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本だと誰にも手伝ってもらう必要がないし自分の中にある物語を自分の言葉で1人で世界を作れる人

見てごらん河童がいるよ。うん。
わかってた?
わかってたと言うよりも、「気づいてた?」っていうのが日本語適切じゃない?
知らないよ。知らない知らない。
若葉色のワンピースを買った。2年前の話。だあれも私のことを知らない大学に入学して、その「知られていなさ」を願っていたのに、いざ知られていないとなると、なんだかさみしい。夜、寝る前に、ひっそりさめざめ泣いてしまうくらいのさみしさ、かなしみ。
でもあわれまたりはしたくないから、誰にも相談できずにいる。
そんなときでした。マッチングアプリ「ティンダー」で男漁りを始めたのは。
残念です。私は。
私は一人で内省内省内省できるタイプの人間でもなく、こーやって、そうやって、異性という互いに都合のいい毛布を使って私は自分から目を背けていたのでした。
そんなときでした。
無名人インタビューというコンテンツに出会ったのは。なるほどですね。そうか、そうなんだ、こんな、こういう、自由な生き方があったんだ。そうか、元気だそう。
そうして私は、微笑みの国「タイ」に旅だったのでした。
あばばばばー、無名人インタビュー今日も始まります!
【まえがき:qbc・栗林康弘(無名人インタビュー主催)】

今回ご参加いただいたのは ドラゴンワン さんです!


現在 : 仕事っていうよりも、パニック障害になったことの方がちょっと人生的には大きいかもしれないです。

のの:今、何をされている方ですか。

ドラゴンワン:私は番組制作会社の人間で、今はローカルテレビの制作をやってます。

のの : どのような内容のものを作られてるんですか。

ドラゴンワン:基本的には情報番組とかバラエティー番組ですね。制作っていうお仕事自体は、企画出し、リサーチ、取材、台本、ロケ。あとはオフライン編集とか色々あって、細かく言えば、テロップを発注したり、ナレーションを収録したり。簡単に言うと、こんな感じですね。

のの:今のお仕事はいつ頃からですか。

ドラゴンワン:今38歳なんですが、22歳からやってますね。ただコロナで仕事がガンガン減りましたから、いつ辞めるかわからない状況です。量的には少しずつ戻っては来てると思いますけど、個人的にはやっぱりコロナ前に比べると売上が下がってしまっていて。

のの:取材とかも断られたりとかですか。

ドラゴンワン:コロナの影響でむしろ「ちょっとでも紹介してもらわないと!」みたいな空気感があり、あまり断られるっていう印象はなかったですけど、ただやっぱりロケはできなかったんですよね。
コロナ禍になって2019年からでしょうね。特に2020年ぐらいからまともにロケができなくなって、これまで当たり前にやってきた番組作りの形を見直さなきゃいけない状況になったんです。各局模索していたと思います。ののさんもテレビを見ていて、どこか無理やり作ってるみたいな感じも受けたと思いますけど、僕たちも取材にいけないので、Zoomで繋いだり、写真とか画像とか動画を送ってもらったり、グリーンバックで撮影して合成してとか、なんとか番組尺に必要な映像を作るのに頭を悩ませていました。スポンサーによっては、売上が下がってるところもあったと思うので、みるみる番組が減っていて。コロナがきっかけで仕事に対する意識が変わったのを覚えています。

のの : なるほど。

ドラゴンワン : 自分の知らない他人にインタビューすることは役に立ってますか?

