吉行理恵の詩をめぐって。「目はあけたまま夢をみるひと」

 いまどこにいるの、ともし問われたら、あなたはすぐそばにあるものや、目の前の風景を手がかりに、自分の現在地を人に伝えるのかもしれない。けれど永遠に失ってしまったもの、すれ違い続けるものを一つひとつ手探りで数えあげてゆくことでしか、人が魂と呼ぶものの居場所は見えてこないのではないだろうか。

 詩人で作家の吉行理恵(1936~2006年)は、第一詩集『青い部屋』において、詩人としての出発地点はここだ、と示すかのように、現実や他者との接触の不可能性や摩擦を全身で探り、彼女自身が生きのびる場所を影絵のように彫りあげた。本書のなかには、過去の実体験を題材にした作品もあるが、少女期に抱えていた周囲への違和感や不安は、過去の感傷として閉じられてはいない。詩のなかの摩擦はつねにいまここで起こり続けている。

 たとえば、表題詩では、「むすこをかえせ むすこをかえせ」とわめく「気の狂(ふ)れたばあさん」の声が最初の連と最終行に現れるのだが、「わめき」が迫る瞬間のなかに私は閉じ込められたまま、詩は終わってしまう。 作品「つり船」にいたっては、「つり船は消えたのです」という喪失の確認を執拗に三度も繰り返し、船を刻々と失い続けているのは、現時点の私であることを自らに教えている。

 何も持たず、どこにも行けない。読むこちらに緊張を強いるほどに逃げ場を持たない「私」は、「現在」に留まり続ける。このようにひどく切迫した足場のうえに「私」を置いたまま、「私」の分身である作者はどうやって書き続けてこられたのだろう。この詩集を初めて読んだとき、読み手である私もまた行き場を奪われたように困惑した。

 しかし一冊の最後に収載された初期詩篇「むらさきの」に行き着き、ふっと何かがほどけるのを感じた。別の種類の目がそこには潜んでいた。

知っている?
小さな私のふるさとを
暗闇の中に幽かな光にいろどられる
水たまりの世界を……
そこはむらさきいろのはらっぱ
うちあけたこころをそっとうつす水鏡
はりつめた胸はやわらかい歌声にかわる
笹の葉舟は郷愁の家

 「私のふるさと」と呼ぶほどに慕わしい「水たまりの世界」は、他者との接触に緊張した「こころ」が、外の自然へとやわらかく開かれる、唯一の調和の場として描かれている。そこには、彼女とすれ違い続ける現実と、彼女の内側の真実、つまり夢との交流がある。

 現実と夢を同時に映すのは、優しい「水たまり」だけではない。同じく初期詩篇の「ある会話」の最終行、「目はあけたまま夢をみるわ」という決意の宣言によって、彼女自身の瞳もまた、夢と現実を分離しない水面であることが分かる。

 夢を映す目の水鏡は、現実にひたすら背を向け、自身の狭い内側で萎れてゆくのを待つ自己愛の変形ではない。夢のイメージを現実へと送り込み、それら二つの世界の皮膜のあわいに魂の新しい居場所を見出そうとする、生命の装置なのだ。

 幼い頃の理恵は、靴下の小さな穴を見つけて「靴下が痛いよう」と泣き、赤いポストが色褪せていると「ポストが枯れている」と悲しんだ、と母親のあぐりが語っているが、こうした目を詩のなかでずっと手放さずにいることを理恵は自分に許したのではないだろうか。弱さではなく、生きのびるための強さとして。

 初期詩篇で手に入れたこの目は、第二、第三詩集では、よりのびやかに発揮されている。

 夢の世界の目に導かれ、「私」は、「飛ぶ」「舞う」「駆ける」「人形と話す」「星の光を手繰る」といった夢のなかの動作を身につけ、より軽さをまとうために「裸足」になり、「精霊」に姿を変え、果てには「精霊」をも脱ぎ捨て、「脱殻」になってしまう。そこまで純化されたからだを手に入れようとしたのはなぜなのだろう。

人形を焼いてしまったから
鳥が還ってきたことを
小指でおはじきをはじいているような可憐な声で
三日月は、私に話しています

(「夢のなかで」より)

 それは、ここに現れる「三日月」のような、言葉を持たない生きものたちと同じ軽さとなり、彼らの囁きに耳を傾けるためだったのではないだろうか。

 夢とうつつを軽々と行き来する「私」の身振りを合図に、彼らの魂も呼応して動き出す。「秋の葬式」と題された詩に、そんな美しい交歓の瞬間を見ることができる。

マッチを擦ろうとするときに
薔薇の香がするでしょう
それから
水色の翼をかがやかせて
鳥が 舞いあがるでしょう
それは死んだ麒麟と 落葉たちの魂です

 「マッチを擦る」身振りは、秋の感傷や追憶の代弁ではない。ただ、そうすることが楽しくてたまらない、といった、子どもの頃と地続きの身体の快楽そのものなのである。そうした体感が純粋であればこそ、周りの自然は共鳴し、真の姿を現してくれるのだろう。

 第一詩集に強く見られる他者との厳しい不和は、もうここにはない。自らが生きのびるために獲得した夢のからだは、ほかの生きものにみずみずしい魂を吹き込むまでに、いつのまにか高められていた。

 「目はあけたまま夢をみる」ひとは、どんなに孤立しようとも、優しいしぐさに応える命に向かって、言葉を発し続けていった。

 永遠に生き続ける夢の言葉のもとで、孤独な魂たちが結ばれ合う瞬間、読み手であるわたし自身のほんとうの居場所もまた、見出されるのかもしれない。その一瞬にめぐり逢えること。それは、吉行理恵を読む、尽きることのない喜びのひとつだろう。

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※『江古田文学』第73号(2010年3月発行)に掲載されたエッセイを改稿。