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意味のないことは実は意味がある

僕はただの大学生に過ぎないのだが、ここまでの人生で一つだけわかることがある。それは"意味のない事こそ本当に意味があるということだ"

一見これは矛盾しているように感じるだろう。勿論言葉上では矛盾している。しかし大切なのはそこではない。僕が言いたいのは、自分にとって価値のないものと思っている事こそが実は自分にとっての価値をもたらすのだ。

よく「自分の興味のあることだけやった方がいい。」なんていう人がちらほらいる。僕はそれを反論したいわけではない。実際には自分の興味のあることに取り組み、極めることは素晴らしいし、それは僕の望むことでもある。しかし同時に自分の興味のあることだけをやるということは、そのもの自体に限界を作ることと同義だということを強く主張したい。

そもそも興味があることというのは、ひどく抽象的ではあるが、概念としてボンヤリと、しかし個人の中ではその輪郭ははっきりと明暗を分かつだろう。しかしその線引きというのはやはり曖昧で、それを個人の裁量で分かつというのはある種の限界を認める行為だ。確かに人間にはあれもこれもやるゆとりはないだろう。しかしその時間に囚われていること自体、逆説的に一つのことを本当に極めることはできないというのと同義なのだ。

ここまで長々と言っているわけだが、根本の意味のない事こそ実は意味があるということについて言っていきたい。これは先の話につながるわけだが、物事というのは一つに定めることができないと個人的には思う。すべての事象が複雑に絡まりあっているのだ。僕たちが今、物理、政治、心理学など言っているものは所詮、人間の決めたくくりでしかなく、本当のところはそれに収まるわけがないのだ。また一見関わりのないのないような事も本質を突くことで、アイデアとして還元することができる。

こんなことをいっても理解は難しくなるだけだから、それぞれ例を出してみる。

前者の例、つまりいろんなものが絡み合っているという点において「歴史」というものを挙げたい。歴史と言っても複雑であることは承知の上だが、例えば、国の興亡、文化の形成などの議論には必ずと言っていいほど、「地理学」的要素があげられる。これだけでなく「政治学」も必要とされる。もっといえば言語学がなければ当時の文献を参照できず、心理学などを用いれば深く考察できることは間違いないところだろう。

次に後者の一見関わりのないような事については、日本人初のノーベル賞受賞者である、湯川秀樹さんの例を挙げさせていただく。僕はあまり詳しいとまでは言えないので、あくまでさわりのようなものとなるが。

湯川さんはノーベル賞のなかでも物理学賞をとられている。その研究テーマは「中間子理論」と呼ばれるものだ。これを説明すると、通常、原子の中には電子、陽子、中性子が存在している。このうち電子はー、陽子は+の電気を帯びており互いに結びつけることができる。これは理解できるだろう。そして彼の論文では中性子同士を結び付ける「中間子」というものの予測がなされていた。

ここまで考えると彼は、純粋な物理学者といえる。実際にそうではあったが、彼は同時に仏教についても興味が深かった。一見これらは関りがないように思える。しかしこの中間子理論というのは仁科という人物の助言こそあったが、この仏教というのにも大きな関りがあった。それは仏教の中でも色即是空という考え方だ。この考え方は「目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る」というものだ。(Wikipedia 引用)この考え方が中間子という存在の創造に大きく役立ったというのはよく分かるだろう。そして仏教というのは現在の物理学の考え方と合致しているという。

これは稀有な例かもしれないが、実はつながってないようでつながっているということは多く存在する。だからこそ自分で線引きして自分の陣地内のことしかやらないというのは、かえって自分の本当に知りたいことから遠ざかってしまうのではないだろうか。

自分が興味があることをするという本当の意味は様々なことを知り、それを自分の興味へと還元する事で、今までたどり着けなかった境地へたどり着くことではないだろうか。僕はそう思う。


意味のないことは実は意味があるのだ。遠回りして何が悪い。人生急がば回れ、これを肝に銘じたい。

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