のの:かなり役には立ってます。

ドラゴンワン:本を読むのと一緒ですよね、他人の人生を聞くことで選択肢が増えていくっていう。僕も割と取材が好きで、昔は本当に年間何百人って取材に行ってたんで、名刺の量がとんでもないことになっちゃってました。
取材に行く度に、本当に人の形って色々あるなとつくづく思います。会社の形だったり、仲間との関係性だったり、家族のことだったり、なんか当たり前だと思っていたものが、少数派だったみたいな(笑)。自分の中では普通にしていたことも、世間を見てみることで基準が変わっていくというか。そういったこともまた、この仕事の醍醐味で面白いところですね。

のの:取材をしていて、印象的だったことってありますか。

ドラゴンワン:僕が特に印象に残っているのは、この業界に入ったばかりの頃。ネタ出しが思うようにうまくいかず、プロデューサーに意識がなくなりそうになるくらい怒られまくって、とんでもなく焦っていた時に、先輩が取材先候補として「ここ美味しかったよ」って教えてくれたことがあって。それを鵜呑みにした僕は、とにかく時間がなかったので取材の申し込みの電話を入れたんです。そしたら「ウチに来たことありますか?食べたこともないのに、なんでカメラ取材できるんですか?お断りします」って電話を切られてしまって、慌てて謝罪しに行ったんですよね。謝り倒して、その店主の方の前で食べて、美味しくて、改めて取材をお願いしたことをよく覚えてます。そのとき、仕事以前にまず「人として」を教わりました。
他にも色々話はあるんですけど、実は今、僕自身が病気が理由で取材とかロケに行けていないというのが現状でして。32歳のときにパニック障害になったんです。そこから取材は、かなり減らしてる状況で。パニック障害って面白いもんで、人に会うのがすごい怖くなるみたいなのがあって。人と会うのが好きだった元の自分を知ってるから、すごく違和感ありますね、なんなんだこの感情…変だなって。

だから仕事っていうよりも、パニック障害になったことの方がちょっと人生的には大きいかもしれないです。当時はあんまり同じ病気の人が周りにいなくて苦労しました。この感情をなかなか言語化できなくて。それでも、中には心情を察してくれる人もいて支えられました。その頃はこの病気の情報が欲しくて、Twitterをはじめて、よく検索していました。調べてみると、パニック障害とかそういう精神疾患を持っている人がいっぱいいて、多少安心したりして。パニック障害になりたてのときは、今まで通りに仕事をこなすことができなくて、かなり周りの人の足を引っ張っていたんですけど、会社と職場の人たちに変わらず雇ってもらえて、その助けられた経験が大きかったですね。家から出れず出勤できないときもありましたからね。おもしろいですよね(笑)。

のの:今はもう症状はないんですか。

ドラゴンワン:症状はだいぶなくなってきてます。パニック障害って、急に発作が来るんですよ。それが本当に強烈で、人によって度合いは違うと思いますが、本当に「死ぬ」と思うんです。発作自体は、大体10分から15分で収まるんですけど、それが来ちゃったときは何もできなくなるんです。家にいて発作が来る分には人に迷惑かけないですけど、やっぱりロケ先とか出勤中に来ると厄介なので、出歩かなくなるんです。
その発作を経験することで、またあれが来るんじゃないかっていう不安に怯えることを、予期不安っていうんですけど、その予期不安で、結局症状とかその病気自体を長引かせちゃうんですよね。いつ来るかわかんないものに怯えての生活なんで、体は元気でも何もできない状況が続くんです。

のの : はい。

ドラゴンワン : そんなことからだからあまり表にワーッて出るようなことはしなくなって、ようやく今年ぐらいから、ある程度収まってきて。典型的に苦手な場所を挙げると、逃げ場がないみたいなところで、美容室とか、歯医者とか。これらって基本的に終わるまで、そこに絶対いなきゃいけないじゃないですか。当たり前ですけど(笑)。
その縛りが精神的にキツくて、自分が「どこにも行っちゃいけないんだ、自由がないんだ」みたいなのが、すごいストレスになって発作を引き起こしちゃうんですよ。それ以外にも、公共交通機関のバスとか地下鉄とか、電車、飛行機、その辺も基本的には着くまで乗ってなきゃいけないとか。挙げればキリがないんですけど、車乗ってても渋滞が怖いとかトンネルが怖いとかね。なんかそういうのがあって最近は、心を休ませるために仕事を減らしてます。で、休んだら、ようやくタクシーと地下鉄とバスには乗れるようになったんですよね。だから、どっかで頑張って飛行機に乗ってみたいなと思ってます。そこまで行けばもう、ほぼ寛解したって言ってもいいんじゃないかなと思ってます。
それを経験してからというもの、生活は言葉にならないぐらい厳しかったですね。家から出られないとか、コンビニすら入れなくて。でもそんなことを恐れてる自分が信じられなくて、受け入れられなくて、何年もしんどかったです。これで治ったっていう根拠みたいのは恐らくはっきりとは無いので、自分の中で乗り越えたなって思えれば、多分それが終わりなんだろうと思います。

