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雪、詩、白の譜(糸井茂莉『ノート/夜、波のように』)

 今日は夕方から雪が積もりはじめた。家に着くまでに通りの往来も少なくなり、いまいる部屋から耳を澄ましても、車の音はもう聞こえない。
 耳を澄ましても静か、という時間がいちばん落ち着く。

 気持ちが静まるときにだけ波が引いてゆく、わたしの一部であるはずのひと気のない明るい浜辺がどこか遠くにあり、砂の奥にふだん隠れていたものが、波が引いたおかげでやっと見えてくる。
 それはたぶん甘く曇ったシーグラスか、割れずに残っていた小さい貝殻か。それは自分が埋めたものでもあり、もう地図には載らない海岸から誰かが流したものかもしれない。
 手のひらに包むたびにほのかに明るくて、ひんやりとする。そんな親しくて遠く、遠くて近い、宝物のような詩集が、わたしにはまだいくつかある。

 糸井茂莉さんの『ノート/夜、波のように』(書肆山田)もそんな一冊だ。
 この詩集には、まず100ページにわたって、一ページに一篇ずつ、短い散文詩が並ぶ(その作品群のあとに続く「補遺(いつかある日に作るための献立)」も眺めているだけで胸が高鳴る素敵なメニュー……)。
 未完の長い物語の一片を思わせる各篇は、「眠り」と「夜」をめぐる思考と感覚と体温の溶け合う変奏となって、夢や水や火や光という深い瞑想の時間の奥へと流れてゆく。直感と論理の縁を行き来する、月のように澄み、甘美なまでに醒めた言葉。

 ……と、こうして、少しでも印象を書きつけようとするたびに、どう書いても、この魅力を掬うことはできないのだと、また愛しく思う。
 一見、こまやかな陰翳を持つ硬質な言葉が音や意味の連鎖によって、別の言葉を軽やかに招き、紙のうえにしだいに浮かぶ映像と旋律のなかで、言葉たちはお互いの香りや色彩を開き合う。
 そんな言葉の色香と、それがあふれ出るのを抑えようとする冷えた理性。それらがせめぎ合いながらも、ゆっくりと繊細に溶け合う贅沢な時間と空間へと、読むたびに、ただ、引き込まれてしまう。
 何度読んでも、やはりかっこいいな……と思える、ほんの数冊のうちの一冊。

 この詩集についてはもっと丁寧に触れて、考えてみたいとも思っている。誰のためでもなく、自分の詩を考える入口として。

 過去と現在の作家や詩人の作品から刺激を受けることは、わたしにとって、詩を続けるうえでは欠かせないこと。詩を読み、書きはじめた頃から、つねにそう思っている。
 何も読まなくても、外から吸収しなくても、自分のなかから自然と詩の言葉が限りなく出て来る、と信じるのは、わたしには、不遜なことだとも感じられるから。

 わたしがとくに惹かれる書き手たちはおそらくみなそれぞれに、読書の経験や言葉の習得などを通じて、言葉自体に宿る長い時間の流れに触れてきた人たち。
 書くことへの情熱と、言葉自体への敬意をそこに感じる作品をなぜか、いつも好きになる。

 とくに奇をてらったものではない。しかし「言葉はこんなことができるんだ……」と、言葉の領域の広がりや深みや、ときには本来の姿を気づかせてくれる灯台に似た文章。
 そんな遠くて近く、近くて遠い憧れが、いつもわたしの手を引いてくれる。

 今日は、「雪」から思い出したページを引用したい。

 ただ、引き込まれる。深く眠るように。
 そんな雪の夜が、いまも変わらずにあることに感謝しつつ。
 

しろのふ、と書いて、シロノフという国を想い、雪の荒野に果てしなく続く線路と白樺の林を想像するが、シロノフは人の、男の人の名であるかもしれない。しろのふ、と書いて今、眠れないこの夜に綴る白の譜を始めようとする。雪、紙、羽、花、雲、息、石、骨。それぞれの固さと柔らかさが、夜の意識のただなかを浮遊しながら落下し、それぞれの位置をきめようとすると、白と白の放つ強烈な光りに私の譜はばらばらにほどける。シロノフの雪原を白い息を吐いて行く人がいる。

雪のシャルトルから戻って、夜、さざ波のようなものに揺られている。斜めに雪が降って、それを駅のホームから見ていた。通過する者となってCHARTRESの駅名を無意識に目に焼きつけて、素っ気ないアナウンスのあとに電車が入ってきた。一瞬、通過される者となって棒のようにあった。白い湿り気がここまで押し寄せてくる。大聖堂のかたわらに立ちすくんで、それから雪が降り始めた。別にシャルトルでなくてもよかった。ただ、シャルトルの暗い陰画を反転して浮かびあがる、ここからの記憶のうつわのやわらかい縁に、少し苦しいぎざぎざの、さざ波のようなものが押し寄せ、白。沈んでいく白の、おちていく身体の、取り戻しようもない隙間がひだとなって歪んで、救いにも似た闇が雪のかわりに巻きついてくる。

ともに、糸井茂莉『ノート/夜、波のように』(書肆山田)より





 

 

→メモ:一通の白い羽根(宇佐見英治「恋文」)