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ヨギルスギル 〜 なにから書こうか。それが問題だ。

前回、自己紹介のようなことを掲載して、ここからが本文としてどんどん書いてみたいとは思うのですが…

さあ、なにから書こうか。それが問題だ。


てきとうに書き出してみては消してを数回繰り返しあれこれと思案しながらも、こういうほうがウケるかだとか、ああいうことは書いたら叩かれるかなだとか、同時に出来栄えや演出的な要素さえも頭を過る。いい人や面白い人などに思われたいが、それよりもただ自分らしく自由でありたい。そして結局、なにも書けないまま時間が過ぎる。 —— いまパソコンでタイプしていて、この「ヨギル」と「スギル」が同じ漢字なのだと、恥ずかしながら、実はいま始めて知った。

ここですぐ検索をしてしまう。そうすればヨギルスギルについての知識をすぐに得ることができる。パソコンを触り始めてから現在ではスマホまで、いつのまにか調べることが直線的で短距離になり、問題や試行錯誤や想像よりも答えのほうがはるかに近く辿り着きやすくなった。(もっとも、その答えが正解かどうかは別問題であり、正しい正解に出会えるかどうかのテクニックやセンスはたぶん必要なのだろうと思う。あくまでも現在では。)


しかし、この「ヨギルスギル問題」においては、わざわざ検索という行為などをしようとは思えない。詳しく知りたいという欲求よりも上回って快感を得られる行為があるからです。それはただ、常にこういう「発見」の時は「関心」や「連想」という面白さを瞬間的に捉えることができて、私はそれが好きだ。

「ふむふむ、そうか、ヨギルというのはスギルことと同じ原理にあるのかもしれない」案の定、頭をよぎったことなどは大抵の場合は、喉元過ぎて熱さを忘れてしまうかのように、その場を過ぎてしまい、もう二度と却っては来ない。

そうだとするならば「ヨギル」とは、自分にとってあまり意味をなさない事柄だという結果になってしまう。果たしてそうでしょうか?では、なぜヨギル必要があったのだろうか?


そうであれば「ヨギル」とは、脳や思考の反射的な無駄な動きなのでしょうか? しかしそれが反射なら、身体における危険を回避するかのように、その無意識の動きは必要なもの。例えば、男性でも女性でも異性に出会った時に無意識にどうしても相手の顔や体の特定の部分を瞬間的に見ている。そしてなにかを判断する情報として処理している。これは反射ではなく「反応」であり、それらは無意識で行われる「本能」のような機能なのです。

「ヨギル」もそれらと同様に、なにかしらの必要性があるのではなかろうか? ただ過ぎていくだけなら本当に必要の無い無駄な機能になってしまう。もしくは「A」という外的刺激や情報が、つまりは答えである「F」にコネクトするまでの間に『A→BCDE→F』という具合に、どうしても「BCDE」を通過しなければならないのでしょうか。

そうであるならば、確かに「ヨギル」は、まさに「スギル」ということになる。しかし人間の処理能力はそんなに遅いとは思えないですし、じゃあ認知や把握する能力にしても瞬時の「A to F」の間の思考や映像や情報を認識するほどまでに速いとも到底思えないですし、またそれをバグとするならば、そんなバグを放置したまま人間は造られたのでしょうか。



『虫の知らせ』というものもある。例えば、転んだり落下したり、事故のような場面で、人間はスローモーションを味わうことがよくある。(あのスローモーションの理由についても、ここで検索してしまえば、教科書のような回答はすぐに得られるのだろうけれど)ある種の危機的状況において発揮する(作動する)なにかしらの能力(機能)だと言えることでしょう。

その緩やかな時間帯の中で、急所などへの怪我や衝撃をかわすことができる可能性も確かにある。そう考えれば、確かに生命維持のためのスローモーションなのでしょう。しかしながら、それが身体的に自分自身の中で起きているのか?はたまた、本当に自分の周囲だけの時間が変動しているのか?そればかりは、現代では調査は不可能に近い。

いやいや、ここでの本題はスローモーションではなく、あくまでも「虫の知らせ」について述べるための脱線話ではある。本題としての内容は、そのスローモーションは外側から見れば、ほんの一瞬の出来事に映ることでしょう。外と内とで「速度」が異なるのです。