だから今は、自分がここまで回復できたから、同じ症状の人たちの心を支えたいんです。同じような症状を持つ人と繋がって情報を交換したいですね。「ちょっとでも良くなれ」と思って、私も何十冊って、その類の本を読みましたから。そういう本が読めるようになったのも職場の人のおかげだったりして、それはあとで話しますね。なので、割と今はそういった事を、結構楽しくやってる感じですかね。全然仕事の話じゃなくなってすいませんでした(笑)。

過去 : タクシーに乗って帰ればいいかもしれないけど、タクシー代は家に帰ってもないんだ。

のの : ドラゴンワンさんは小さい頃どんなお子さんでしたか。

ドラゴンワン:とにかく落ち着きがない。なんかずっと喋ってて、体も止まらないみたいな。そんなことはよく言われてました。活発だったんじゃないかなと思いますね。

のの:小学生ぐらいの頃は、どんな感じの性格でした?

ドラゴンワン:基本的には今と変わらなくて。でもね、嘘つきだったような気がしますね。すごい現実味を帯びた嘘をついていたと思います。周りにはバレていたと思いますけど(笑)。あとはとにかく誰かになりきることも好きでした。当時は、コント番組がすごく多くて、やっぱその影響も大きかったんじゃないかなと思います。それこそごっつええ感じとかめちゃイケとか、笑犬とか、水10をよく観てて。お笑い芸人になりたかったんですよ最初。でも、あがり症なので結局目指さず。心を許してる人にはワーッて自分を出していろんなことできるんですけど、あんまり知らない人とかが居ると、萎縮しちゃうみたいな感じで、それに気づいて、諦めた感じですね(笑)。結局それが今の仕事に繋がってるところもあって。「お笑い芸人の人とかと一緒に仕事したい」みたいな、せめて携わりたいっていう気持ちが消えませんでした。

携帯とかもないような時代だったので、テレビがすごい生活の中心にあったんですよ。小さい頃は、学校に行ってもテレビの話ばっかりで、テレビに出てる人のマネをしたり、ギャグを言ったりとか、テレビでやってたゲームを真似してやるみたいなことばっかりで、すごいテレビの影響が大きかったんですよね。エンターテイメントは、あの四角い箱の中にしかないっていう感覚でした。当時の僕も今と変わらず、テレビを本当に楽しみに生活をしてるので、深夜番組を見るために1回先に寝て起きるみたいなことをしたり、27時間テレビを全部見逃さないために、なんとかこんとか頑張っていたように思います(笑)

のの:その頃は周りの人からどんな性格だとかって言われてましたか。

ドラゴンワン:言われた記憶がないんですが、変な奴って感じなんじゃないかな。なんか、ちょっと浮いていたんじゃないかなと思います今考えたら。自由だった気がします。

のの:学校と家ではキャラクター違いましたか。

ドラゴンワン:学生までは、友達用の顔も、兄弟用の顔も、親用の顔もそんなに変わらなかったかもしれません。

のの:卒業してから変わりましたか。

ドラゴンワン:やっぱり社会に出ると、大人になるって言うと単純すぎるかもしれないですが、学生時代みたいに落ち着きがないなんてことは少しは無くなったように思います。でも、それも最近になってからかもしれないです(笑)

のの:高校卒業されてからは?

