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私たちの不安の根源はどこからきて、それはどうすれば解消されるのか?

現代人をたとえると、ブレーキのない車に乗って走りながら、座席に座って呼吸法をしたりヨガをして心を落ち着けるようなことをしているように見えます。

この場合、不安を根本的に取り除きたいのであれば、今乗っている車を降りて、安全な車に乗り替えることが最も効果的な解決策です。

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今回のテーマである、「私たちのOS(=心のあり方)を入れ替える」ということはこれと同じです。呼吸法やヨガなど、どんなに優れた手法を求めて取り入れたところで、それは自分のOSに規定された範囲でしか効果が発揮されません。

自分を動かすOSが入れ替わると、全てのオセロがひっくり返る感覚がします。これはまさに私自身の変化が、自分の内側で起きつつある感覚です。

今から書くことは、私が様々な社会活動に取り組む中で根本的な限界を感じ、すべての経済的な活動をストップして、主夫として日々の静かな日常の観察の中で見つけたことがきっかけになって、仏教の視点で不安を考察したものです。

この気づきをあなたと共有したいと思います。

あらゆる「サービス」は不安OSでできている

「1000円払うので、この商品ください」。私たちがあたり前に使っている「サービス」は、根っこには不安の概念と仕組みからできている、と聞けば、皆さんはどう感じるでしょうか。

例えば、ラーメン屋さんでお金を払ったのに、ラーメンが出てこなければ、私たちは怒りの感情が出てきてイライラします。味が期待していたよりも美味しくなかったりしても同様です。

私たちは、買ったものが支払ったコストに見合うだけの内容なのかどうか、結果に対するアウトプットやパフォーマンスが期待以上なものかどうか、その見返りを常にジャッジしたり考えています。

このように、「サービス」には、結果をすぐに欲しがる心理が隠れていて、これが私たちの気持ちをざわつかせる原因を作っています。その心理や行動の根っこをたどると、不安OSが働いているということです。

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この「サービス」という現象の正体が見えてくると、現代人の日常的なやりとりや人間関係や生き方そのものが、不安OSで社会デザインされていることがわかってきます。コロナウィルスによって不安が新たに生まれたのではなく、OSの働きが表面化して、より見えやすくなっただけだったのだと思えてきます。

本屋さんのビジネス書コーナーには、不安OSで作られた本ばかりが並んでいます。「こうすれば生産性が上がる、コミュニケーション力が上がる、ストレスが解消される、人より優秀になる・・」と、様々な視点や方法論が並んでいます。この「こうすれば●●になる」という表現が、不安OSの特徴です。

多くの人は、不安や不足感を解消しようとして学びをインストールしようとします。しかし、私たち自身が不安OSで動いていることには無自覚でいれば、インストールしたところで、その効果や変化のインパクトは表層的で、私たちはまた次なる新しいものを求めて、永遠に消費し続ける生活へと戻ります。

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不安OSで動いているものは、「願いごとを引き寄せたい」「成長して優秀な人材になりたい」「将来の計画を立てたい」「目標を明確にしよう」「人と繋がりたい」など、動機の裏側に、相手からの見返りや反応や期待が混ざり、すぐに明確な結果を回収しようとします。

これが、「消費者」が量産される現代の社会構造ではないでしょうか。私たちは「サービスを使う主人公」のように見えて、いつのまにか社会やサービスに与えられた中で使われる「サービスの消費者」として、出来事や誰かの行動に反応ばかりして、疲弊して追い回されています。結局のところ、私たちの生きづらさは根っこのところが常にくすぶったままで、解消されずにいるのです。

「不安OSを使っていたことが、自分を生きにくくする原因だったのか!」と気づけるようになると、世界はまるで違った景色で現れてきます。対人関係も、言葉の使い方も、行動様式も、すべてのパラダイムシフトはそこから始まります。

世界の圧倒的なシェアは、安心OSだった

では、安心OSに入れ替えた世界はどんなイメージなのか。この世界は、先に「1000円払って、結果は気にしない」という、結果や見返りや相手からの反応を手放した行動になります。「1000円払います、以上。」という、一方通行的な行動だけですでに完結した世界観です。この行動の結果がどうなるのかはすでに手放していて、信頼して天に委ねられています。
この感覚を、きっと大半の現代人は理解できないし、狂気的な行動として映るかもしれません。

