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目覚めの式典としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

1:“式典”としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

【現在、日本の劇場が大変な“場所”になっている。『鬼滅の刃』の大ヒットの時も劇場は大変な場所になっていたが、それとはまったく異なる現象として、同じアニメ作品でもまったく異なる文脈で、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は現在劇場公開されている。一体何が起きているのか? そもそもエヴァンゲリオンとは? という人たちは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 』(2007年)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 』(2012年)の3本を鑑賞して劇場に行くだけでいい。それぞれ100分程度の作品なので、すぐ追いつける……が、暴論を言えば、この3本を鑑賞することは予習以外の意味をもたないだろう。それほどまでに、前作までの3本と今回の『シン・エヴァンゲリオン』の間には『Q』から9年経っていること以上の、あまりに大きな溝がある。】

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2:“目覚め”としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。

 第1章では『シン・エヴァンゲリオン』を未見の人たちへ向けて、本作の“式典”としての側面に触れつつ、その作品構造は『アベンジャーズ/エンドゲーム』などの現行ポップカルチャー作品と並走していることを書いたが、第2章では鑑賞した人へ向けて、作品内容により詳しく踏み込んだ文章を書きたいと思う。『シン・エヴァンゲリオン』が2021年のSF映画として、『フリー・ガイ』と同時代性を共有していたことに注目したい。

 『フリー・ガイ』はオンラインゲーム「フリー・シティ」のモブキャラである「ガイ」が“あるキッカケ”で自我に目覚め、人類初の人工知能AIになるという作品。それを知ったプログラマーはガイを不毛なループが繰り返される「フリー・シティ」の世界から脱出させようと奮闘するが、そこにゲーム会社の社長が立ちはだかる。社長としては、モブキャラはモブキャラのまま、ゲームを遊ぶプレイヤーもただのプレイヤーのまま、誰もが無知で“目覚め”ずにいてくれた方が金を稼げるからだーー『シン・エヴァンゲリオン』は不毛なループが繰り返されるアニメーションの世界から、キャラクターたちを脱出させるためにプログラマー(監督)の庵野秀明が作った“式典”だった、と解釈するなら、私が『エヴァンゲリオン』のファンでもないのに本作を観ながら泣き崩れてしまったワケがわかるだろう。

 庵野秀明は1996年頃のインタビューの中で綾波レイとアスカについて「ショートカットが好きなら綾波レイ、ロングが好きならアスカ、暗いキャラと明るいキャラ、基本的には方法論で、これで全てのファンのニーズを網羅できますね」と、レイとアスカがどういうプログラミングで構成されているかを語っていた。自分たちが庵野秀明のプログラムにすぎないことに『シン・エヴァンゲリオン』の登場人物も自覚的であり、綾波と式波がクローンなのも、「定められた円環の物語の中で演じることを永遠に繰り返さなければならない」カヲルも同様で、とにかく、登場人物たちは不自由な『エヴァンゲリオン』の世界にうんざりしているのだ。

 第三村で「そっくりさん」と呼ばれる綾波レイは「(オリジナルの)綾波レイと違うことをしてもいいの?」と問いかける。まさに『フリー・ガイ』のガイと同じく、プログラマー(庵野秀明)やプレイヤー(観客)から自由になってもいいの?と驚くのだ。たとえ、シンジへの好意が庵野秀明にプログラミングされたモノであろうと、それを良かったと感じている自分は嘘じゃないからーーしかし、残念ながら綾波レイの「母親」への羨望は、この世界で叶うことはない。「あっ、ママじゃない」というセリフから、迎えに来た母親に駆け寄る子供を、さっと避ける綾波レイの足元のアクションを捉えるカメラ、アングルやアクション含め、第三村の綾波レイと「母親」を巡るドラマの悲哀を的確に捉えてるシーンと言える。第三村パートはーーアスカがシンジにレーションを無理やり食べさせるシーンが、まるで監督の「よーい、アクション」の合図で始まったアスカの演技を、手持ちカメラの長回しで実際に撮影しているように見えることに顕著だがーーキャラクターとカメラの関係を意識させるアニメーションにより、彼らが本当に生きている実感を観客に与える。キャラクターたちの実存が鮮明になればなるほど、アニメーションという世界の窮屈さが浮き彫りになり、本作がラストへ向けて、私たちの暮らす世界へ近づいていくことを予感させる。