ドラゴンワン:高校卒業してからは、大学には行かず働いていたんですけど、基本的には、めっちゃすぐ辞めるのを繰り返してました。私が学年で一番最初に就職先が決まったんですけど、その初めて入社した建具工業は、1週間で辞めましたから(笑)。その後ペット用品を卸す物流のバイトを紹介してもらって1ヶ月で辞めて、その後クリーニング屋の営業をやるんですけど1日で辞めてるし、精肉のバイトも、3ヶ月ぐらい(笑)。もうどこに行っても続かないので、そこからしばらく親父が自営業でやってた配管工の現場でバイトさせてもらってました。それは2年ぐらいやったかな。やってる最中も、やっぱテレビの仕事への思いが捨てきれなくて。本当に、私は頭が悪くて。そういうテレビの仕事をするんだったら専門学校とかあるんだよね。でもそのとき全然知らなかったっていうか、どうやってテレビの仕事に就くのかもわかんなかったみたいな感じで。本当に無知でした。

とりあえず求人見て、内容のところにテレビって書いてある会社にひたすら履歴書を送り続けてました。でもまったく受からなくて。ようやく受かったのは、CMとかテレビ番組とかの照明屋さんでした。結局それも1ヶ月でやめたんです、やばいですよね。私は本当に大したことない、くだらない理由で辞めるんです。ちょっと先輩が嫌なこと言ったみたいなので、「もういいわ」みたいに不貞腐れて。甘えんぼですね。ただ、その照明の会社に入ったことが、その後の自分の人生を大きく変えてくれたんです。絵コンテってわかります?

のの:なんとなく分かります。

ドラゴンワン : その会社では、絵コンテを見て、シーンに合わせた照明を作ってたんです。その絵コンテを見たときに雷に打たれたような衝撃を受けました。このシーンを考える仕事に就きたい!ってはっきり思ったんです。テレビ業界では、ざっくり言うと、カメラマンとか音声さんとか照明さん、そういった人たちを技術と呼んでいて、企画を考えたり、番組の構成を考えたりする人たちを制作って言っていて、絵コンテを考えてる人たちはつまり制作の仕事だって分かって、そこから「制作」に絞って求人と、にらめっこを始めました。
それから何社か受けて、ようやく入るんですけど、超絶ブラックでした。その超絶ブラック会社を今度は1年で辞めるんです。そこで働いていたことで今の職場の人たちと出会って、その縁でずっと働いています。だから当たり前ですけど、必要のなかった経験なんて一つもないんです。

ブラック会社は、1ヶ月間あんまり休みがなくて、入ったばかりの私は何もできないので、月曜日から金曜日まで情報ワイドの番組のとんでもなく端っこにある仕事をして、土日は、サッカーの試合があって、Jリーグの。それのスローを出す仕事をしていました。わかりますか?「今のシーンもう一度振り返りましょう!」みたいな時に流れるスローの映像。それを出す仕事をしてたので、本当に休みがなく給料7万円だったんですよね。本当に腹立ちすぎて、時給計算したら270円ぐらいでした。さらに会社を受けたときは「試用期間3ヶ月あり」ってなっていたんですけど、いざ入ってみたら試用期間をとうに過ぎても、ずっと試用期間で。結局1年たっても試用期間のままでしたよ。

一向に正社員にならないので、社会保険とかその辺も全然ないわけです。だから7万円の中から自分で国民年金とか健康保険払って。こういう世界なんだなと受け入れてはいたんですが、忙しいだけじゃなくて、やっぱり社長さんが完全に昭和な人だから、なんだろうね、もう信じられないことを平気で言ったりやったりを繰り返してて。よく思い出すのは、確か2006年とかだったかな、ファイターズっていうプロ野球チームがあるんだけど、その年ファイターズが優勝したんです。ビールかけが札幌ドームであったんですけど、ビールかけの生中継が終わって撤収ってなったらもう深夜12時半とか1時で、もちろんバスも地下鉄もないわけですよ。そこに置いていかれたんです。行きは一緒だったのに、気づいたらいない!みたいな。札幌ドームってちょっと外れにあって、ウチへはとてもじゃないけど歩いて帰れる距離じゃないんですよね。タクシーに乗って帰ればいいかもしれないけど、タクシー代は家に帰ってもないんだ。立て替えられたとして領収書渡してお金もらえるような社長ではなかったので。そんなんで現場でめちゃくちゃ一人でパニクッていたら、可哀想に思ったのか、たまたまそこにいた一つ年上の先輩が家に泊めてくれたんですよね。そうじゃなかったから何時間も歩いて帰るしかなかった(笑)。ただ、こんなのは氷山の一角で、結局会社を辞める1カ月前にはストレスで血を吐いたんですよ。