この原理を、虫の知らせに当てはめてみるならば興味深い。ただ瞬間的に脳裏や思いの中を過ぎ去っていく「ヨギル」なのですが、それは本当に「瞬間」だと定義できるであろうか? そう、問題は速度なのです。そしてこの速度というのは、いかんせん曖昧で、外と内だけでなく角度や精度、環境、時には感情によっても変化してしまうものだと言えてしまう。

腹の虫なのか頭の中の虫なのか、はたまたその虫が体内の細菌や微生物のことなのか、またはなにかしらの可視化のできない別の存在なのか、そんなことは私は全くわからないですし、それは「虫」ではなくただの言葉であり表現だとすぐ決めつけてしまう人達は、学者さんなどの中にでさえ大勢いることでしょう。しかし、それは誰にもわからないのが本当なのです。ただまだ「発見」もしくは「証明」できていないだけのことなのです。

または、たとえそれが虫でなかったとしても「虫」と表現したのには、なにかしらの理由が絶対的に存在していて、それによって別のなにかを表現している可能性さえも限りなくあります。 たぶん、むずむずやわさわさや、そういったなんとも言えない落ち着かなさや戸惑いや気持ち悪さが胸や腹にあったのだとは連想するが、そう、まさに腑に落ちない感覚。丹田という呼び名もあるが、人間「腹に力」が入らねば、確かに気力だけでなくどこか頼りないものです。

それを「虫」に喩えたと言えば、現代人は納得するかもしれませんが、それでもまだまだ「虫」ではないという理由にはならない。というか、ここではそれが虫かどうかという話ではなく、その虫の速度が重要になってくる。

芋虫?羽虫?甲虫?どんなイメージがみなさんにはあるかも、これもまた人の数だけ異なり、きっとそれらの虫の数だけ、形態も動きも違い、それによって速度も異なることでしょう。


そもそも「ヨギル」という、無意識であって制御も不可能な、よぎっていく「なにか」とは、それは思考と呼んでいいのでしょうか? 「思考」というのは実に意識的なものな気がする。この「ヨギル」はたぶん思考とはいえない。たぶん何百年も前に誰かしらの哲学者や心理学者などによって「思考とは」という定義づけは既になされているとは思うが、これまた、それを検索してしまおうとも思わない。

前述したように、こんなに面白い愉しみを、検索などしてしまったら、みすみす失うことになってしまう。まぁ「ヨギル」という言葉は、このような使い方は誤りであることは承知の上だが、あてもなく正確さすら全くない「ヨギル」を止めたくない。

そう、このように「連想」や「妄想」でさえもそのように瞬間的なのです。ということは「思考」という概念こそが、本当は成り立っていない。それが人間だと言える。親や大人や教師でさえ「考えなさい」だとか「考える脳」だとか言いますが、人間の言っている「考える」とは、実は「行為」として意識下でどうこうできるようなものではないのではないでしょうか。

この件は、明らかに今回は別件になるので、また、未来の機会に触れることにしよう。私個人としては、子供の頃からこの件については捉えていた案件で「人間は“考える”ことはできない」とずっと思っている。

—— 話を戻して、そう「虫の知らせ」と「ヨギル」については、同じフォルダーに入れていい案件だと感じているのです。


昔から「女の勘」などということもよく言われますが、その「勘」というものの挙動。やはりそれもまた「ヨギル」に等しいと感じます。その勘こそを「虫の知らせ」だと定義する方もかなり多くいらっしゃると思いますが、それらとは異なり、たまに「予知夢」のような夢を見る方もいます。そんな「予知夢」もまた「勘」と同じでしょうか。

いや、少し違うかもしれません「夢を見る」ということは「見ている」ということですから、そこには『時間』が生じています。そう夢自体、夢の内容や物語ともいうべき夢の現実は、映画を観るように対象となる夢を視聴していると表せるのです。

とはいえ、実際は夢の不思議のひとつですが、数時間や時には数年の時の経過の物語などを、実は一瞬にして見ている場合が多々あるのです。睡魔に襲われコクリと一瞬だけ眠りに落ちてしまう時などにすごい情報量の夢を見ているという不思議な経験のある方はとても多いことでしょう。

その点においては夢も「ヨギル」ものとも定義は可能になります。しかし逆に、では「勘」や「虫の知らせ」は、夢のように『みる』ということは可能でしょうか? 個人差はあるかもしれませんが、ここでやはり重要になってくるのが『速度』なのではないでしょうか。


