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インタビュー 安野ゆり子-003 2023/09/06

一人の人を隔週でインタビューして変化を追うインタビュー企画。
歌人、Youtuberの安野ゆり子さん篇の第3回です。
前回はこちら。

人物インタビューではなく短歌インタビューになってきました。
短歌を手掛かりに人を知るというルートですねえ。

まえがき:qbc(無名人インタビュー主催・作家)


導入

qbc:前回のインタビューから変わったことってありますか?

安野:コロナになりました。でも8月にちょうどワクチン5回目を打ってたのもあって、全然症状は軽くて。
一晩熱が出て、あとは家でおとなしくしなきゃいけないんで、しょうがないんで動画編集をやって、やっと動画が一本上がったっていう。
コロナで大変よりも、やるべきことが済んでよかったっていう気持ちが強いぐらいですね。

それから好きな人とちょっとゴタゴタがあって。
今まで優しくしすぎたなっていうのがあって、好きだから無理してでも頑張っちゃう、喜んでほしいとか、こういうことやってあげたくなっちゃうってことがいっぱいあったりとか。
あとは、相手が何か言ってきてても、別に怒るほどのことじゃないしみたいな流してたこととかもいっぱいあって。
でもなんか、好きだからってやりすぎたなって思ってね。
ゴタゴタの結果、相手を責めるっていうよりは、自分の反省として、やりすぎたなってのがあったんで、「優しくしない」っていうことを言いました。
それがこの2週間で一番大きい心境の変化ですかね。

動画では「ふくのん」さん

qbc:離婚は、動きがありましたか?

安野:まだ動いてないですね。
障害年金の通知も来ないので、特に進んでないです。
でも11月に引っ越さなきゃいけないんですけど、お金が入ってからバタバタって決めるよりも、ウィークリーマンションとかマンスリーマンションに1回移ってから、そこで次に住む場所を探す方がいいんじゃないかってのを、看護師さんと喋ってて。
だからそこもあんまり焦りがなくなりましたね、多少お金がかかるかもしんないけど。

qbc:11月に引っ越し?

安野:今のこの家は元々夫と住んでたんで、2人暮らし用で借りてて。
5年定借で借りてて、離婚するしないに関わらず、この家は5年で出なきゃいけなかったんです。その期限です。

安野先生の短歌教室

qbc:で、ここからは短歌コーナーということで。
前回のインタビュー後に、安野さんのほうから、qbcさんも短歌を作ってみたら? というご提案をいただきまして。
そのほうが短歌の理解も進んで鑑賞も捗るということで。
で、それで作った短歌がこちらです。

気づいたらもう四十五びっくりだよいやほんとにさほんとにほんと(qbc作)

qbc:いきなり言い訳なんですが、私、それなりに文章には自信があったのですが、短歌をいざ作ろうとなったら、ぜんぜんできなかったです。
テーマはすぐ浮かぶんです。
先日誕生日がきて、四十五になったよテーマで作ろうというところまで決めた。で、安野先生の作品を見ると、自分の感情なりを、風景に託して情景にしている。
ということは私も自分の感覚を託す風景、小物、そういうのを見つけなきゃだめなんだなと思ったんですが、それがまったく出てこない。
しかもそれを三十一音の定型に収めようと思うと、ますます脳が働かなくてですね。
四十五歳テーマを決めた後、とりあえず言葉を埋めたという感じです。
いやー、短歌って難しいですね。

安野:でも、良かったところがあって、それは伝えたいことの核が伝わってくるところですね。
「四十五になっちゃってびっくりだ」という気持ちは伝わってきます。

気になったのは、情報量がわりと少なくて。俳句の情報量ぐらいだなって思ったんですね。例えば、私がqbcさんの歌を見てパっと作った俳句が「流れ星四十五歳が立っている」です。

qbc:おお。

安野:これは四十五歳まで生きて立っている、流れ星は、過去の願い事、未来の願い事、叶ったり叶わなかったりしながら、今ここにいるよ、みたいな。

qbc:四十五歳という年齢に流れ星をあてがうことで、スっとバランス取れましたね。すごい。

安野:それから「ほんと」という言葉ですね。
短歌は三十一音って文字数制限があるから、なるべく無駄な情報を入れたくないんですね。「ほんと」って言葉は念押しの言葉で、持っている意味が少ない。その「ほんと」を3回使って下の句を埋めちゃってるので、情報がほとんどゼロなんですよね。ほとんど何も言ってない。