血を吐くと飯が食べられなくなって、フラフラになるんだねあれね。何食っても戻しちゃうんです。カロリーメイトも戻すレベル。それで病院行ったら入院してくださいって言われたんですけど、恐ろしい社長だったから、そんな入院みたいな甘えたこと言おうもんにはクビになっちゃうと思ってビビッて、お医者さんには「それはできないです」って言って、とりあえず家で療養することになったんですけど、それで1週間休んじゃったんです。そしたら、その月の給料、「お前1週間休んだから、5万ね」って封筒渡されたとき、反射的に辞めますって言ったんですよね。そして、このまま僕が辞めて次誰か新しい人を採っても、その人が苦労するだろうと思ったので、その日のうちに便箋に「こういうときあなたはこうしました」っていう恐ろしい文章を書いて、翌日それを突き付けました。でも、辞めたはいいけど、次が何にも決まってなかったので、どうしようみたいなのは正直あって、途方に暮れてました。

のの : はい。

ドラゴンワン : 7万円じゃ一人暮らしはとてもできないので、その時まだ僕は実家にいたんです。だから、「少し頭を整理する時間も必要だろう、映画でも観よう」って。それで辞めた次の日に、映画を借りに向かってたら、一度も仕事を一緒にしたことがないテレビ局の人から電話が鳴って、「やる気があんだったらウチ来い」みたいなことを言って頂いて、その人の紹介で、違う会社に入ってようやくまた働き出すみたいな感じでした。そこに行ったことで、ようやく自分が思い描いていたテレビらしい仕事というか、さっき言ってたサッカーとかのスポーツ関係の仕事ではなくて、情報番組とかバラエティー番組とか音楽番組とか映画番組とか、やがては、そういうものに色々触れさせてもらえるようになりました。

その後は、電話をくれた局員の先輩が面倒を見てくれたんですが、特に最初の六、七年、その人もかなり厳しかったですね。細かくは言わないですが、今だったら完全アウトなことも当時は当然のように横行してました。個人的に言われてキツかったのは、「やっぱり、大卒じゃないときついか」かな。要するに、ただ単に私が頭が悪いと言いたかったのでしょうけど、その言い方は、なんか人生を否定されたような気がしましたね。別に大学出てる出てないは全く関係ないじゃないですか。大学出ていなくても頭の良い人はいっぱいいるわけです。

楽しいこともたくさんありましたが、本当にキツかったです。20代終わるまでは、3~4日に1回家に帰れるかどうかみたいな時期もあって。もう、やってもやっても終わらないみたいな。基本的にOKなんて出るはずがないのに、やり直し命令は止まない、みたいな(笑)。

今なら分かるんですけど、組織には必ずいじめる人と、いじめられる人がいると言われています。一つの群れが出来ると必ずそこにヒエラルキーが生まれるためです。僕以外の人たちはベテラン揃いだったので、私にね、必要以上にね、やってくるわけですね(笑)。そのため、私の下が入ってきたり、私の上にいた人たちがいなくなったりすると、目に見えない形で昇格することになります(笑)。当然少しずつ力を付けていたとは思いますが、環境が変わったことで、その対象から外れたというイメージの方が強かったです。当時は何も勉強していなかったので、ただただ「変だな世の中は」と思いましたよ。あんなに厳しかった人が、あるときを境に、手のひらを返すように「〇〇さんお願いします」とか言いはじめるんですから、気持ち悪い違和感ですよね。でもそういうタイミングが来てくれたおかげで、すぐ辞めるで有名な僕が今日まで続けられているのかもしれません。途中、辞めるって最低でも3回は言ったんですけどね。それを止めてくれる先輩がいたり、何日も家に帰ってないことを知って、着替えを買ってきてくれる先輩がいたり、飴と鞭に翻弄されてました。

