見出し画像

無名人インタビュー:約50年間、自己肯定感がゼロだった人

つまり? これは? どういう? 自己肯定感という言葉がSNSを踊る。なにを言ってるのか、あなたが考えていることじたいがそもそも、ある、生きている、肯定だろう。
それなのに自己肯定がないって感覚はなんなのだろう? つまり? それは? 自己を否定する感覚のあることを自己肯定感がないって言ってるんじゃないのかな、っと思ったりした。
まあ、たかが言葉。
地球上でもっとも無名人インタビューの文字起こしをしている人、有島さん回をどうぞお楽しみにしてくださいね。

今回ご参加いただいたのは 有島緋ナ さんです!
Twitter

1、自己肯定感

qbc:どちらで無名人インタビューを知っていただいたんでしょうか?

有島:noteにスキャット後藤さんという方がいらっしゃるんですけど、スキャットさんが運営しているサークルがございまして。

こちらですね!

有島:サークルのコメントでこのインタビューを受けたという方がいらしゃったんですね。私、インタビューなんて一生受けることはないと思って、どんな感じなんだろうと、本当に興味本位で申しこみました。

qbc:あーなるほど。それで音楽関係の方の応募がつづいたんだ。オッケー。

有島:でも、私は別に仕事で音楽をやってるわけではないんですね。Twitterのフォロワーさんつながりなどで、たまたまスキャット後藤さんを知ったんです。
で、noteのサークルをやると聞いて、私みたいな素人でもいいんですか? って聞いたら、オッケーだって言われて。サークルに私だけ一般人が紛れている感じですね。

qbc:なるほどなるほど。では、どんなインタビューにしていきましょうか?

有島:今、よく自己肯定感っていう言葉を耳にしたり目にしたりするようになったと思うんですけども。私、それがまったくない人間なんです。ずーっと。もういい歳なのに。
でも突然、ここ何年かで急に自己肯定感が形成されてきたんですよ。きっかけがいろいろ重なって、こういうインタビューに応募なんて大それたことをするくらいになりました。自己肯定感って言えるのかどうかわからないんですけれど、そのお話をしてみようかなと。

qbc:自己肯定感がないって、どんな感じなんでしょうかね?

有島:私は関西の田舎の出身で、芸能人で言うと斉藤由貴さんが同い年なんですけど、うちの親が戦前生まれです。昭和12年とか13年とかで今、80代なんですけど。
両親二人とも田舎ですごく貧しく育った関係で、いろいろ「こうしなければならない」みたいな思いがいっぱいある親でした。とても保守的な土地でしたし。
今思うと、私、妹と二人姉妹なんですけど、長女っていうものに対して、「こうしなければいけない」とか「こうでなければならない」とかっていうのがすごく多い親だったんですね。

qbc:なるほど。

有島:私、選ぶっていうことができない人だったんです。東京で就職したんですが、同期でお昼食べに行ったりするじゃないですか。みんなそれぞれ好きなものを頼むんですけど、私、そこで何を頼めば良いかわからなくて。誰かが頼んだものとか、そういう別の理由で決めるしかないっていう人だったんですね。そこが一番顕著なところでした。
そこから自分が決めるっていうこと、本当に自分で好きなものとかを決めるっていうまでには、10年ぐらいかかったと思います。

qbc:なるほどー。

有島:良く言えば考える必要がなかったんですけど、悪く言うと考えるっていう学習ができてなかったんです。
自分がどう思っているかとか、ちょっと極端な話で言うと暑いか寒いかとか、好きか嫌いかとか、食べたい食べたくないとか、そういうことを自分でまったくわからないまま大人になってしまい。ただ、就職のときは地元も大阪も全部落ちまして、東京だけ数社内定いただいて、消去法で東京へ出てきました。
もしそれがなくて地元で就職していたら、おそらくこの人生は終わりまで、ずっとそんな状態だったのかなって、今思ってます。そんな感じでずっと生きてきてしまったので、簡単にはすぐ変えられないし、そもそも気づかなかったんです、私はそこが他の人と違うっていうことに。