だから「自分の伝えたいことの核心+蛇足」って形になっちゃってて、それが気になりました。
下の句に、例えば誕生日ケーキ食べた話とか、家族にこんなこと言われたとか。逆に誕生日は普段と変わらなかったとか。エピソードがあるともう少し短歌として立ちあがってきますね。

それから「びっくりだよ」が字余りなので、そこでズッコケちゃって、韻律が悪くなっちゃってるのもあります。その韻律の悪さが下の句にまで響いてる。

qbc:小さい「つ」は一音なんですね。

安野:あとは「気づいたら」ですね。
短歌って、気づきを詠むものなんですよね。気づいてなかったことは詠めないじゃないですか。
だから「気づいたら」っていう頭はいらない、基本的に。
短歌ではよく「ふと」も使ってしまいがちなんですけど。「ふと気づく」の「ふと」ですね、これも同じく要らないことが多いです。

qbc:この「流れ星」だったり、どうやってイメージをひっぱってこられてるんですかね。

安野:年齢的に、人生折り返し地点だとか、自分はうまくやれてんのかなみたいな、そんな感じかなと思ったんですよね。それで「立っている」がいいのかな、と。
あとは秋の季語を眺めて、目についたのが流れ星で。流れ星はいい感じにくっつくなと思って、と。そういう感じですかね。

qbc:なるほど。

安野:「びっくりだよ」といった、直接的な感情表現も基本的に使わない方がいいとされてますね。時と場合にもよるんですけど。
嬉しいとか悲しいとか寂しいとか、そのまま言っちゃうと、それで終わっちゃう。余韻とか複雑な感情が言えなくなっちゃうから。だから「立っている」という動詞に置き換えました。

qbc:なるほど! ありがとうございます!!!!!

安野さんの短歌

qbc:と、いうことで。気を取り直して安野さんの短歌を鑑賞していきましょう!
今回、私がピックアップしたのはこちらのnote記事です。

qbc:これはいつ頃作られた短歌なのでしょうか。

安野:「心の花」の機関誌の2021年の4月掲載号用に提出したものなんですが、実際に作った時期には幅があると思うんですよね。

最後の納豆の歌は結婚してからですけど、最初の歌は、もしかしたら大学生のときかもしれない。
結社に出すときは、一つの出来事をいろんな方面から詠むような歌の出し方(連作)のときもあるんですけど、これは寄せ集め、余ってた一首一首を、それっぽく並べたっていうタイプですね。

母は寝たばかりか水を飲みに来た厨に灯油かすかに匂う

qbc:厨(くりや)、台所に水を飲みに下りてきたら、灯油ストーブの匂いがする中で、身近な家族のことを思う日常的な情景ですね。
灯油の匂いって独特なので、そういう異質な感じの中で出てくる「母」に面白さを感じました。匂いから、その場にはいない母親のことを思う、という心の動きにも美しさを感じます。
「水を飲み」というシンプルな動作の描写も好きですね。

安野:そうですね、日常の歌って感じですね。灯油ストーブを消したばかりの匂いがして、お母さんさっき寝たんだな、みたいな。私は水を飲みに来たから、0時とか1時の出来事だったと思います。

qbc:こういった歌は、どういったタイミングで思いつくというか、作られるんでしょうか?

安野:私の前提として、面白いものは全部短歌にしてやるっていうアンテナが常にはってあるんです。
この歌の場合は、最初に思ったのは、灯油の匂いがするな、ですね。で、それって自分の気持ちじゃなくて現象じゃないですか。そのときに、もう一歩先の自分の思考にあったのが、お母さんさっきまで起きてたんだ、だったんですね。
これってエモいなっていうか、ちょっといい感じだなって思って。

黒光る面(も)に陽光の反射して白し目映し山茶花の葉よ

qbc:これはもうそのまま、書かれているままですかね。言葉による描写と、「はんしゃしてしろしまばゆし」といったところの音を楽しむ感じで。

安野:私としては、これね、あんまりうまくないなって思ってて。綺麗な言葉を並べちゃったなって。
普段の私の短歌作りとは別路線の歌で。
綺麗な言葉を使って奥深く詠むっていうタイプの歌人の人もいると思うんですけど、私はそこには到達してないなと思っています。

qbc:なるほど。

安野:ちょっと作りが甘いですよね。「黒光り」と「陽光」で、光を2回使ってるじゃないですか。読み方は違うけど。
葉の表面のことを「面(も)」と読ませてるあたりも、普段の私ならやらないですね。少なくとも今の私ならやらない。