そういう時代だったんですよね。上下関係が恐ろしいぐらい厳しくて、やる気の搾取みたいにタダ働きみたいなことも沢山あって、もちろん相変わらずお金は全然貰ってないんだけど。それでも振り返ってみれば20代はとても充実していたと思います。特に面倒を見てくれた先輩は厳しかったですが、とても頭の切れる人でした。やっぱり天才はぶっ飛んだ側面をもっているものです。その先輩は、あれから違う会社に入って東京に行くんですが、すぐに皆さんもよくご存じの番組ばかり次から次へと携わるようになって、さらには新たな配信サービスも始めて大きな注目を集めています。北海道でもすごかったですが、東京へ行っても直ぐに頭角を現すところはやっぱすごいなと思っています。だからそういう人に教えてもらったんだなって今考えると、とても感慨深いです。

未来 : 僕、これだと思ったら基本的に、手に入るまで諦めないんですよ。

のの:5年後、10年後あるいは死ぬときまでを想像してみてもらって、未来についてどういったイメージをお持ちですか。

ドラゴンワン:未来ね。正直イメージがないです。イメージが全く湧かないです。心が躍るような仕事をしてたらいいなっていう感じかな。5年後10年後かはわからないけど、前向きに取り組めるような仕事が出来ていれば、幸せだなと思います。あまり先のことまで想像できてないです(笑)。

のの:本の出版っていうのは?

ドラゴンワン:そうなんです。本出すことにしたんですよ。そのきっかけとなったのは僕がもともと、本がすごく苦手だったことが影響しているんです。ちっちゃいときから漫画すら読めなくて。教科書もすごい突っかかりながら読む子供だったんですけど。それが災いして、24、5歳ぐらいの時、鬼軍曹と呼ばれたさっきの先輩が僕に「本を読め!」って言ってきたんです。大好きなドラゴンボールも途中までしか読めないぐらい本が苦手だったんで、「本を読め」って言葉に絶望して震えましたね。

その人の言うことは絶対でした。その当時はその狭い世界で生きてるし、もう自分には後がないと思っているので、何がなんでも従わなくてはならない主従関係にあって。薄い本から始めれば良かったのに、その当時、村上春樹の1Q84っていう長編小説が結構話題になってたんです。で、「何読んだ?」って聞かれたら困ると思って、とりあえずそれを買ったんです。でも、やっぱり難しくて、はっきり言ってほとんど内容なんて分かってませんでした。でも、とにかく最後まで読み切ろうって、とんでもない時間をかけて1冊を読んだんです。下手したら、1年近くかかってたんじゃないかなと思います。就寝前に2、3ページ読んだら終わり。550ページ以上あるその本をそんな調子でやってるもんですから、すごい時間がかかりました。

ただ、その人の言うことは間違ってなかったなと思いました。読み終わった後、人の話がすごく理解できるようになってたんです。まるで世界が変わっちゃって。本を読むだけで、こんなことになるんだって、嬉しくなって。嘘なく革命でした。だって僕は学校の国語のテストで、100点満点中20点取れなかったんですよ、国語なのに(笑)。試験中に手挙げて、「この問題の聞いてる意味がわかんないんですけど?」って言って、「それは先生教えられないな」って返されて、恥ずかしい思いをしたこともありました。

そこから本を読むのが習慣になって、よくフィクションとかを読んでたせいもあってか、そのとき「文章」っていう世界にすごく魅力を感じたんですよね。

例えば、映画とかテレビは、自分が作りたい世界を思いついても、いろんな人に手伝ってもらって映像にしなければ、その世界観を作れないわけじゃないですか。でも本だと、誰にも手伝ってもらう必要がなく、自分の中にある世界観を、たった1人で作れるってことなんです。それに、この時気づいたんです。