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では、本当に狂気かと言えば全くそうではないのです。

自然界のあらゆる現象は、すべてその仕組みで回っています。太陽は1000円払ってから照らし始めることはないし、リンゴの木はお願いされて実をつけるわけでもないのです。すべてが見返りのない動きから始まっています。

世界で圧倒的なシェアを占めているのは、安心OSだったのです。このことに気づくと、狂気的でマイノリティだったのは人間の不安OSなのだと、見え方が変わってくるでしょう。ブッダに限らず、老子なりアドラーなりキリストが言っていたことは、きっとこういうことなんだろうなと、ようやくその真意が腹落ちできるようになってきます。

この安心OSがどういった姿なのかを具体的にイメージできるように、社会実装してショーケースとして見せているのが「社会実験寺院・寳幢寺」です。「寳幢寺」の「寳」は宝という意味でブッダを表し、「幢」は旗という意味なので、皆さんを安心OSへと導くイメージを象徴的に表しています。

その1つの事業例が「大根300本プロジェクト」です。この活動は、見返りなく300本の大根を私たちに寄付してくれた農家の方から始まり、僧侶が見返りなく祈祷を加え、「お守り大根」にして、見返りなく値段や対価を決めずに、全国に大根を贈ったプロジェクトでした。

OSを取り替えると、このように世の中に生まれていない、従来の「サービス」で構築された枠組みの外側にあるような、新しい世界観でコーティングされた事業アイデアがたくさん発想できるようになります。その能力に最も長けたトランプのジョーカー的存在が、前回「経済活動をしない無所有の僧侶が、なぜイノベーションを起こせるのか?」で書いた「経済活動を放棄した無所有の僧侶たち」です。
そんな存在である僧侶と、その社会装置である全国7万あるお寺のOSをアップデートして、その可能性を発揮させようというのが、私たち日本仏教徒協会の活動です。

神社で1万円の賽銭を入れる「神社ミッション」の本当の意味

カウンセラーの心屋仁之助さんが書いた「お金を引き寄せる体質改善!」というマンガの中で、最終奥義として「神社ミッション」というワークがありました。これは、「神社に行って、誰も見ていないところで、1万円を賽銭を入れてくる。見返りを求めてはいけないし、願いごともしてはいけない」というミッションでした。

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私もこれを試したことがあるのですが、自分のOSが安心OSに入れ替わると、このミッションの本当の意味がわかってきました。「この行動をして、何の見返りに得られるの?」と言う期待の気持ちこそが、自分の世界を狭くして生きづらくさせ、お金のめぐりを悪くしていた元凶だったという話です。

心屋さんもよく「これをしたら、なんか知らんけど、いいことが起きるよ」という言葉を使って表現しています。この「なんか知らんけど」がすごく重要だったということです。

「こうすれば、いいことが起きるよ」や「こうすれば、お金に好かれるよ」では、不安OSで動いているからです。信頼して安心して、結果や期待を手放すことが最も大事なのです。

「トイレを掃除したら金運が上がる」の本当の意味

「トイレを掃除したら、金運が上がる」という「ほんまかいな」と思うような話もよく聞きます。あれも同じように説明がつきます。

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「トイレを掃除したら、金運が上がる」と聞いて、「金運を上げるために、トイレを掃除する」を実践した人は、おそらく効果はあまり出なかったはずです。

あくまで、「なんか知らんけど、金運が上がる」という感覚です。
なぜなら、その期待や見返りをなくすことが必要なので、金運について忘れていたら、いつのまにかうまく行ってた、ぐらいが重要なのだと思います。

誰に褒められもせず、この行動に結果を期待もせず、淡々とトイレを掃除する。そうなると、最終的にいいことがめぐってくる。そういう現象だと私は理解しました。

昔の人は、こういうことの価値や意味を見つけて、「陰徳」と言う言葉で上手に表現していたのだと思います。あらゆるスピードが速くなり、余裕がなくなり、SNSなどで可視化される現代では、この真の価値が見えづらくなっているのかもしれません。

なぜ托鉢するお坊さんに、お賽銭を入れた時「ありがとう」と言うのか

街中で時おり托鉢しているお坊さんに出会うことがあります。その僧侶にお賽銭を入れる時、「ありがとう」を言うのは出した側です。お賽銭を入れても、お坊さんからは大したリアクションはありません。

