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映画『TENET テネット』劇場から外へ出るということ。

【映画館は闇に包まれてしまった。だが、決して映画がその価値を失うことはない。この危機を乗り越えた時、人々の集まりたいという想いや、ともに生き、愛し、笑い、泣きたいという願いは、かつてないほど強くなるだろう。映画館はそのすべてを、私たちにもたらしてくれる。だから、私たちには映画が必要なのだ。(クリストファー・ノーラン ワシントンポスト紙への寄稿文抜粋 2020年3月21日付)】

 『TENET テネット』は“わかりやすい”映画だ。それは「芸術は問いかけであり答えではない」という真実をハッキリ描いているから。優れた表現の中には、複雑な文脈を内包しながらもデザインはどこまでもシンプルで一見しただけでは(教養がなければ)その奥行きに気付けないタイプの作品もあるが『TENET テネット』はそうじゃない。ネットに解説や考察が溢れているように、誰の目にも“わかりにくい”ことが“わかりやすい”作品なのだ。

 解説や考察を読むまでもなく、まるで本のページをめくるように、観客は能動的にスクリーンを観ないといけない。なぜなら、登場人物が順行しているか、逆行しているかは(静止画ではなく)アクションの中でしか判断出来ない仕掛けだからだ。IMAXカメラでの撮影という文脈以前に、逆向きに歩く人間が目の前に飛び込んでくる映像の暴力には抗えない。「次はこのページを開いてください」と言わんばかりに、半ば強制的ともいえる形で画面への働きかけを余儀なくされる。COVID-19の影響で文化としての役目を終えようとしている映画館を救うために公開されたビッグバジェット映画が、ここまでハッキリと(親切と言っていいほど)「意味がわからない」のは2020年の空気をキャプチャーしているとも言える。

 『TENET テネット』の“わかりやすい”側面をさらに加速させているのが“決定論”を中心とした物語だ(※1)。たとえばーー『TENET テネット』を劇場で鑑賞したあなたは「鑑賞しない」という選択をすることは可能だったろうか?あなたの選択は明日の日の出の時間が正確にわかるように、宇宙の約束によってあらかじめ決められたもので、あなたは何回そのシーンに戻ったとしても「鑑賞する」という選択しかできないとしたらーー『TENET テネット』は「あらかじめ決められた勝利」を見届ける映画であり、登場人物たちは運命という脚本を信じて動く駒だ。観客も主人公と同じように何も知らないまま、ひたすら信じて身を委ねるしかない。ここにサスペンスはない。私たちが劇場の暗闇でやることはひとつだけ、現在に集中し続けることだ。

(※1)ちなみに弟のジョナサン・ノーランがショーランナーを務めているドラマシリーズ『ウエストワールド』(2016 - 2020年)も自由意思と決定論についての作品である。

 そのため、自ずと敵は「過去と未来に囚われている者」になる。セイターの契約主である未来人は気候変動で滅びゆく地球に耐えかね、過去への逆行を決意する。セイターも契約した時点で「現在にいること」を放棄した人物だ。彼の関心はまだ見たこともない未来だけで、そこから導かれる現在には虚無しか感じておらず、子供(未来の可能性)を設けたことさえも後悔している。本作における第三次世界大戦は「未来人との時間の奪い合い」だが、膨大な数の娯楽にアクセスできる私たちにとって、これは現代的なモチーフだ。部屋にいながら私たちの手の中には次から次へと新しい娯楽が飛び込み、あらゆる企業の元へ時間は奪われていくが、COVID-19初期の“慌ただしい沈黙”の中で、それは“救い”にもなったーー映画館でわざわざ映画を観る必要がどこにあるのだろうか?

 COVID-19以前から劇場に行くことは野蛮な行いだった。暗闇の中で大勢の人間がひとつの物語を共有し、スクリーンは世界中の人々を繋げ、大きな共同体が形成されていく。監督のクリストファー・ノーランはその共同体の野蛮さに意識的な作家だと言える。前作『ダンケルク』(2017年)に顕著だったが、実物の船や戦闘機をロングショットで撮れば映画になるという開き直りも、時間軸をシャッフルし著しくリズムが崩れる編集も、低音を強調した音楽の使い方も、すべてが暴力的で、そこにはショットとショットが繋がっていくような映画的快楽は希薄だ。それが良いか悪いかは置いといて、ノーランの映画にあるチャームは今回で言えば逆に歩く人間であり、実物のジャンボジェット機が突っ込むことであり、異常な映像が身も蓋もなく目の前に飛び込んでくることだーーえ、それって映画じゃなくない?ソーシャルメディア上でシェアされている事件映像とかと何が違うの?ーー『TENET テネット』がそれでも映画なのは、映画であろうとしているからであり、それを映画と信じる観客がいるからであり、この暴力が映画館にふさわしいからだ。

 劇場に行った時点で帰ることはすでに決定しているにも関わらず、劇場の暗闇はそのことを忘れさせ、私たちを目の前の“現在”に集中させる。そこでは時間の感覚も曖昧になり(映画館のスクリーンには不親切にもシークバーがない)、どうやらスマートフォンも触ってはいけないらしい。さらに劇場での映画体験はストリーミングサービスと違って、外の世界の存在をイヤでも意識させる。大勢の人々が同じ方向を見て座り、スクリーンの光が私たちの野蛮さを映し出すーー劇場での映画鑑賞という文化が死にかけている今、私たちが劇場へ足を運ぶことは、ニールのように過去と未来を“現在”から救うことに繋がるだろう。私たちの行動は記録となり、未来に届けられる。私たちはあらかじめ決められた勝利にむかって、劇場の外へ出ていくのだ。その時、間違いなく世界は変わっている。

【ニールが避けることができない死を覚悟しながらも時間(時代)を逆行し、「黄昏の世界」で「友達」を失うことになったとしても、最後まで守り通そうとしている「主人公」は誰なのか?もうおわかりだろう。「主人公」は映画そのものだ。】(130年目の映画革命 第1回『テネット』の「主人公」とは誰なのか?より引用) → https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/130_movie/10931

Big Movie. Big Screen. Loved it.

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