柴又リフレイン


柴又帝釈天。帝釈天とはインドの神様であるインドラの別名のようだ。調べるまで全然知らなかった。名前からしてめちゃくちゃ強そうな神様である。インドラについての説明は省くが、武の神様らしい。そんな帝釈天をなぜ柴又で祀っているのだろうか。謎が深まった。時間がある時に調べたい。自分も柴又に行った暁には、武の神である帝釈天に参拝し、柴又帝釈天パワーを頂いて最強の人間になろうと思う。

楽曲「柴又」はおいでよっ!柴又MADコンテストというコンテストそのものにはエントリーしていないが、その素材を使っているMADだ。その中に、「猫パート」と呼ばれるパートがある。それは猫の素材を使ったパートなのだが、猫の映像素材からどうしてそんな音が出るのかと不思議になる。猫パートは多くの人に受け入れられており、柴又リスペクト作品で猫パートが再現(音だけでなく猫の映像素材)が再現されていると、コメントで加点される。自分も猫パートのない柴又など柴又ではないと思う。


柴又についてつらつらと書き続けて3度目になったが、だんだん柴又というものがなんなのか分からなくなってきた。自分は柴又に何を求めて柴又に行きたいと願っているのだろうか。このままだと柴又に自分が取り込まれていく気がするのである。



柴又。柴又に行きたい。



柴又に行けるとしたら嬉しい。嬉しいのだ。とても。でも、ここまで柴又を追い求めて気持ち悪い文章を書くまでになってしまうと、柴又は神格化される。届かない存在であって欲しいという気持ちが膨らみ、今度は柴又に行きたくないと思ってしまう。この気持ちに名前をつけて欲しい。自分では安易に恋などと付けてしまったが、たぶん違うのだ。柴又という文字だけでも悶え苦しむような気持ちは恋ではないと思う。


傍から見ればただのおかしい人間かもしれない。実際におかしい。自覚はしているし、柴又から離れようとも思った。でも、ふと気がつくと柴又という文字を追い求めてしまう。やめられないとまらない。語彙力は普通だと思っているけれど、こうして文章を書くとどうしても語彙が足りない気がしてくる。柴又へのこの熱い思いを文章にするのは厚かましいし、無粋であるが、文章にしないことには誰かに伝えることが出来ない。自分だけで抱えておくには辛すぎる。


柴又……


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