のの : はい。

ドラゴンワン :それが確か26歳のとき。それで小説を書こうって思ったんですよね。でも、いざ書いてみようとは思ったものの、時間をあまり作れなかったり、書く気持ちにならなかったり。小説を書くという途方もない作業は想像以上に大変でした。そんなこんなでしばらくほったらかしになり、30歳のときに、締め切りがないと、人って動かないよなと思って、コンテストへの応募を決めました。期日に合わせて死ぬ気で書いて応募しました。それが2016年のときでした。僕の場合、いろんな物語を描きたいというよりは、書きたい小説があって、その世界を書ければいいという感じなので、そのコンテストがダメでも、どんどん手直ししては応募を繰り返していました。そして、去年のコンテストで、初めて良いところまでいけたんです。ここまで何年も同じ作品に関わっていたので、正直疲労を感じていました。そこで、もう満足にしよう!自費でもいいから出版しよう!と決めました。そこから、なるべく条件に合う出版社を探し、今年3月契約、11月出版です。
内容はフィクションのヒューマンドラマで、テレビ業界の話です。
話してて分かると思うんですけど、僕は構成が苦手なんですよ。国語ができなかったこともあって、話の組み立て方が下手。今でも課題です。

のの:もしもの質問をさせていただきたいんですけど。もしもドラゴンワンさんが、テレビの制作の仕事に出会ってなかったら、どういう人生になっていたと思いますか。

ドラゴンワン:ちょっと思いつかないですよね、なんか僕、これだと思ったら基本的に、手に入るまで諦めないんですよ。時間がかかっても。だから、もしあのタイミングでテレビの仕事に就いていなかったとしても、別のタイミングで多分目指してたと思うので割と今の人生にあまり後悔はないですね。いや、やっぱり後悔はいっぱいあります(笑)。ただ、その後悔も含めて今の自分を作っているので、それらには感謝しなきゃダメですね。

のの:最後に言い残したことはありますか。

ドラゴンワン:話は戻りますが、パニック障害は乗り越えられるということ。もし、パニック障害を抱えている方で、リハビリがうまくいっていない方、絶望されている方は、私も同じ気持ちでしたので、ぜひTwitterからでも気軽に連絡してください。医者には、一生付き合っていかなきゃいけないなんて言われましたが、嘘です。こうして私は様々なことが可能になってきています。一度でも皆さんとお話できたら嬉しいです。
そして、私の書いた小説が11月に出ます!どうか、皆さんに少しの余裕がありましたら、力を貸してください!そして!良いも悪いもレビューしていただけたら涙です。

【商品情報】
カラーバーボーイ/ドラゴンワン(文芸社)
価格:600円(税抜)
※電子書籍は540円で12月末に発売予定。

<あらすじ>
テレビで一目惚れしたタレント「さくら鈴」と結婚できると信じて疑わない森口健太郎は、とにかく彼女の視界に入ろうとテレビ業界の道を志す。しかし、クリエイティブと呼ぶには余りにも人間臭い世界に、転職を考えるのがほぼ日課。しかも、彼女を一度も目にすることなく10年。「不純な動機で勤まる仕事じゃない」と辞表を出した日……森口の運命は転がり出す。

紙書籍は、全国どちらの書店からでもお取り寄せできます。
ネットでは、amazon、Rakutenブックス、e-hon、7-net、Honya Club、紀伊國屋WEB STOREで
予約・注文ができます。

あとがき

パニック障害と聞くと、みなさんはどんなイメージをお持ちですか。私は、友人がパニック障害になるまで、この病気のことを名前は知っていても、どんな症状があるのか分かっていませんでした。友人が近くで苦しんでいるところを見てきて、言葉では表せないほど辛い病気であることを知ったのですが、まだまだ分からないことのほうが多いです。心の病気ってきっと自分は大丈夫と思っていてもなってしまうものだと思います。もし身近な人がなったら、綺麗事かもしれないですけど、寄り添える人でありたいなと思います。今回すごく貴重なお話が聞けました。ありがとうございます!


【インタビュー・編集・あとがき:のの】

【文字起こし:クイナ】

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