、こう語り出したのだ。
  「みなさん。一本の樹木の下には、数万トンの地下水が流れているのです」
 やさしい声だったが、会場は水を打ったように静まり返った。それはその場にいない人のもとにもひびきわたるような、すばらしい話だった。若い人たちははじめて詩人というものを目のあたりにしたはずである。ぼくもまた、そうだったかもしれない。
 見えるものと、見えないものへの同時的な視線。そこに立って、詩人は言葉への愛をつづった。  

 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう (「帰途」)

「見えるものと、見えないものへの同時的な視線」と、「五感を動員して対象とかかわる在り方」はわたしのなかで通じている。文学的な感受性と対人援助がひとりの根を介してつながる。荒川洋治が力強く宣するように、「文学は実学である」と実感する。

ことばはどちらかというと、見えないものを語るためにあるんではないかしら。見えるものから発しながら。見えないほうへ方向づけられている、というか……。ちょっとなにいってんのかわかんないな。

話が遠大になってしまった。さいご。「終わりに」から、鈴木さんのことばを引きたい。

 「理解者がいて助けてもらえると理解することで、脳のリソースを多く奪い情報処理を困難にしている『混乱と不安という思考』が消え去り、脳が限られたリソースを一気に必要な情報処理のみに回せるようになる、というような機序なのではないかと感じています。不安がどれほど人の脳を不自由にするのか、他者の理解がどれほどその不自由を緩和してくれるのか、この一冊を通して、心理職の皆様がケアの中心として立ち上がってくださいますことを切に望みます」

「不安がどれほど人の脳を不自由にするのか、他者の理解がどれほどその不自由を緩和してくれるのか」。これもまた「健常/障害」を問わず、広く当てはまる洞見だと思う。不安の預け先があるか否か。

自分の抱く不安を、自分が素通りしてしまうことさえ珍しくない。『不自由な脳』を読むと、鈴木さんの素通りしない姿勢に感銘を受ける。「素通りできない」部分も大いにあるのだろう。いずれにせよ「ただそれを眺めて立ち去る」ことなく、ことばを届けてくださる。その知見を紐解くことで、不安がやわらぐ人も多いと思う。

「どこかにわかってくれる人がいる」と思える安心感はあまり意識されないけれど、誰もが依拠している基本的な感覚ではなかろうか。それはきっと、人間がことばを発する原初的な動機でもある。



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