qbc:なるほどね。

有島:たとえば服を選ぶときも、自分の好きな色がよくわからなくて、10年ぐらい前までけっこう太ってたので、黒とか紺とかとにかく目立たない色を着てました。
逆に妹は、子どものころから細くていろんな服を着てました。だから二人並んでると、誰も姉妹だってわからない感じだったんですね。
妹はわりとなんでも必ず買ってもらえるタイプでした。うちの両親にとっては下の子どもというのは、とかく見落とされがちで構ってもらえないっていう認識だったんですよ。
私は長女だからおいといて、選択権はすべて妹にあった。二つ何かものがあったら、決定権はすべて妹。私は残ったものをいただけるだけ良いっていう感じ。1個しかなかったら妹。
家の中で、そういう区別がすごくはっきりしていましたね。

qbc:なるほどなるほどなるほど。

有島:あと、お金のかけ方とかもだいぶん違ってたんですけど、まあそれは親の考え方なので仕方ないって。私はそれが当たり前だと思っていまして。でもやっぱりどっかで疎外感がありました。自分を一番下に置いて過ごしてきたんです。
今、私53なんですけど、6年前の夏に体調を崩して、派遣の仕事いったん辞めて、家に引きこもっていました。仕事が決まるまで一ヶ月くらいだったと思うんですけど、その間にYoutubeを観るようになりました。そこであるバンドのアルバムの発売記念の生配信の動画がYoutubeに上がっているのをたまたま見つけて観たんです。それがきっかけで彼らのファンになって、一人でライブに行ったりしました。そのバンドは私の一回りぐらい若い人たちなので、若いファンの方の邪魔にならないようにとか考えながら行ってましたね。

qbc:なるほどですね。

有島:そのバンドのボーカルをレッスンしているボイストレーナーの先生がいらっしゃって、その方のお弟子さんもクラスを持っていることは知っていたんです。興味はあったんですが、ただ私にはボイストレーニングなど一生縁がないと思ってました。
でも、一昨年の3月に「作詞と言葉のレッスン」という授業が開始されると告知があったんです。私は、小学生のころからすごく内気で内向的な性格で、他人とうまくやれなかったので、一人で教室で詩とか書いてる人だったんですね。だから、人生で一度くらいは先生に習いたいと思いまして。

ボイストレーナーのりょんりょん先生です!

2、ボイストレーニング

有島:でも、思い切って申し込みました。私でも良いのかなって思ったんですが、4月から月に一回、その教室に通うことになりました。
だから最初は「作詞と言葉」だったんですね。なぜボイストレーニングに行ってみようと思わなかったかっていうと、自己肯定感が低いっていうこともあったんですけど、高校一年のときに合唱部で、いくら練習しても息が漏れてうまく歌えなかったんです。ちょうど同じような症状の先輩がいて、その先輩が声帯ポリープだったんですよ。

qbc:はいはいはい。

有島:それで、もしかしてって言われて、田舎の開業医のかなり年配の先生のところに診てもらいに行ったら、声帯って閉じて震わせて声を出すんですけど、私の声帯は生まれつき隙間が空いていて、息が漏れるのは生まれつきだから治せませんって言われたんです。
要するに、声を出すことは、あなたはできませんっていう宣告だったんです。高校は、一応周りの方の理解があって合唱部に入れたんですけど、それ以降はもう諦めたんですね。しゃべることも歌うことも私はできないんだって思って。
それで何十年か過ごしていました。

qbc:はいはいはい。

有島:その教室へ行くようになった当時、私は裏声でしゃべってまして、そうすると息をたくさん使うんですけど、全然声が届かないんです。自分は骨伝導で音を聞いてるのですごく響いてるんですけど、相手の方に全然聞こえてないっていうことがずーっと何十年も続いていて。
そんなときに、りょんりょん先生が、生徒の悩み事を聞いてくれるイベントがあったんですね。私それに応募して、どんな声の出し方をしたらもっと楽にしゃべれるでしょうか、という相談をしたんです。他の方は歌を披露したりとかして、こういうところが良くなくて、ここは良いですねとか、そういう話をしてるところに、私はしゃべり声の相談だったんです。そしたら、りょんりょん先生が、「この音を出してみて」とか言ってくださったりして、そのうち「歌えるんじゃない?」「医者じゃないから断言はできないけど、やれるんじゃない?」って。その一瞬で、涙がダーって出まして。ダメだと思っていたんで。それだけじゃもちろんわからないので、私の講師の先生に声の専門の病院を紹介していただいて。ちゃんとファイバースコープで声帯を撮影していただいたら、「生まれつきなんて何もないです」って言われたんです。ただ癖がちょっと強いだけというか。高い声になると、癖らしいんですけど、閉まらない、そういう癖がありますってことで。すごく冷静に言われまして。私、生まれつきじゃなかったんだっていう。すごい複雑な気持ちだったんですけど。
それを私の今の講師の先生に報告したら、すごい喜んでくださって。私じゃなくて、その先生が「良かったですね」「歌えますよ」って喜んでくださって。

