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【短編】みず


「それそこらですくった泥水です」
 一杯千円をとるログハウスのしつらいをした喫茶店の初老の老人が俺のいままさに飲みほそうとしているグラスをゆびさした。
「そっちは僕の小便でした」
 カウンター席の俺の隣に座る主人のとしわかい娘の前にあるグラスをしめした。娘は俺の水を飲むのをまずながめていたのですくわれた。
 俺たちは水を飲んでいた。当店の水がどれだけ秀抜かという主人の文脈の中で使用しているフィルタの性能を提示するためそれで濾過したという水を飲んでいた。
 主人はそれ水道水だ汚水も排泄物もうそだいたずらごころをはたらかせたのだともらした。水は清潔な味がするとおもえる。
 だが肛門から直腸や胃や食道や口蓋が底から内側がうらめくりになりそうなほどのつよい嘔吐感がいちどきにおしよせた。それと悪心。観念は肉体に対して風にひるがえる旗の影のようにめまぐるしい変容をあたえるのだろう。きづいた。それが原因かもしれない。
 俺の体質の特異はその翌日におこった。愛着をかんじているものとからだが同化するようになった。寝巻にしていたシャツや数年来俺の体の下にあったシーツと皮膚がくっついた。肌と布の境界線をにらみつける。繊維がたるんだ皮にぐっさりとささりこんでいた。だから由縁の深いものや記憶のよすがとなるようなものすべてを捨てなければならなくなった。女も。
 喫茶店の主人の娘と俺は懇意だったわけなのだが俺は女を捨てた。
 衣服は個性のないものを慎重にえらぶことになる。正確には慎重に選ぶと念がこもるからなにげなくえらぶことに対して慎重だった。サイズの合わない服をえらぶこともしょっちゅう。
 俺の個性はこおりのようにしずかにゆっくり時間をかけてたしかにいつか霧のようにどこかになくなっていった。
 このころの自分をささえていたのは自分が特別だとおもうことだった。例外者であるというまちがいのない認識がどこにも意識を集中させてはならないかんがえてはならない浮遊しなければ生きられなくなった肉体の寿命をのばさせていた。ひとりぐらしでよかった。
 ある日に川にとびこむ用事ができた。この日に俺は例外者から部外者に変わることになった。ある夏の日にあるながれる川があまりにきよらかにあるのでそこに両脚をふみいれたくなったのだ。
 とたんに俺は川のながれと一体化してとけこみしくじったことにきづいた。ずっとそのままながれることになってしまった。

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