絵馬に書けぬ願い事もち帰る道じゃりりじゃりりと玉砂利は鳴る

qbc:絵馬には書けない、つまり表には出したくない願い事を抱えていて、それをそもそも書こうとして神社にきたのかどうかは分からないけれども、ともあれ絵馬には書かずに帰った、という歌ですね。
願い事を持ち帰るというネガティブなイメージと、玉砂利のじゃりりじゃりりの面白さ、軽やかさのコントラストが印象に残ります。

安野:願い事があって神社には行ったけど、結局絵馬には書かなかった。でも、お願いはきっとしたんでしょうね、神社に行ってるから。
だからそれこそ不倫とか、あいつ嫌いだとか、多分きっとそんなことなんでしょうけど。

だから帰り道では、私としては後ろめたさみたいな気持ちがあるんだけど、だから足音を鳴らしたりせずに帰りたいのに、足元が玉砂利だから鳴っちゃうみたいな歌です。
じゃりりじゃりりをqbcさんは楽しそうな音っておっしゃいましたけど、だからこそ私には鳴ってほしくない音だったんですね。

qbc:なるほどー。作者側からの視点と、作品を楽しむ側の視点の違い、面白いですね。

安野:もう何のことをお願いに行ったかはわからなくて、もしかしたら願い事をしようとしていたのも創作だった可能性すらあるんですけど。
ただ、神社に行って玉砂利がうるさいって思ったんです。そこから作ってますね。

世の中にはファンシーな短歌やすごく残虐な短歌を作る人もいるんですけど、そういう人は頭の中で世界観を作って詠んでいる。私にはそれができないので、歌の材料になる事実が一つあって、そこに脚色を加える。
あるいはある事実を歌には詠まないってことも脚色なんですよね。本当はこういうことがあったけど、あえてそれは無視したり。

半月の照る夜ひとといる時は立ち止まり乗るエスカレーター

qbc:半月の夜で、誰かと一緒にいるときのエスカレーターで、そうすると立ち止まると。
うーん。
あ、エスカレーターですね。エレベーターを思い浮かべてしまっていました。
そうか、なるほど。いつもはさっさと歩いてしまうエスカレーターだけど、人がいると立ち止まると。時間の流れがゆったりに変わる感じですかね。

安野:そうですね。普段はエスカレーターにさっと乗ってしまうけど、人といるときはゆったりしてて、その雰囲気がいいな、みたいな。

qbc:前回の「恋人の部屋に留守番せりチェアの高さわずかに下げてそのまま」という歌を思い出したのですが、安野さんは几帳面というか、気配りが細やかな方なのですかね。
2首とも、人との関係性で挙動が変わる歌だなと思って。

安野:いや全く。雑ですね。特に行動は。
気配りとか考え方は繊細な方だと思いますけど、立ち居振る舞いは雑です。家の中もバタバタうるさいですし。料理をする、お皿を洗うときも仕上がりの良さよりもスピード重視です。

qbc:あーなるほど。じゃあ短歌脳が働くんですかね。

安野:私が短歌を全然やらない人間だったら、イメージを拾ってこないと思います。
普通あんまり生活の中で、1回1回立ち止まらないですよね。私は、生活で1回1回立ち止まっちゃってるんですよね、何をやるにも。感じたその瞬間にメモを取ったりするんですよ。

qbc:メモは何でしてらっしゃいます?

安野:スマホです。メモもそうだし、短歌の形にするときもスマホです。
iPhoneのメモなんで全部横書きでやってます
だから夫と旅行とか行くと途中で「ちょっと待って」とかって立ち止まってスマホ出してきたりとか、でもそれは夫もわかってるんで待ってくれたりもするし、という感じですね。旅行中にいきなりスマホを出して、立ち止まってメモを取る、そういう生活です。

脳内に誰かの悪意しゅるしゅると這い入り我は赤き夢観る

qbc:これはですね。けっこう、そのままですかね。「悪意しゅるしゅる」や「我は赤き夢観る」など、特徴的な言葉でぐいぐいイメージを押してくる感じ。
直接イメージを突き刺してくるような。

安野:この歌は、あまり具体的なこと言ってないですしね。
私の歌は、行動とか具体物がわりと出てくるんですけど、この歌は夢の歌で、珍しいタイプですね。

qbc:作風を変えてみようというチャレンジだったんでしょうかね。

安野:これは「できちゃった」としか言いようがない歌ですね。
私は普段から「こういうふうな短歌作ってみよう」とか、「こっちの作風で頑張ってみよう」という方向性の向上心がなくて。この歌は、思い浮かんだものを繋げたらできちゃったみたいな。