qbc:なるほど。

有島:私、人にそういうふうに言われたことがなかったんですよね。自分のことのように喜んでくれるとか。
私の親って、なにかあってもどっちかっていうと否定的だったりとか、世間ではこういう見方もできるから喜んでばかりはいられないっていうタイプだったんです。
だから私もそういう人間になってたんです。周りの人がそういうふうに言ってくれたことって、今までにも、もしかしたらあったのかもしれないんですけど、いやいやお世辞だよねって思いなさいって親から洗脳されてたんで。そういうふうに思ってばっかりだったんです、でもそのとき初めて「私、それを真に受けても良いのかもしれない」って思って。
そのうち、作詞のレッスンだったんですけども、コツコツやってるうちに、基本的なことはもう教えることはありませんって言われるようになりました。なので今度はこういうテーマで書きましょうとか、こういう募集があるから応募してみたらどうですかとか言われるようになりました。

qbc:あら、ボイストレーナーの先生ですよね?

有島:先生はですね、カタカナで「キミノオルフェ」で検索していただくと出てくるんですが、その蟻さんが私の先生です。

蟻先生!

「作詞と言葉のレッスン」です!

有島:そして蟻先生の師匠のりょんりょん先生がが佐藤涼子先生といいまして、そのスクールの経営もされています。Mr.Childrenの桜井さんとか、SEKAI NO OWARIのボーカルの方、深瀬さんとか、それにLiSAさん、すごいビッグネームの方が生徒なんです。
その佐藤涼子先生が「歌えるんじゃない?」ってひとことおっしゃったんです。私の先生は蟻先生で、お医者さんに診てもらって、そういう診断でしたって報告したら、私は複雑だったんですけど、先生は真っ直ぐ「良かったですね!」ってすごいハートマークで返ってきて。
そこから自主的に自己肯定感を持ってもいいのかなって。自己肯定感っていう言葉じゃなかったです。もうちょっと自分っていうものを認識しても良いのかなと思いはじめて。

qbc:それは何年の話ですか?

有島:2018年です。4月から「作詞と言葉のレッスン」に通いはじめて、7月ぐらいに佐藤涼子先生にそれを言われました。
そのあとは相談しながら、両足でどういうふうに立ってとか、足の力どこに入れてとか、お腹のどこを使ってとか、ボイストレーニングもしていただくようになりました。

qbc:今ネットで検索したんですけど、この佐藤先生、ほんとすごいいろいろな方を教えてますね。

有島:なんか、びっくりしました。長生きして良かったなと思って。
私、実は小学校五年生ぐらいから、けっこう自殺願望があって。実際にやってはいないんですけど、いつ終わっても良いぐらいにずっと思ってたんですね。ずーっと惰性で生きてきたんですけど、初めて一昨年に生きてて良かったって。
そこからもうちょっと自分に正直にっていうか、自分が思っていることとかを言っても良いのかなと。ずっと周囲に合わせてばっかりだったので、多少は自分の思っていることとか考えてることを言ってもいいのかなとか思いまして。今はむしろそうなってからの方が、いろんな方のお話とか全部肯定的に伺うことができるようになって、すごくびっくりしています。

qbc:教室自体の存在を知ったきっかけって、なんだったんですか?

有島:佐藤涼子先生のTwitterは前からフォローしていたので、それで告知を見て、これだったら、一回くらい習ってみたいと思いました。歌じゃなければ、私も受けても良いと思って。もしたとえば年齢的に無理とかだったら、きっとやんわりお断りになるでしょうし、よくあることだしって思って。それで応募してみたんです。けっこう勇気出して。

qbc:佐藤先生をフォローしたきっかけっていうのは?