勘や虫の知らせの機能的速度が速過ぎるとも考えられますが、逆に「遅すぎる」と考えるなら、夢のように大量の情報をキャッチするには「勘サーチシステム」や「虫の知らせ機能」は適していないために、断片的な一部の情報を捉えているに過ぎないということになると思います。

睡眠という状態になってはじめて受信レベルを精細化が可能になるため睡眠時の夢は感覚的に「見る」という表現になり、勘や虫の知らせは「見る」ではなく「よぎる」という表現になり、その断片的な情報を繋ぎ合わせたり、連想したり、言語化したりする過程を人は表現のしようがなく「考える」という状態と仮定して経過を表し、そして「なんとなく感じる」や「どうしてもそう思える」などという不確かで且つ感覚的にはか確実的な言葉として表出するのではないでしょうか。

そうなると夢は全編で、勘は「予告編」だったり「見出し文」や「目次」だけだったりということになるのですが、それもまた違うと言えてしまいます。なぜなら夢も時に「断片的」だからです。

断片的な夢とは、目覚めてから一部を思い出せないとも言えますし、夢自体の展開が突拍子もなく飛んでいる場合もあります。そして人は起きてから、それらの断片を思い出したり、思い出せなければ無理やりストーリーを編集したりもします。そして、たまに「どうしても気になる」とか言って、夢の断片から何かを「得よう」としたり「気づこう」としたりします。

そう、結果的にはその「どうしても気になる」という、つまりは動的にこちらから情報を取得しようとしている行為だとも言えてしまうのです。ただ無意識下で、勝手に生じる「勘」や勝手に送られてくる「虫の知らせ」とは異なり、やはり夢は「見る」なのです。夢はヨギラナイ。

速度が異なれば、勘を見ることが可能になるのか? 虫の知らせがどんな虫なのかを確かめることができるのか? つまりはヨギラセナイことは可能だろうか。



例えば生前の記憶をすべて記録したクラウドのようなものが開発されたとして、問題なのは、そのメモリーの中には「ヨギル」は含まれているのかどうか?ということです。

もうこれはまさに「なんとなく」という妄想でしか無い話になるが、「夢」ならメモリーは可能かもしれない、なぜならそこに時間があるとも言えますから、視聴が可能なんです。しかし勘でも不安でもアイデアでも妄想でも本能でも「ヨギル」を記録することは、かなり難しいと思えてしまう。

そのクラウドメモリーに記憶や思い出が半永久的に残るのなら、もう既にそこが永遠のアバターワールドだとも言えてしまう。つまりは「死んでない」ようなものになってしまいますが、まぁ、そんな話もまた別の機会にいたしましょう。

しかしながら「ヨギル」がもしも記録可能だったならどうでしょう。—— いまの私ならこう思います。

大きなメモリーの中に「思い出アバター」的なデータ領域とは別の領域に「ヨギル」データ専用の領域がある。そしてそのデータはある法則に基づいてアバターに瞬間的に送られる。

そこには個々の経験(過去・現在・未来)メモリーとの連結により、人類などの全体の経験として、あくまでも根拠はないが、そのデータは個人専有ではなく「共有」として、つまりは「転ばぬ先の杖」的に利用される場合もあるが、その反対に「この先の大きな転倒に備えるための“杖はずし”」などにも使用される。

故に「人生」や「時間」のように『見る』や『読み込む』などの『タスク経験』が可能なデータではなく、直接に媒体にダウンロードされ、インプットされるものであり、ある意味でアップグレードや時にはダウングレードなどにも活用される。


—— このまま書き進めたならSF小説の設定やプロットが完成されるかもしれないが、話を戻しましょう。つまりは「ヨギル」は、それらのデータ領域にコネクトするというよりも、瞬時にデータが移行されるような「速度」という時間や重力や容量などの物理的な概念の無い感覚に近い情報。特に「勘」などはそう言える。

勘とは、自分の認識の領域に急に現れるのです。しかし、あくまでも感覚的な話だが、勘は急に現れるという表現ともうひとつ「勘は急に存在する」という感覚がある。なにか体内の胸の奥の奥のそのまたもっと深い領域から、まるで既に在るかのように「急に存在」して「急に現れる」ような。

確かに脳も動いているのは感じるのですが、内部の深い領域のその向こうにつながるような位置というか、それこそ胸の奥や「腑」や「丹田」などのような、ともかく体内の中の中の中からコネクトするイメージです。