 『フリー・ガイ』の主人公ガイはオンラインゲームの中で、モブキャラとして何度もベッドで目覚める。『シン・エヴァンゲリオン』も、シンジが目覚める度に作品のパート(4回)が変わる。シンジがハッと目を覚まし、自分がいる場所を把握するのに手こずっている様子は、まるでアニメーションの世界に適応できていないように見える。筆者は第三村をフレッシュなビジョンで描かれたディストピアとして捉えているのだが、シンジがそこから旅立つのは、旧態依然としたコミュニティへの違和感ではなく、そもそも、そこがアニメーションの世界だからだろう。

 『フリー・ガイ』では、タイカ・ワイティティの演じている社長が「フリーシティ」の円環(ループ)の元だったが、『シン・エヴァンゲリオン』ではゲンドウがその役目を担っており、彼が電車から降りるのを見届けたシンジはアニメーションの世界から自由になるために「ネオンジェネシス」を発動させる。アニメーションの世界は徐々に崩壊していき、シンジは海を眺めながら、その世界に取り残されそうになる。『フリー・ガイ』のラストでも「フリー・シティ」は徐々に崩壊していき、ガイは自由な世界へ行くために海を渡ることになる。海を渡るモチーフはアメリカ建国の歴史と重なるとともに、仮想世界とその行き止まりとしての海のイメージは『ダークシティ』(1998年)や『トゥルーマン・ショー』(1998年)、ひいては『マトリックス』(1999年)など、インターネットとゲーム文化の広がりにおける90年代モチーフの延長にも見えるが、『フリー・ガイ』や『シン・エヴァンゲリオン』において、ゲーム的身体や仮想現実の捉え方はさらに深化している。

 シンジとアニメーション世界との決別を描く「崩壊する海」は、庵野監督とアニメーション作品の決別も予感させ、原画に“帰っていく”演出からは、まるで庵野監督が自身のアニメ制作の原点に立ち返るように、ダイエーの計算用紙に一人で描いていた頃の初期作『へたな鉄砲も数うちゃ当たる』や『じょうぶなタイヤ』を彷彿とさせる。しかし、シンジの居場所を求めるドラマは「崩壊する海」では終わらず、「駅」で幕を下ろす。優れた青春映画が「青春時代特有の不安定な歩み」をカメラに捉えることを目的にし、その対比として、ラストにおいて正確な移動を可能にする「駅」を配置する伝統に『シン・エヴァンゲリオン』も連なっているワケだ。そして、その駅の先に待っているのは私たちのいる世界なのだ。

 庵野監督はドキュメンタリー番組『さようなら全てのエヴァンゲリオン ~庵野秀明の1214日~』の中で、『シン・エヴァンゲリオン』はアニメ制作が根本的に抱えるエゴに対するアンチテーゼだと語っていたが、キャラクターの主体性一つとってみても、それらは所詮、監督やアニメーターが作ったモノであり、そこには女性キャラクターの主体性を男性が規定する暴力性さえ潜んでいる。しかし、『フリー・ガイ』のラストでモブキャラたちが自分の意思で生活を始めるように『シン・エヴァンゲリオン』においても、エンドロールが始まった瞬間、キャラクターたちは主体性を獲得し、監督のエゴから離れ、それぞれの生活へ帰っていくのだ。ここでポール・オースターの『幽霊たち』(1986年)のラストを引用したい。小説の作者が、自身の書いた小説の世界から主人公のブルーが自由になることを祝福する一文である。

【物語はまだ終わっていない。まだ最後の瞬間が残っているのだ。それが訪れるのはブルーが部屋を去るときである。 世界とはそういうものだ。一瞬たりとも多すぎず、一瞬たりとも少なすぎない。ブルーが椅子から立ち上がり、帽子をかぶり、ドアから外に出ていくーーそのときこそが終わりなのだ。そのあとブルーがどこへ行くかは重要ではない。(中略)私個人としては、彼がはるか遠くの地へ旅立っていったと考えたい。その朝に汽車に乗り込み、新たな人生をはじめるべく西部へ行ったのだ、と。終着点はアメリカの外ということだって考えられる。私は一人ひそかに夢想する。 ブルーがどこかの港で船の切符を買い、中国へ発つ姿を。そう、彼は中国へ行った、そういうことにしておこう。いまやそのときが来たからだ。 ブルーは椅子から立ち上がり、帽子をかぶり、ドアから外に出ていく。この瞬間からあとのことは、我々は何ひとつ知らない。】

 そう、我々は何ひとつ知らない。あのあと、シンジが、レイが、アスカが、カヲルが、どうなったのかを何ひとつ知らない。そこにはあらゆる可能性が広がっている。彼らは生きているのだから。私たちと同じこの世界でーー『シン・エヴァンゲリオン』と『フリー・ガイ』は虚構と現実が等しく存在する2020年代の現在をたしかに切り取っている。

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