有島:それは、前から佐藤先生のお名前って見たことあったんです。昔合唱やってたので。あと、体にこういう簡単なことでこうすると冷え性の方とかに良いですよとか発信してらっしゃるので、ちょっとちらっと見ていたのと、私がSIDというバンドのファンなんですけど、ボーカルの方が佐藤先生のトレーニングを受けているっていうのを聞いたことがあったので、その二つが重なってフォローしはじめたんです、

qbc:なるほど。ちょっと戻って、佐藤先生に「歌っていいんだよ」て言われた時の気分をもうすこし詳しく教えてください。

有島:どっちかっていうと、戸惑いました。三十何年、お医者さんの言ったことを信じて生きてきたので、私はそれをやってはいけないことだと思っていましたし。要するに壊れた楽器っていうことじゃないですか。そのお医者さんに宣告されたこと。
壊れた楽器は、どうやっても壊れた音しか出ないわけで、そこですごくいろんなことを諦めていたので。ちょっと呆然としたっていうか、どっかでやっぱり歌が好きっていうのがあって、歌えないけど歌は好きっていうのがあって。だからすごい涙出ちゃったんだと思うんですけど。
後で家に帰って来てからのほうが泣いてました。帰って来てから初めてうれしいってわかったっていうか。その瞬間は複雑だったし、ずっとつかえてたものが外れるかもしれないっていう希望と、でもダメかもしれないっていう複雑なところもあって。やっぱり光明はうれしかったっていう感じですかね。そのときはなんとなくぼやんとしてたんですけど、家に帰ってからワッて涙出ましたし、うれしくなったり。また講師の先生からも「良かったですね!」って。で、お医者さんに行くことになったので、なんか「あ、本当なんだ」みたいな。
たぶん反応が遅いんです、いつも。何かあってもすぐに感情がわからなくて。祖父とか祖母が亡くなったときも、半年ぐらい経ってから突然悲しくなりました。
あと、体の調子とかが悪くてもすぐにわからないタイプで。痛みもあんまり感じないです。だいたいなんでも我慢してしまって、それが良しとされる家で育ったので仕方ないんですけど。とにかく鈍感なんですね。自分がどう感じているかとかがあんまりよくわからない。

qbc:自己肯定感が出てからも、痛みには鈍感なんですか?

有島:そうですね、痛みとかには相変わらず鈍感。

3、リヴァイバル

qbc:今後、どうしていきたいとか、そういうふうなイメージってありますかね?

有島:Youtubeとかで、今よりもちょっとマシなレベルで「歌ってみた」をやるのが目標です。まだ、全然低いところでも裏返ってしまうので、全然まったくひどいものなので、
まだできないんですけど、躊躇なくアカペラで「歌ってみた」を毎日ガンガン上げていけるようになれたらいいなと。あとは、11月末で仕事を辞めたので、今、求職中です。

qbc:どんな仕事をやりたいですか?

有島:まあ、とりあえず私ができることならなんでもいいんですけど、もしできればと思ってるのは、たとえば自主制作で小説を書いてらっしゃる方とかの校閲ですね。「て」「に」「を」「は」とか漢字とか、ここの文章がおかしいとかっていうのを頼まれてちょっとやったりとかっていうことをしてるので。今、ココナラには出してるんですけど、そういうので何かお手伝いできる。あ、そっちは本業じゃなくても良いんですけど。基本的に食べていくための仕事は、どこか、もし私の年齢でもあれば、どこかに潜りこみたいなと思ってるんですけど。あとは年齢との戦いかなと。

qbc:何をしているのが一番楽しいときなんですかね。

有島:そうですね、生みの苦しみはあるんですけど、自分の言葉で詩を書くこととか、教室の先生と話をしたりやりとりをするだけでも、すごく楽しい。
あと、この二年間にファン友達になった方と、良い友人関係を続けて行けたらなって思ってます。その前はずっと一人で行ってたので。その方たちとは、比較的良い感じの距離感でお話ができるので。
もっと他の音楽でも全然違う分野でも良いんですけど、いろんな方とあらためて話をしてみたいっていうか、知りあってみたいっていうか、いろんな方の悩みとかうれしいこととかを聞いてみたいっていうのはあって。そういうのは、まだ健康寿命があるうちにできれば良いなと。今まで私、いつもへりくだってしまっていたから、ちゃんと聞けなかったんですね。なので、もっとちゃんと対等って言ったらちょっとおこがましいんですけれども、もうちょっと、今の自分だったら、どう話ができるのかなとか、そういうのを見つけて行けたらって。すごくレベルの低い、恥ずかしいんですけど。

qbc:いえいえ、とんでもない。

有島:なんで生きてるんだろうぐらいに思ってたのが、今は、生きてて良かったになって。
健康寿命があるうちは楽しいことをしたいなって。前は楽しいことしたいとは思ってなかったので。そう思っちゃいけないと思ってたんです。