古典文学を読んでいると、好きな人が夢で会いに来るとか来ないとか、生霊を飛ばすとか、そういうお話が多いんですよね。私はそういう思想が面白くて好きで、自分が怖い夢を見たときに、これはきっと誰かの悪意に違いないと思って。

噛み殺すあくび歯と歯のあいだから漏らせば昨夜(きぞ)の夢の顕ちくる

qbc:あくびを噛み殺していると、昨日の夢が、たちくる? すみません、「たちくる」の意味がわからず、よみとけないですね。

安野:「夢の顕ちくる」は「夢がたち現れてくる」という意味ですね。
あくびを噛み殺している、けれどもその歯と歯の間から、あくびが出てきちゃう。そうすると、昨日見た夢が思いだされる、という感じの歌。

今だったら、「昨日(きぞ)」は絶対使わないですね。でもこのときは使いたかったんでしょうね。
「昨日(きぞ)の」他にも、「夢の」の「の」も古文的な助詞の使い方をしていて、古めかしく作ってある。一方、上の句の「歯と歯の間から漏れてくるあくび」という発想自体はわりと現代的で、古文から離れるようなイメージですね。このバランスが我ながら上手いなと思っています。

qbc:現代文と古文の割合みたいなものは意識するものですか。

安野:私の場合は、最近はもう全部現代文ですね。普段使ってる言葉に寄せようとしています。
例えば俵万智さんの短歌は古文の言葉も多いです。完了の助動詞の「ぬ」がついたりとか。あと自分のことを「われ」とか「あ」とか呼ぶんですけど。私も最初はそれくらいの古文レベルで作ってたんですけど、最近それもやだなって思ってきて。

自分が思ったままの形で、なるべく自然に三十一音の中に収めたいと思っています。「われ」は使うときがありますけど。

qbc:なぜ古文がでてくるんですかね。

安野:一つは音数が短いから。例えば助動詞の「存続」がわかりやすいですけど、「〇〇している」と言いたいときに、現代文だと「ている」と3文字が必要じゃないですか。
でも古文だと「り」という助動詞があるんで、1文字で済むんですよ。

三十一音の制限の中でやろうと思うと、現代語の語尾って長くなっちゃって使いづらいんですね。短歌の歴史の中でも語尾をどうやって処理するかというのは難しい問題として扱われてきたんですけど。

qbc:なるほど。

安野:あとは、人によっては、古文的な世界観が好きだからとか、古文のほうが日本語が綺麗だからとか、ありますね。
この間X(旧Twitter)で、古文の書き方のほうが心を解放できるって書いてる人がいて。日常の中でその人は窮屈さを感じて生きてるのかなと思ったんですけど。そういう自分を抑圧するような言葉じゃなくて、心を開くためには、古文の言葉の方が自由に書ける。そういう人もいるんだなと思いましたね。
私はその人とは逆の感性で、現代文の書き方のほうが心を解放できるんですけど。
みんなそれぞれ理由があるみたい。

肉ひとつ残るスープに白菜を足して今夜の鍋は続けり

qbc:これは、読んでそのままではあるんですが、肉ひとつ残るスープという状況だったり、そこに具材を追加して鍋がさらに進行していく、という状況がぱっと思い浮かびますね。
楽し気な感じがします。

安野:ゆっくり楽しげな感じですね。鍋に新しい具材を入れるときに肉が一つ残っちゃってるというあたりに、私の雑さが出てるなと思います。
自分が雑だなと思うところで、私の心が動くんですよね。自分でやっておきながら。私が書きたかったのは「肉が一つ残ってる」という場面だけだったんですけど、この歌は。

qbc:こういう状況を拾えるのって、なぜなんですかね。

安野:どうなんでしょうね。心が動いてしまったとしか言いようがないですね。私ぐらい具体的に書く人は、見た風景から書くんでしょうけど。

家にある皿の枚数気にしつつ決める今夜は土佐煮もつける

qbc:この歌も意味としては読んだままではあると思うんですけど、面白いですね。
お皿の枚数を気にしたりするんだと思っていたら、唐突に土佐煮ってすごく具体的な料理名が出てきて。
「決める」「つける」の動詞のすぱっとした気持ちよさも好きですね。これは意味としては「土佐煮を作る」でも通じますけど、「も」「つける」のところにパワフルさを感じて気持ちい。

