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労働という監獄でケアを叫ぶ。

 労働は「悪」であると言いたいが、ご飯を食べるためにはしなくてはいけないものだろう。だが、一日の約半分は労働及び労働に関係することに使われている。ならば、この半日では可能な限り、安心して仕事をしたいものである。
 しかし、新自由主義(厳密な使用法では無いので「的」としておく)的価値観が広がる中で、同じ会社内でも常に競争に晒されてしまっている。現に私もまたその一人である。たとえ、チームプレーだとしても、可能な限りに自分の手柄にしたくなるのは、この経済的な空気からすれば仕方ないだろう。
 こんな競争に一日の半分を費やす中で、あえて私は職場で「ケア」を叫んでいきたい(ここで言うケアはキャロル・ギリガンから始まる「ケアの倫理」を念頭に置いている)。競争があることは、すなわちその競争に負ける人がいることを含意する。加えて、競争の過程で、しわ寄せ(パワハラ等)を受ける人も少なからず出てきてしまうと思う。
 「飯を食べるための手段でしかない」仕事によって、自分の人生を削られるような人がいたら、すぐに何かできる訳では無いが、まずはその存在を気が付くことから始めたい。
 会社という組織にいる以上、私達は庶務の方に、営業の方に、技術の方に、清掃の方に、ビルをメンテナンスして下さる方にケアされているのであり、その事実を今一度、噛みしめたい。

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