qbc:すごいなーと思ったのは、先生のひと言で、瞬間的にぽんって変わったところですね。

有島:そうですね。おそらくそれがなかったら、その後がなかったので。ものすごく大きなターニングポイントでした。
そもそもはその教室に行ったところがはじまりなんですけど、もっと遡ると6年前にYoutubeで歌とか音楽じゃないしゃべってる番組を見たところからはじまっていて。
若い方にもし伝えられることがあるとしたら、この歳になってもそんなことがあるよっていうことを伝えたいです。すごくしんどくて、私も死にたいとずっと思ってたし、なんで生きてるって思ってましたけど、案外、半世紀ぐらい生きたらお返しが待ってたりするよ、みたいなことも。もちろん100%じゃないですけど、運って絶対あるので。
それはだから、運が良かったほうかなって、今は思ってます。ずっと運が悪いと思ってたんですけど。

qbc:へえー。いや、すごいなと思って。50年近く凝り固まってきたものがね。

有島:突然変わったっていうか、急に世界が開けたっていうところまでいかないですけど、世界が変わったって言ったほうがいいかな。
佐藤涼子先生のひと言が大きかったですね。「歌えるんじゃない?」っていう言葉はすごく、今思うと、私にとっては一番うれしかった言葉だと。もしかしたら、生涯で一番うれしかった言葉かもしれないです。
なので、今はカラオケで月に一、二回はひとりカラオケに行って、地声で出る音域がちょっとずつ増えていってっていう楽しみを味わってます。いくつになっても、進めることがあるんだなって、幸せだなって思います。今、無職なので仕事については困ってますけど。

qbc:最後に、伝え忘れてしまったことがあればお伺いしています。

有島:本流からそれますけれど。うちの親って厳しかったというより、今でいう毒親に近かったと思うんですね。中学一年まで、私、叱られると、すごくエグい話ですけど。父親はしてませんけど、母親ですけど、着ているものは親が一生懸命働いて買ったものだからって全部脱がされて、外へ放りだされてたので。
たぶん今だと虐待で通報されると思うんですけど、なので、頭のある意味硬い親だったから、仕方なく私がそういうタイプになってしまった可能性もあるので。自分で決められないとかっていうところは。なので、離れて、社会人になってからすごく時間をかけてやっとここまで来たっていう感じで。

qbc:すーごいですよね。それはね。

有島:今思えば、ギョッとしますよね。絶対できないなと思いますけど。そういうのは、裏にあります。あとは一回結婚して離婚してます。やっぱり人を見る目が育ってない。もう三年目ぐらいからダメかなと思ってましたけど、七年目ぐらいになって向こうからの円満離婚でした。そのとき40ぐらいだったんで、正規での雇用は望めなかったですし、非正規でずっとやってきて。直近も契約社員。たぶんこの後もおそらく派遣か契約社員かなっていう感じ。体が動くうちは、がんばって働いていこうかなっていう。だから、経済的には先の見通しは暗いんです。
ですけど、私にとって、この人生を見てみると、今が一番幸せ。だからすごく変な感じなんです。昔の自分の基準でいうと、今、すごく不幸せなはずなんですけど、でも精神的には今が一番幸せです。そこが大きいかな。

qbc:そうか。

有島:いろんな方に出会うことができて、すごく運の良い人生の後半。終わりかけの人生です。

qbc:抑圧された女性か。

有島:男性はむしろ逆に、ゲタを履かされて、辛い思いをなさっているでしょうし。むしろこれをやりたかったけど、それは男の子はしちゃだめとか。そういう方もいらっしゃるみたいですし。

qbc:そうね。おもしろいですね。ありがとうございました。

有島:ありがとうございました。

あとがき

自分の性格は誰の責任か? 親か? 自分か?
むつかしい問題だ。むつかしくない。責任という概念がやっかいなんだ。責任があるからその人が問題を解決するという、ほとほと法律概念が邪魔をして、わたしたちに本当は何をするべきなのかを教えてくれない。
自己肯定、責任、そういったことと自分が楽しく生きることは無関係なのに、それを関係あると思ってる人がいる。というか、そう関連づけてしまう人たちはみな不幸なのだ。
そもそも、誰かの何かで動いている人たちに幸福はおとずれない。
次回は、私自身の人生を問いかける回になるのかもしれません。

編集協力:有島緋ナさん

マガジンで過去インタビューも読めますよ!

インタビュー参加募集!

この記事が参加している募集

自己紹介

いただいたサポートは無名人インタビューの活動に使用します!!