安野:そうですね、土佐煮が唐突ですよね。
土佐煮も作るけど、メインのお料理ではない。例えば唐揚げはこの歌のここに持ってこれない。大皿料理だから。

うちにお皿の枚数があまりなくて、それでこの料理はどうやって乗っけようかなっていうのは、最初に考えたりとか、作りながらどうしようみたいな、そういうことはよくあるんですよ。

お皿の枚数は大家族だとあまり考えないと思うんですよ。たくさん持っているから。だからこの感覚は今の自分たちの生活の特徴がよく表れてるかなと思って、我ながら面白いと思って作りましたね。

納豆をふたり黙ってかき混ぜる午後の予定も特にはなくて

qbc:ほのぼのした歌ですね。これも読み解くというよりは、書かれたそのままの言葉から思い浮かぶ情景があって、それがそのまま楽しい感じです。
黙ってるからにはたぶん一緒になって長くて、で、午後特に何かするわけでもない、という。
二人の何でもない時間、空間に思いを致す歌ですね。

安野:そうですね。まず納豆を2人で黙々と1パックずつかき混ぜてるのが面白いなって思って。それで下の句どうしようかなって考えて予定の話を持ってきたって感じです。

qbc:これ、現実に午後の予定はなかったんですかね。

安野:土日の11時とか多分それぐらいで、別に今日やることないなっていうはずだったと思いますね。納豆は朝のイメージが強いけど、たぶん昼近くだし、2人黙って納豆かき混ぜてるし、午後も何もないし、なんなんでしょうねこの日はっていう。そんな感じです。

価値

qbc:ちなみに、ぶしつけな質問ですが、安野さんの実力ってどれくらいのものなんですかね。今日の歌を読んで、すごく素敵だなと思ったんですよね。

安野:日本中で見たら、その辺のアマチュアの1人、これといって何もない人です。
所属している「心の花」という結社の中では、短歌歴も結社歴もわりと長くて、でもまだ20代だから若くて。結社の中の賞にも名前がちらほら載るから、ちょっと目立つかなぐらいの。それぐらいかなって思いますね。

qbc:なるほど。

安野:日本全国で見たときには、角川の新人賞とか、過去何回か商業誌の誌面に名前が載ったことはあるけど、全然注目はされてないでしょうね。

qbc:短歌を作るときに、どれくらい共感を意識していますか?

安野:共感は、あくまで私の感覚ですけど、書いてあることがまず伝わらないと意味ないと思ってて。
三十一文字読んで、その内容は伝わった。その上で「わかるわかる」とか「いいねそれ」っていうのはもう読者の人生と私の人生がどれぐらい近かったかによっちゃうと思うので、そこはあんまり意識してないですね。自分の心が動いたり、自分がいいと思ったことを前面に出していくっていうようにはしています。

ただ特に最近は、書き方はなるべく親切に、難しい言葉をあまり書かないようにしていて。今回のは過去のもあったのでちょっと難しい歌もありましたけど、誰が読んでも内容はひとまず理解できる、を目指してます。

qbc:短歌を作る目的って、なんですかね。

安野:基本的には、いい歌ができて自分が嬉しいっていう自己満足と、あと誰かに見せたときに「良かった」とか「うまかった」って言われて、やったって思うことと。

全部基本、内向きなんですね、私って何か。
だから、読者に何か伝えたいとか、読者の人生にこういう影響を及ぼしたいとか、全然ないですね。

qbc:今日の短歌の中で、自分ベストをあげるとしたら、どの歌でしょうか。

安野:今日の歌の中だと、土佐煮かな。

私は、歌の中の主人公が変な人だと嬉しいんですよ。変わった人だと読んでるこっちが楽しくなっちゃう。
私の読書って、娯楽なんですね。小説でも何でも、勉強したくて本を読むことはないので。だから読んでて面白いっていうのが、一番私の中で大事。
短歌の中で娯楽って何だろうと思うと、出てくる主人公が変な人とか、なんでこんなことやっちゃってんだろうとか、そういう面白さっていうのが、なんかいいなって思っちゃう。
なんかこの人、変なとここだわってるっていうか、思考がちょっと偏ってるっていうか、なんかそういうところが、いい主人公だなって思いますね。

終わりに

え、この短歌めちゃいいんだけど、まじ? この短歌すごくいい! ほんとかよまじかーまじかーの連続でしたね。今回のインタビュー。
どうしてこんなにこの短歌いいんだろう、と思いきや、だって自分でこの短歌はいいな、と思って声を掛けさせていただいたインタビューだったからですね。
いやー自分の脳内を迷子していました。
あー。
ということで次回もお楽しみにね。

制作:qbc(無名人インタビュー主催・作家)

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