あの行為の意味が以前はわからなかったのですが、これも同じ意味です。お賽銭を渡す私たちの心の修行というわけです。あくまで、「私からの一方通行の行動」であり、お坊さんからのリアクションや言葉を期待するものではないのです。「お坊さんも感謝するし、私たちも感謝する」というのが、この行為の意味なのではないかと思います。

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こういった安心OSが人々の中に普及していくと、出てきたラーメンがまずいとか、今の政権の対応がひどいなど、イライラして文句を言っている行動や心のあり方が、見返りや期待をした消費者的な行動だったんだなと気づいて、自分自身のあり方が変わってきます。

ミャンマーやブータンなどの海外の仏教国では、長年このような安心OSで社会が回っているからこそ、人々の心の状態は常に安定していて、人々の幸福度がとても高く維持されているのです。私たちは、この状況を日本の日常風景にしたいと思って活動しています。

不安OSで回る社会の中で、安心OSで組織を動かすという挑戦

私たち日本仏教徒協会が運営する「社会実験寺院・寳幢寺」の活動は、すべて安心OSでまわる社会装置を運営しています。なぜなら、仏教の教えを通して人々を不安から解放するために生まれた僧侶やお寺という存在さえも、経済原理の中で「サービス」を提供する存在として、この不安OSの上で動いてしまっているからです。だからこそ私たちは、経済原理から脱した安心OSで活動を表現し続ける必要があるのです。しかし、この活動や概念を、不安OSで物事を捉えている日本の人々が理解し、日本に普及させていくのは、非常に難易度が高い挑戦であると言えます。

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例えば「1000円払ったら会員になれて、こんなサービスを提供できますよ」とか、「瞑想をすれば、こんな効果がありますよ」と打ち出すことの方が簡単で、わかりやすい表現になりますし、多くの方が参加しやすくなるのは理解しています。

しかし、結局その表現を導入した世界観そのものが不安OSで出来ているので、「サービス提供者が消費者をつくる」だけの結果を生んでしまい、世界に本質的なパラダイムシフトは起きません。今はひとまず、値段表示やサービス特典などをできるだけ表現せずに運営していて、模索しながら運営をしています。

安心OSに自分や社会をアップデートする方法

では具体的に、何をすれば私たちは安心OSにアップデートできるのでしょうか。そのために、私たちができることとしては、練習をする場所と実践機会を作っています。こういったブログなどの記事や講座による発信、「大根プロジェクト」のような様々な企画への参画機会、リアウェアネス瞑想や様々なボディワークの受講、オンラインでのグループコミュニティなどの実践の場を作っています。

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この場所や仲間がいなくても、アップデートの練習ができることはたくさんあります。大切なことは、些細なレベルで良いので生活の中に安心OSを取り入れてみることです。

これは、結果や相手からの反応に執着せずに、見返りなく与えてみる実践です。まずは小さなトライをしてみて、「これは不安OSかな?安心OSかな?」と自分を観察してみるといいでしょう。

私たちは、これこそが生きた仏教の本質であると考えています。

日本人の場合、「寄付」や「ボランティア」や「善意」には、「あんなにお世話してあげたのに」という「やってあげた感」という気持ちもセットでついてきてしまいます。これではせっかく良い行いをしていても、不安OSで動いているままになってしまいます。ですので、自分自身の心に正直になり、常に注意を払っておくと良いと思います。

安心OSを実践して意識を向ける練習を重ねていけば、こういったことも解消されて見返りなく振る舞えるようになってきますので、日々の人間関係も楽になったり、長年抱えてきた人生の課題がなぜか消えたりして、きっと生きやすくなっていくでしょう。

長い時間お付き合いくださってありがとうございました。あなたの深いところにある不安や生きづらさが、少しでも和らぐことを祈っています。

一般社団法人 日本仏教徒協会では、みなさんと一緒に安心OSにアップデートして行きたいと思っていますので、興味のある方は一度ノックしていただいて、活動に参画してみてください。




文章: 淺田 雅人一般社団法人 日本仏教徒協会 事務局長)

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社会実験家。大手旅行代理店を経て、NPO法人場とつながりラボhome’s vi を創業。京都市上京区まちづくりアドバイザーでの経験から、京都市上京区を未来の社会実験都市と位置づけ活動。海外100拠点の社会起業家コミュニティImpact Hub Kyotoに従事。従来の社会活動の限界を感じて、無期限の活動停止と主夫生活を経て現職に復帰。「幸福度を高める地域システム構築」と「家族の持続可能性」と「人類の意識の進化」を研究している。


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