また、異なって「虫の知らせ」は、なんとなくですが「脳」や「頭」への信号のような感覚を覚えます。謂わば「聴覚」のように、性能の良いサラウンドシステムやヘッドホンで3Dサウンドを聴くような、脳の中に立体的に音が存在する感覚。

映画作品や漫画などのテレパシー的な表現に近いかもしれませんが、耳元や、もっと言えば「脳内」に直接話しかけてくる感覚です。つまりは「内部から感じる勘」とは逆で「外部」から直接囁かれる、まさに言葉の通りに『報せ(知らせ)』なのです。

そのように展開していくと、じゃあその「知らせ」を囁いてくるのが『虫』なのかっていうことになりますよね。聖書ではイブをそそのかしたのは蛇ということになってますが、東洋的な思想で展開するならば「ご先祖様」かもしれませんし、日本的に言えば「八百万の神様」ともなりますし、それをまた西洋的に訳すのなら「精霊」や「妖精」かもしれません。

前述のSF的な話に併せるなら、勘は直接コネクトによるダウンロードですが、虫の知らせは「仲介者」が必要となります。コネクトセンターのようなオペレーターなのか、スマートメディアのような間接的な媒体なのか、いずれにせよ「仲介」となる報告者との『ご縁』が必須と言えます。

たまに先祖や知人が夢に出てきて何かを警告したり、現実においても、他者の言葉やふと目にした文字や情報などから、なにかしらの気づきやヒントをもらえたりするのも、そのような「ご縁」というコネクティスト達との繋がりによるものかもしれません。そう思うと、それがご先祖様なら確かにお墓参りも行きたくなりますし、神社などへの感謝の御礼参りなどもとても現実的に感じます。

キリスト教の教会では逆に「教え」とそこにあるのは「懺悔」ですが、それもまた神にコネクトする仲介者として神父様などが存在するのも納得です。現実世界にそれらのクラウド機能を具現化し、可視化したと言えます。

インドなどでの修行の境地とされる「悟り」や身体的な生命維持における窮地の果てに到達するとされる一種のハイエンドなトランス状態などは、そのコネクトを三次元の物理的な自分や自己が直接につながるための手段なのかもしれません。

そう思うと、いわゆる「悟り」とは『ヨギリ』を最大限にフル稼働して、クラウドと繋ぎっぱなしになった『ヨギリホーダイプラン』のようなものなのかもしれません。

でも、それってもはや、せっかくここに生まれたのに、ここで生きる必要をなくすために人生の時間を使っているようにも感じてしまい、なんか、要は、かなり端折っちゃいますが、この仮想の話の世界に当てはめるなら、それって要は「あぁー!はやくがんばってアバターになりた〜い!」って、そんな感じで、苦行をしているような…。ほんと、人間は十人十色千差万別の多様の万葉ですね。。。



しかし、きっとそこにも本当は意味や理由があるのですよね。ただ修行する人生。「Q.なんのために?」「A.宇宙と繋がるために」「じゃあわざわざ生まれてこないで宇宙にいればよかったじゃん…」などと思ってしまう方もいるかもしれませんが、きっとちゃんと意味も理由も必要性も、そこにはあるんです。

それを「わからない」のか「まだ知らない」なのか、はたまた「知らないことを知らない」のか「知っていることを知らない」のか、ただ「忘れている」だけなのか?

または、「忘れていることが大切で意味がある」のか? そうなると、「忘れて生まれて思い出すために生きる」のようなタスクが人生ということにもなります。


しかし、こんな根拠も正解もない話を延々と徒然と綴っていることも、他者から見れば意味不明なことでもあるのでしょうし、また、このような長文をもしも、昨今のSNS馴れした方々が読もうものなら、それこそが苦行となることでしょう。

しかもその結果、ネット検索のように「答え」は書いてないのですから。

もっとも、このブログサイトに行き着いた時点で、そういう方は、なにかしらの危機感や不安感などが「ヨギル」ことでしょうから、無駄な時間を使わずに済むことでしょう。

すみません。私自身も長くなり過ぎて、途中なんども中断したこともあり、もう収拾も修復も不可能ですので、このへんでほったらかします。

このような内容をはじめ、他にも書こうと思っていることはあります。ただ、最初だからこそ、このような書き殴りものをあえてただただ徒然と書き出してみましたが、こんなまったくもって実に誰のためにもならない話です。こんな私ですが、実は思っていることは「誰かのお役に立てたなら」なのです。

20210219



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